愛情失調症
席に着くなり、早速朝刊を開いた清二の目は相変わらずクマが酷かった。枯れ萎んだ土色の手がやっとの思いで新聞を支えている。
ようやく回復の兆しを見せた日本経済だが、一面を飾っているのは、世に蔓延っている病のことだった。上下左右に揺れる文面を目で追うが、清二にはそれすらも読み取ることができない。
手で持つことを断念した彼は、新聞を突っ伏して読み始めた。
朝食を運んできた相子は、投書欄を読んで頷いている彼の隣に座った。
「ご飯にしましょう、あなた」
彼女の邪魔にならないようにと、清二は新聞を端に寄せ、朝食が置かれるのを待った。
「ん、今日は隣に座るのか?」
「たまにはいいじゃない。いつも正面ばかりじゃ、つまらないでしょ?」
まあ、そうだな、と少しの間を空けて言った清二は、いつもと変わりなく朝食を口に運び始めた。
彼の様子を見ていた相子は、彼の食べるのを手伝ってあげようとも思ったが、それはやめることにした。甘やかすことと愛することは違ってくる。それは、少なくとも甘やかしだと、自分に言い聞かせ朝食を口に運んだ。
清二の方から話題を振ることは滅多になかった。最初にその場に埋め尽くされるのは、相子の声であるが、何か話題がないかと探れば探るほど頭の中は渦巻くばかりだった。廻らせているうちに相子が辿り着いたのは、今まで振ってきた話題だった。近所付き合い、町内会の会合、果てには、歩道を歩く中学生の態度まで、彼女はそれらについての愚痴を食事のときの話題にしていた。こんな話題の何処が面白いのだろうか。清二を不愉快にさせているのではないか。相子の口から勝手に溜息が吐かれていた。
途端に立ち上がろうとする清二に、ハッとした相子は先に立ち上がる。
「あ、ごめんなさい、飲み物ね。私が淹れるわ。何がいい、お茶、牛乳、コーヒー?」
牛乳、と口を開いて見せた彼は、途端に笑みを零した。テーブルの縁に手を添えて、小指、薬指、中指、人差し指、と順番に指を落としていく動作を繰り返す。
「気を遣わせてしまったかな? 世間じゃ、この病の話題で一杯だ。話題を搾り出さなくてもいいんだよ。静かな朝も、悪くはない」
差し出した牛乳をゆっくりと飲み始める清二を、相子はより一層愛おしく思えた。自分はこんなにも愛をもらっているのに、清二には届いていない。髭の濃くなった夫の口元から、彼女は視線を落とした。
「あなた、今日は会社に行くの? 病気なんだし、しばらく休みをもらったほうがいいんじゃない?」
「君に心配をかけるかもしれないけれど、今は休むわけにはいかないんだ。大事なポストを任されていてね。上手くいけば、昇進だぞ」
清二は相子に微笑みかけると、時計に一瞥を投げた。
おっと、と声を漏らす清二が立ち上がるのを、相子は手伝った。ポールスタンドにかけられていた上着を彼に着せ、ネクタイを整えてあげる。
「今日も素敵よ、あなた」
「ありがとう」
玄関先まで彼を送った相子は、いってらっしゃい、とともに彼の頬に接吻した。
仕事という名の義務がある。相子のそれは家事だけにとどまらなくなった。夫がどんなに遅く帰ってきても今まで出迎えを欠かさない。それに足して、今度は朝帰りでも、お疲れ様、と労いの言葉と共に彼を出迎えるようになった。
スーツを着せては、素敵よ。ご飯を食べる姿を見ては、素敵よ。彼がお風呂に上がってきては、素敵よ。不器用ながら、相子は一日に何度もそれを口にした。
清二が休みの日となると、相子は夕食時に彼を外食に誘うようになった。質素な料理しか持て成せない自宅とは違い、相子と清二はワインを飲み交わす。レストランの雰囲気も相まって、不思議と綺麗な話題がテーブルの上を飛び交った。
極め付けは、月に一度のプレゼントだった。特に何かの記念日というわけではなく、日ごろの感謝と愛をこめて、相子は清二に捧げた。
夫に愛を与えたい。その一心で相子は、毎日を清二への奉仕のために費やした。
青みのかかった表に響く鳩の鳴き声が、相子の瞼を上げさせた。いつものように、暗がりの部屋に差し込まれる朝日が清二に降り注がれ、相子は隣にいる彼の存在を確認する。病気になっても、変わらず可愛らしい彼の寝顔に、そっと微笑んだ。
