魔法使いの弟子は、師匠に恋をしている
魔法使いになるには、魔法を使えるだけではいけない。
まず、誰か一人の魔法使いに弟子入りする。
そして、弟子になった者は師匠と共に旅をする。
森、山、海、砂漠、街。
師匠が選んだ土地を巡りながら魔法を学び、魔法使いとして必要な知識と経験を身につける。
そうして弟子が十分に成長したと師匠が認めたとき、初めて卒業試験を受けることができる。
つまり、魔法使いの卒業試験とは、国や団体が決めるものではない。
師匠自身が「もう一人で歩ける」と認めたときに、初めて魔法使いになれるのだ。
「……師匠」
「なに?」
「私、今日こそ飛べると思います!」
「うん、飛べるよ」
魔法使いの弟子になって三年。攻撃魔法も、治癒魔法も、簡単な召喚魔法だって使えるようになった。
それなのに、私の手には一本の古びた箒。私は未だに、箒で空を飛べない。
「じゃあ、やってみようか」
師匠が少し離れたところで腕を組む。銀色の美しい瞳を細め、柔らかな笑みを浮かべていた。
「昨日も言いましたけど、落ちたらどうするんです?」
「受け止めるから」
「……本当ですか?」
「もちろん」
あまりにも迷いなく言われて、胸が妙にざわついた。私は誤魔化すように箒へまたがる。
「いきますよ!」
「君ならできるから」
毎日、諦めずにそう言ってくれる師匠の期待に応えるために。
杖を握り、深呼吸する。手に魔力を流すと、その魔力が箒全体へ伝わっていく感覚がした。
そして、地面を蹴る。身体が、ふわりと浮いた。いつもなら、ここで魔力が急に消えてしまい、すぐに足が地面についてしまう。
「……!」
飛んだ。本当に、飛んだ。
少しずつ高度が上がっていく。やがて、木々の梢がすぐ目の前に見えた。
「師匠!エリオット師匠!」
嬉しくなって、思わず振り返る。その瞬間だった。箒が大きく揺れた。
「わっ──!」
「危ない!」
身体が大きく傾く。落ちる。
そう思った瞬間、背中から腕が回った。反射的に目をぎゅっと閉じる。
けれど、いつまで経っても地面に叩きつけられることはない。恐る恐る目を開くと、私は師匠に抱き留められていた。
「……振り返っちゃ駄目でしょ?」
「す、すみません……」
「まあ、でも初めてここまで飛べたね。偉いよ」
耳元で声がして、頭を優しく撫でられる。
近い。近すぎる。それに、なんだかいい匂いがする。
「……師匠」
「ん?」
「近いです!」
「ああ、ごめん」
すぐに腕が離れる。けれど身体はまだ熱くて、私は慌てて手で顔を仰いだ。
そんな私を見て、師匠が小さく笑う。そしてもう一度、今度はいつものように頭を撫でてくれた。
私が何かを達成するたび、自分のことのように喜んでくれる。それが何よりも嬉しい。師匠の弟子になってよかったと思える瞬間だった。
師匠に認めてもらって、卒業する。それが魔法使いになるための、当たり前の道なのだから。
──このときの私は、まだ知らなかった。
いつかその「卒業」が、私にとって一番聞きたくない言葉になることを。
***
深い森へ入った。魔物も生息している森だけれど、師匠が私に合わせて、比較的弱い魔物しか出ない地域を選んでくれた。
私でも簡単に倒せてしまうほどで、少しずつ自信もついてきていた。
──なのに。
「ほんと、火属性が苦手だね、ルチア」
師匠が、揶揄うように笑った。
木を積み上げ、その中心に火を灯そうとする。杖を構えて魔力を流す。けれど、何度やってもうまくいかない。小さな火花が散るだけで、炎にはならなかった。
「風は得意なのに……どうしてでしょう」
先ほどまでの自信が、急速に縮こまっていく。
俯けば、二つに結んだ赤毛が肩から垂れた。せっかく赤い髪をしているのだから、火属性くらい得意であってほしかった。
