君は今日も杜鵑を謡う
ばらばらと人の立ち上がる気配にふと気づけば、教壇に教授の姿はなかった。
いつの間にか講義は終了していたらしい。
真っ白なルーズリーフにため息を零して、僕はお情け程度に出してあったペンケースや教科書を集めてしまい込む。
何とは無しに目をやると学食や購買に急ぐ人の波の中に、一人座ったままの後ろ姿があった。
彼女の事は知っている。
同じ学科で同じクラス、出席番号が一つ前。
はきはきとして、話し掛けにくいタイプではなかったが、彼女の後ろ姿は声をかける事を拒んでいるようで、僕はそのまま鞄を掴んで教室を出た。
「篠原君?」
午後一の授業の休講掲示に大手を振って構内のカフェテリアで涼んでいると、通り掛かった彼女の方から声をかけられた。
「今から、経済史だよね?」
「教授が体調不良で休講になったよ」
「やだ、本当?」
彼女は慌ててスマートフォンを取り出して画面を操作していたが、肩を竦めてその手を下ろす。
「気づかなかった。迂闊だったわ。ありがとう」
「どういたしまして」
「私も珈琲飲もうかな。此処、座っていい?」
僕が頷くと、彼女は空いた席に鞄を置いて赤いお財布を取り出すとレジに向かった。
「篠原君って、比較経済学取ってる?」
「取ってるけど」
「ノート借りても良い?」
「構わないけど、澤井さんの方がちゃんと取ってるような気がする」
「比較はね、題材は面白いと思うんだけど、教授が良い声すぎて眠くて」
「あぁ、確かに」
ひとしきり教授の話題で盛り上がっていると、不意に高く鳴いた杜鵑の声が会話の隙間に滑り込んだ。
途端に彼女は口をつぐんで、まるで一枚の絵画のように、動きを止める。
それは教室でのあの姿に良く似ていた。
「タイムリープって信じる?」
唐突な台詞は、突拍子もなくて、けれど泣き笑いのような彼女に、僕は僅かに肩を竦める。
「それがタイムトラベルって意味なら、あったらいいと思ってるよ」
「私ね、未来から来たの」
「経済学を学びに?」
「ううん。この大学に通いたくて。っていうのは口実で、お母さんと不倫相手が合わないように過去を改竄したくて」
「過去の改竄は罪にならないの?」
「なるよ。重罪。だから、帰れなくなっちゃったの。なんてね」
不意にあっけらかんと告げられた言葉に、僕は目をしばたかせる。
何も言わないで彼女を見ると、彼女は暫く手元の珈琲に視線を落としていたが、耐え切れなくなったように顔をあげる。
「普通、笑って流すところじゃない?」
「そういう反応が欲しいなら、普段一緒にいる友達に貰うのが良いんじゃない?」
「そうね。選択し間違えたわ。篠原君は、そういう人よね」
やっぱり泣き笑いのような顔で呟いて、彼女は珈琲を飲み干した。
「澤井さんは、淋しいの?」
「淋しくはないわ。でも唐突に懐かしくなるの」
何が、と僕は聞かなくて、彼女も何が、とは言わないで、僕達はまた唐突に鳴いた杜鵑の声に耳を傾ける。
「杜鵑って鶯の巣に卵を産んで育てさせるのよね。酷い鳥だわ」
「でも、親鳥が壊す卵はひとつだけだよ」
「解ってるわ。他の卵を蹴落とすのは雛なのよね」
彼女の溜息に被せて弟恋しいと鳴く鳥の声が遠ざかった。
彼女のグラスの中で氷が溶けて涼しげな音を立てる。
「杜鵑鳴くや五月のあやめ草、あやめも知らぬ恋もするかな」
ぽつりと零した彼女の言葉が、爽やかな気配を見せる夏の空に静かに溶けた。