剥がれた布団をかけ直してあげると、相子は彼を起こさないように朝食の支度をしに部屋を出て行った。
彼が病気だと告げられてから、すでに五つもの月を跨いでいた。治る見込みがなければ、一ヶ月で息絶えてしまう病であるだけに、彼が生き長らえているだけで、相子は毎朝の味噌汁を作ることにさえ喜びを感じていた。
朝食の用意も整え、テーブルの上に朝刊を載せる。時計に一瞥を投げてから、相子は清二を起こしにいった。
部屋の中はすっかり明るくなっていた。早朝よりも良く見える寝顔の傍で相子は膝を落とした。
「あなた、時間よ。そろそろ起きて」
いつもと変わらず声をかける。しかし返事はなく、可愛らしい寝顔にも何一つ歪みが生じない。
「今日も会社に行くんでしょ? そろそろ起きないと――」
痩せこけた清二の頬に、相子がそっと手を添えた瞬間だった。人の温もりを大きく下回る冷たさに、彼女は思わず手を引っ込めた。彼の寝顔を見つめて離さず、知らず知らずのうちに自分の頬に触れていた。
あなた、と唇を震わせるが、清二は相変わらずの寝顔だった。
首を振って見せるが、相子の目に映る光景は変わることはなかった。
「あなた……もう起きないと、会社、遅刻するわよ」
起きてよ、と相子がどんなに強く揺すっても、彼は目を開けなかった。
どんなに遅くとも、たとえ朝帰りだとしても出迎えた。一日何度も言っていた、素敵、という言葉も口先なんかではなかった。もっと、もっともっと、伝えたいこの気持ちを彼に贈りたかった。
掠れた声を家中に響かせ、止まらない涙を目に浮かべ、相子は清二の胸に抱き付いた。
灰色の空間におかれた本棚には、書物が綺麗に並べられていた。書斎は彼の聖域であるために相子はそれでも入ろうとはしなかった。ましてや、許可なく入るなんて事は、今になって初めてのことだった。
すっかり老け込んでしまったその顔に、生気は失せていた。
『どうやら、俺は愛を感じなくなってしまったみたいだ。それでも、愛しているからな』
できることなら、夫と同じ病で死を迎えたい――そんな思いを拭っていたのは、相子の頭の中で何度も響いている、清二の亡くなる前日に語られた言葉だった。
『それでも、愛しているからな』
私もよ――何度も繰り返される言葉に、相子は何度もそう返事を返した。
本棚の下段には、数冊のアルバムが並べられてあった。二人の思い出がぎっしり詰まった、この世界で一番美しい本。相子が手に取ろうとすると、ふと背表紙の上部がへこんでいるのがその目に映った。取り出すと、数ページに渡り上端が薄汚れていた。
清二がつけた汚れに指を重ねるごとに、彼の行為が目に浮かんだ。その疲れ切った目で、相子と同じようにアルバムをめくる。何度も。何度も。
彼が探していたのは、昔の写真なんかではないことを相子は感じ取っていた。そしてまた、涙が溢れかえる。あの時に出し切ったはずの涙が、今も尚零れてきた。
嗚咽を漏らしながら、彼女は彼の愛用していた椅子へと座った。彼と重なりたい――唯その思いだけが彼女を放浪させる。
綺麗に整頓された机に突っ伏し、仄かに香る清二の匂いを味わう。暖かく嬉しい気持ちにさせる匂い。
『愛しているからな』
「私もよ、あなた」
相子の目からこぼれる涙は止まらなかった。拭っても拭っても、もういないはずの彼の姿が浮かぶ。包み込む日溜りの心地よささえも彼と重なり、相子は彼がずっと傍にいることを感じていた。
ようやく涙が枯れてくると、相子は上体を起こし暖かな机を撫でた。ふと、その視界の端に、半開きになっている引き出しを捕らえる。
きちんと片付けられていた書斎に不自然なほど、その中は雑襲していた。敷き詰められた紙は、およそ意味を成さない。文章が途中で切れていたり白紙だったり、破れているものもあった。
相子は引き出しの紙をがむしゃらに掻き出しはじめた。部屋に紙を舞い上がらせ、引き出しの奥へと進んでいく。いつまでも湧き出てくる紙に、淡い期待までも膨らみかけていた。