「魔力はちゃんと流れてるから。あとは力を抜いて」
「力を抜くって、どうやるんですか?」
「こう」
師匠が、後ろから私の手を包んだ。ただ、力を抜かせるために手を重ねただけ。それだけなのに。意識が、全部そこに持っていかれる。
あー。身体が熱い。師匠はそんな私のことなど気にする様子もなく、ゆっくりと杖の角度を直していく。
「……師匠」
「ん?」
「近いです」
「もうちょっと我慢してね」
先日も、こんなことがあった気がする。そのときも師匠は、何でもないことのように笑っていた。
私の手がどんどん熱くなっていく。それに合わせるように、流れていく魔力の温度も上がっていく。
「そう。もっとゆっくり」
耳元で囁かれて、心臓が跳ねた。
「し、師匠……」
「ほら」
緊張で見ていなかったが、杖の先に小さな炎が灯っていた。
「……!」
魔力そのものの温度を上げる。それが大事だったのだ。言葉だけで説明されていたら、きっと私はまだ理解できていなかった。
師匠が手を重ねてくれたから、感覚として分かった。
「できた……!」
嬉しくて、思わず振り返る。
──近い!!
師匠の顔が、すぐ目の前にあった。銀色の髪が頬に触れて、くすぐったい。近すぎて、息をすることさえ忘れてしまう。
師匠も何も言わない。ほんの一瞬だけ、二人とも固まった。先に離れたのは師匠だった。
「よくできました」
そう言って、いつものように微笑む。
胸の奥が、ざわついた。痒いような。苦しいような。でも、嫌な感じではなかった。
私はその感覚を誤魔化すように、口を開いた。
「し、師匠は……何歳で卒業したんですか?」
「僕は父が師匠だったから、幼い頃から魔法を教え込まれていたんだ。十歳くらいには、『卒業』って言われたなぁ」
「十歳!? すごいです! さすが師匠! だからこんなに若くして、師匠になれたんですね」
思わず声が裏返る。
魔法使いとして一人前と認められたあと、師匠になるためには試験を受けなければならない。それは国が定めた試験で、合格すれば自分の弟子を取ることができる。
私と師匠は、そんなに歳が離れているわけではない。それなのに、師匠のことをずっと年上のように感じてしまうのは、それだけ圧倒的な力量の差があるからだろう。
「ルチアは、師匠になりたいの?」
「はい! 私も、魔法使いになりたい子と一緒に、その子の夢を叶えてあげたいです。以前も話しましたが、私自身、ずっと魔法使いになるのが夢だったので」
弟子入りする時に、夢の話は師匠にしていた。
「魔法が、好き?」
「大好きです! だって、すごいし、かっこいいじゃないですか!」
すると師匠が、ぷっと吹き出した。
何がおかしいのか分からず首を傾げる。
「すごいとか、かっこいいとか。ずいぶん素直な感想だね」
「だ、だって本当にそう思うんです!」
もしかして、語彙力がなかっただろうか。少し恥ずかしくなって俯く。すると師匠は、ふっと目を細めた。
「ルチアの赤い目が、キラキラしてたから。可愛くて。」
「か、可愛い!?」
「うん。可愛いよ」
整った顔で、さらりと「可愛い」なんて言う。そういうところだ。師匠は、そういうことを平気で言う。
これでは、勘違いしてしまう女の子だってきっと多いはずだ。
これは、私にだけじゃない。きっと、誰にでも言っている。そう思うのに。胸の奥では、どうしようもなく嬉しかった。
「……ありがとうございます!」
誤魔化すように笑う。
「じゃあ、今日はもう寝ようか」
師匠は立ち上がると、地面に杖を向けた。淡い光が広がり、土がゆっくりと形を変えていく。
あっという間に、小さな家ができあがった。中へ入ると、師匠は持参していた寝袋を敷いていく。
いつか私も、こんな魔法が使えるようになりたい。いつか、師匠みたいな魔法使いになりたい。
師匠を見る私の目には、いつだって憧れがあった。
***
夜になって、私たちは小さな村へ辿り着いた。
村に宿屋があるなら、野宿をする必要はない。だからいつも宿屋を探す。
今日もそうだった。ただ、そこで、ちょっとした事件が起きた。
「部屋、一つしか空いてないんですよ」
宿屋の店主が、申し訳なさそうに言った。
私は固まった。そして、恐る恐る隣にいる師匠を見上げる。
「じゃあ、一部屋でいいです」
師匠は、何でもないことのように答えた。
「いいんですか!?」
「外で寝るときは、いつも隣だよね?」
「そうですけど……」
そうだけど。寝袋とベッドは、訳が違うというか。うまく説明できなくて、私は口をぱくぱくと開閉させる。
「嫌?」
「嫌じゃないですけど!」
嫌じゃない。嫌じゃないけれど。私の心臓が持つかどうか。すでに、どくどくとうるさい。私は胸元を押さえながら、師匠と一緒に部屋へ向かった。
部屋にはベッドが一つだけ。それを見た瞬間、心臓がまた大きく跳ねた。
「おやすみ、ルチア」
「……ちょっと、師匠」
「ん?」
首を傾げる師匠に、私は戸惑いを隠せない。
だって──。
「弟子を床で寝かせるんですか!?」
私がいるのは、床に敷いた寝袋。対して師匠は、当然のようにベッドに横たわっている。
思わず大きな声を上げてしまい、近所迷惑だと気づいて慌てて口を塞いだ。
「男女で同じベッドは駄目でしょ」
「…………」
「何?」
「……なんでもないです」
ちょっと。ほんのちょっとだけ、残念に思ってしまった。どうしてだろう。でも、よかったのかもしれない。同じベッドでなんて、緊張して眠れそうにない。
私は気持ちを落ち着かせるように、床に敷いた寝袋へ潜り込んだ。
「ふふっ」
「……?」
師匠の笑い声が聞こえて、顔を上げる。
「うそうそ。ルチア、おいで」
師匠が、こちらへ手招きをしている。
「え、えっ……ベッドにですか?」
心臓が、また暴れ始めた。どうしてこんなに緊張するんだろう。
師匠は何も言わず、私を待っている。私は恐る恐る立ち上がり、ベッドのそばまで歩いていった。
そこで立ち止まる。次の瞬間。手首を掴まれた。
「わっ……!」
ぐい、と引き寄せられる。身体が傾き、そのまま師匠に抱きしめられる形でベッドへ倒れ込んだ。
驚いて声も出ないし固まっていると、耳元で、師匠の声がした。
「おやすみ、ルチア」
そう言うと、師匠は私をベッドへ残したまま、入れ替わるように立ち上がった。
「え……師匠は……?」
「だから、男女で同じベッドは駄目でしょ」
「え?」
師匠が、楽しそうに笑う。
「もしかして、僕と寝たかった?」
「ち、違います!」
顔が一気に熱くなる。私は逃げるように布団を頭までかぶった。また、師匠の笑い声が聞こえる。
──絶対、楽しんでる。
でも。しばらくして、私は布団からそっと顔を出した。
「……師匠……ありがとうございます」
恥ずかしくて、また布団を顔まで引き上げる。
「おやすみ、ルチア」
師匠は、まだ笑っていた。私は布団の中で、熱くなった頬を両手で覆う。
抱きしめられた感触が、いつまでも消えてくれなかった。
***
新たな街に辿り着き、師匠は数週間ここに滞在することを決めた。
魔法使いは、街で困っている人から依頼を受け、魔法でそれを解決し、その報酬をもらう。
この世界で魔力を持つ人間は多い。けれど、魔法使いは少ない。魔法使いが一人もいない街だってある。魔法は、学ばなければ扱えない。
こうして師匠に魔法を教えてもらえることだけでも、私は幸せなのだ。
「掲示板は……ここか」
魔法使いへの依頼は、どこの街にもある掲示板に貼り出されている。私たちは掲示板の前に立ち、依頼書を眺めていた。
「まあ! エリオット、久しぶり!」
師匠の隣から女性の声がした。私は顔を上げる。