パタリと手を休めた彼女の瞳に、一冊の手帳が映りこんだ。今までに、一度も見たことのない清二の黒革の手帳。
鈍く光るそれを手に取ると、相子は静かに開いた。
手帳は清二の日記帳だった。一番最初に書かれた日付は、相子が医師からの診断を告げられた日。その日から毎日、滞りなく書かれている。
『今日は、久しぶりに君の笑顔を見れたよ』
『どうして、冷たくしてしまうのだろう』
『君は優しく微笑んでくれるのに、どうして、病気が治らないんだ』
『俺は、君のためならなんでもする覚悟だ』
『どうやら、俺は愛を感じなくなってしまったみたいだ』
すっかり枯れてしまったはずの涙が相子の目から滲み出てきた。清二に愛を感じさせることのできなかったことが悔しくて、尽くしても尽くしきれなかったことが空しくて、生き長らえていることだけに喜んでしまったことが情けなく思えた。
――ごめんなさい。あなたはこんなにも愛を感じたかったのに。ごめんなさい。
黒革の手帳を机に置き、相子は涙を流しながらもそれをなでた。
歪む視界を拭うこともできないまま、ふと手帳の最後のページに何かが挟まれているのを彼女は見つけてしまった。これ以上虚しさを覚えるのは辛い。それでも、何が挟まれているのか、その好奇心に勝てることはできなかった。
突然、彼女の涙がぱたりと止んだ。その瞳に映るものは、すでに病気を患っている清二の写真だった。しかし、その隣に映っているのは相子よりもずっと若い女性だった。上手く着飾っているものの、相子の目は誤魔化されない。
再び流れ出す涙。しかし、それは今までの色とは違っていた。
震える手で、相子は手帳を握り締めた。ここに綴られていたことは、自分ではなく写真に写っている女子高生だった。
「私の時間を返して!」
投げつけられた清二の手帳が、床にまかれた紙の上を滑り、彼女を嘲笑う。しかし、嘲笑ったのは手帳だけではなかった。写真に写りこんだ女子高生も、こちらを見ている清二も相子を嘲笑う。
不意に、相子は写真を丸めポケットに押し込むと、書斎を出て行った。
相子が向かった先は、嫁入りのときに実家から運んできた鏡台だった。泣きはらした瞼は、寝不足でできたクマと交じり合いどす黒く、こけた頬の上に吊られている瞳は虚ろとしていた。
彼女の脳裏を付き纏って離れないのは、清二の隣にいた女子高生。夫の愛を奪い、相子の時間までも奪った、彼女の嘲笑が止まなかった。
鏡に映る自分を睨む。自分と自分との睨み合い。相子は目を逸らさなかった。一つの呼吸の後、彼女は不意に化粧水に手を伸ばした。
誰かに会うわけでもなく、外に出かけるわけでもない。それでも、相子はいつも以上に真剣に化粧を施した。清二に見せたどの自分よりも美しく、大人びた着飾りを見せた女子高生よりも美しく、他の誰よりも美しく、彼女は様変わりした。
書斎に戻ってきた相子は夕日の明かりに包まれ輝いていた。散乱した紙を一枚一枚拾い上げ、角をそろえると引き出しの中にしまった。床に落ちているのは、黒革の手帳だけだった。
『どうやら、俺は愛を感じなくなってしまったみたいだ』
清二のなくなる前日に書かれた文が、再び相子を嘲笑する。
しゃがみ込み、手帳を爪弾いた彼女は、途端に意味の成さない叫び声を上げページを破いていった。
愛しているからな――誰を……
愛しているからな――誰を。
愛しているからな――誰を!
つけたばかりのマニキュアは剥がれ、誰よりも美しく施された化粧は涙によって流された。クシャリと握り締められた紙くずを、相子は彼の愛用していた机へと投げつける。
微かな音が耳に触れると、彼女はポケットを弄りライターを取り出した。清二の最後の思い出であり、二度と手にしたくない遺品。ほとんど黒革だけとなったその手帳に躊躇いもなく、相子は火を灯した。
燃え滾る炎の熱とは裏腹に、相子の想いは冷めていった。
黒革を本棚に戻し、書斎が燃え盛ることに構いもせず、相子は寝そべる。やぶったページの一部が今も尚彼女を嘲笑い続ける。
「どうやら、私も愛を感じなくなってしまったみたいだわ」
【完】