「ロザリーさん! お元気でしたか?」
ロザリーと呼ばれた女性は、さりげなく師匠の肩に触れた。
「元気よ~。つい三日前に弟子を一人、旅立たせたの。胸を張って送り出せたわ。あなたも弟子を取ったの?」
「ええ。この人はルチア。僕も、胸を張れるくらい良い弟子です」
嬉しい。師匠が私のことを褒めてくれた。それなのに──。
私は、ロザリーさんと師匠の距離の近さから目を離せなかった。
「女の子は初めてじゃない?」
「……そうですか? たまたまですよ」
ロザリーさんが、そこで初めて私に視線を向けた。金色の瞳が、頭の先から足元まで私を眺める。
けれど、興味を失ったように、すぐに視線を逸らされた。
なんだろう。なんだか、すごく感じが悪い。
「試験のときの話をしたいわ。酒場でも行きましょうよ」
「……すみません。今日はルチアと依頼を受けますので、また別の機会に」
「昔からあなたって、優しかったものね」
ちらりと、ロザリーさんが私を見る。師匠の昔を知っている。そのことを、わざわざ私に見せつけられたような気がした。
「では、ロザリーさん。また」
「また会いましょう、エリオット」
ひらひらと手を振りながら、綺麗な金色の髪が遠ざかっていく。
どうしてだろう。胸が、もやもやする。師匠と知り合いの女性が話していただけなのに。
「ルチア?」
師匠が屈んで、私の顔を覗き込んできた。パチリと目が合う。
何か言わなければ。でも、何を言えばいいのか分からない。
「さ、さあ! 依頼を受けましょう、師匠!」
無理やり笑顔を浮かべると、師匠は少しだけ不思議そうな顔をした。けれど、何も聞かずに掲示板へ視線を戻した。
あの人は誰なのか。師匠とは、どういう関係なのか。聞けなかった。
そのあとは、簡単な魔法すら上手く使えなかった。
いつもなら絶対にできるはずの、風を起こす魔法でさえ言うことを聞いてくれない。そよ風程度の風しか起こせず、依頼の最中も何度も失敗した。
私の変化に気づいていた師匠は、依頼を終えて報酬を受け取ったあと、入った飲食店で首を傾げた。
「今日、どうしたの?」
ずっとロザリーさんのことが気になっている。そんなこと、言えるはずがない。
依頼にも集中できず、簡単な魔法すら失敗する。こんなことで魔法使いになれるのだろうか。
「いえ……何もありません」
「元気ないよ。怒ってる?」
「怒って……ません」
怒っていない。悲しくもない。それなのに、この胸に引っかかっているものは何なのだろう。自分でも答えが分からなかった。
「全然、僕と目が合わないけど」
「……ごめんなさい」
下を向いたまま、師匠の顔を見ることができない。呆れられているだろうか。顔を見るのが、少し怖かった。
「……ルチア。魔法使いは、マイナスな思考を持っていると魔力を引き出せないって、教えたよね?」
優しい声が落ちてくる。
「……はい」
「立派な魔法使いになるには、自分の気持ちに向き合わなきゃいけない。そして、自分がどうしたら、それをプラスに変えられるのか考えないと」
顔を上げると、師匠がまっすぐ私を見る。
「それも、修行の一つだよ」
以前、召喚した善良な魔物が傷つけられてしまったとき。泣いてしまった私は、しばらく魔法が使えなくなった。
そのときに師匠から教えられたことだった。
怒っていても。悲しくても。憂いていても。怖くても。苦しくても。
その感情から逃げるのではなく、気持ちを落ち着かせる。そして、喜びや楽しさ、幸福感や感謝へと変えていく。
それが、魔法使いとして自分の魔力を扱うということ。
「……見ていたら、嫌でした」
「何が?」
口に出してみる。すると、胸の中でもやもやしていたものが、少しずつ形になっていく気がした。
「師匠が、あの人と話しているのが……嫌だと思ってしまいました」
言葉にした瞬間。顔が、一気に熱くなった。これは──嫉妬、だ。自分で認めてしまった。
師匠が誰かと親しそうに話しているのが嫌だった。私の知らない師匠の過去を、その人だけが知っていることが嫌だった。
その感情に名前をつけるなら。きっと、嫉妬だ。
「なるほど」
師匠は顎に手を添え、少し考えるように視線を落とした。
「ロザリーさんは、僕が師匠になるための試験を受けたときに一緒だったんだ」
「……そうなんですか」
そりゃ、師匠も困るはずだ。弟子から嫉妬されるなんて。
「……すみません」
恥ずかしくなって、顔を覆おうと手を上げる。けれど、その手を師匠が握った。
「謝らなくていいよ」
「……え?」
顔を上げる。師匠は、私の手を握ったまま微笑んでいた。
「その感情は、好きに変換すればいい」
好き。その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
「え、ええ!? す、す……」
「そのやきもちは、僕のことが好きっていう気持ちにすればいいよ」
頭の中が、真っ白になった。好きだからこそ、嫉妬する。それは、分かっていたつもりだった。でも。改めて言葉にされると。
私は。私って、師匠が好きだったんだ。
ずっと、憧れだと思っていた。魔法使いとして尊敬しているだけだと思っていた。でも違った。
師匠が誰かと親しくしているのが嫌で。私だけを見てほしいと思って。知らない過去を持っていることが、寂しくて。
そんなことを思うくらい。私は、師匠のことが好きだった。
「それで、魔法が使えるでしょ」
師匠は、何でもないことのように微笑んだ。私は、呆然と師匠を見つめる。
だって。弟子に好意を寄せられて、師匠は困らないのだろうか。
そんな私の気持ちなど知らないように、師匠は何も言わず、目の前のサラダを食べ始めた。
私はもちろん、食欲なんて湧かなかった。頭の中では、ずっと同じことばかり考えている。
これって。私、告白しちゃったんだよね?
次の日。師匠は、何も変わらなかった。
「おはよう、ルチア。今日も依頼を受けていくよ」
「お、おはようございます。わかりました……」
師匠はいつもと変わらない様子で、掲示板へ向かって歩いていく。私は、ただその後ろをついていくしかなかった。
昨日、師匠に言われたことが頭から離れない。思い出すたびに、顔が熱くなる。なのに師匠は、何も変わらない。まるで、昨日のことなんて何もなかったみたいに。
それから数日にわたって、私たちはたくさんの依頼を受けた。
私の調子はすぐに戻った。それどころか、今までできなかった魔法まで使えるようになっている。
もしかして、師匠のことが好きだと認めたからなのだろうか。そんなことを考えるだけで、また胸が熱くなった。
「ルチア、この依頼は一人で挑んでみようか」
掲示板の前で、師匠が一枚の依頼書を指差した。街から少し離れた場所にいる、強い魔物の討伐。今までなら、師匠の手助けを受けながら倒していたような魔物だ。
「どんな魔物か、書いてないですね……」
「みんな、近づかないんだろうね」
師匠が依頼書を眺めながら言う。
「ルチア、できる?」
「……はい。やらせてください」
「そう言ってくれると思ったよ」
師匠が、いつものように微笑む。
「僕は近くにはいないからね」
「はい!」
師匠の見守りすらない。本当の意味で、一人での挑戦。
私は思わず息を呑んだ。怖くないと言えば、嘘になる。
それでも。やってみたい。師匠に認めてもらえる自分になりたい。そして、いつか師匠と同じような魔法使いになりたい。
私の手には、一本の古びた箒。師匠は少し離れたところで腕を組んでいる。銀色の美しい瞳を細め、柔らかな笑みを浮かべていた。
「死んだらどうするんです?」
「ルチアならできるから」
「……本当ですか?」
「もちろん」
あまりにも迷いなく言われて、胸が妙にざわついた。私は誤魔化すように箒へまたがる。
「では、行ってきます!」
「うん。ルチア、頑張れ」
師匠の期待に応えるために。杖を握り、深呼吸する。手に魔力を流すと、その魔力が箒全体へ伝わっていく感覚がした。
そして、地面を蹴る。身体が、ふわりと浮いた。そのまま少しずつ高度を上げていく。やがて、街の屋根が見え始めた。
「師匠! エリオット師匠!」
嬉しくなって、思わず振り返る。手を振ると、師匠も手を振り返してくれた。その姿が、少しずつ遠くなっていく。それでも私は、箒を操りながら前へ進む。
すると、最後に師匠の声が聞こえた。
「もう、振り返っても大丈夫だね」
「……!」
思わず、笑った。
初めて飛んだときは、振り返ったせいで落ちそうになった。でも、今は違う。私はもう、前を向いて飛べる。
師匠に見守られながら。師匠のもとから、少しずつ離れて。
依頼書に書かれていた場所へ、真っ直ぐ飛んでいく。街を出て、森の中へ。魔物のいる場所は、すぐに分かった。かなり目立っていたからだ。
「私の苦手な、氷属性か……」
魔物の周囲にある木々は、すべて凍りついていた。見た目は、うさぎをそのまま巨大化させたような姿。薄水色の毛並みには、ところどころ氷の欠片が付着している。
氷には火が有効。だけど、生憎私は火属性が苦手だ。
「試練っぽいですね、師匠!」
きっと師匠なら、ここで「できるよ」と微笑んでくれる。そんな師匠の姿を思い浮かべながら、私はゆっくりと下降していった。
魔物が私に気づく。次の瞬間、叫び声のような鳴き声を上げ、こちらへ向かって魔法を放ってきた。氷の塊が、いくつも飛んでくる。
「わっ!」
箒を操って避けながら、杖へ魔力を集中させる。魔力の温度を上げる。もっと。もっと熱く。それを一つの塊にして、投げるようなイメージ。
「いけー!!」
杖の先から、火の塊が放たれた。炎が氷の塊へぶつかる。
瞬間──。バシュッ!
激しい白い蒸気が森一帯へ広がった。
「降りたら危ないか……。このまま上空から──」
そう思った、そのとき。蒸気の中から、巨大な影が飛び出してきた。
「うわっ!」
魔物だった。ものすごい勢いで跳び上がり、私と同じ高さまで一気に迫ってくる。
「ジャンプ力すごっ!」
魔物が口を大きく開いた。
次の瞬間、冷気が一気に吐き出される。
「風は得意なの!!」
私の杖から暴風が巻き起こる。
風は、火よりも複雑なイメージを必要としない。だからこそ、私が一番得意な魔法だ。
強く、強く。魔力を込める。暴風が氷の息を押し返し、そのまま空へと吹き飛ばした。
「やった!」
魔物の身体が宙で大きく傾く。空を飛べるわけではない。そのまま、地面へ向かって落下していく。
「練習の成果、見せてあげる!」
次に思い浮かべたのは、師匠の得意な土魔法。土魔法は、何よりもイメージが大切だ。
何度も、何度も。師匠に見せてもらった。私も何度も練習した。
もっと。もっと。もっともっと、もっともっともっと、鋭く。
「うりゃあああ!!」
魔物の真下。地面が大きく盛り上がる。
土が集まり、一本の鋭い山へと変わっていく。先端が、どんどん鋭く。どんどん高く。落下してくる魔物へ向かって、伸びていく。
「──!」
魔物が呻く。そして、そのまま土の先端へ落下した。
鋭い土の山が魔物の腹部を貫く。けれど、血は飛び散らなかった。冷気によって、傷口も土も一瞬で凍りついていた。
「……や、やった」
信じられない。私は、ゆっくりと杖を下ろす。
「できた……!」
雲ひとつない青空へ向かって、思わず拳を突き上げた。
一人で。師匠の手を借りずに。私は、依頼をやり遂げた。
「ははっ。合格だよ」
「……え?」
頭上から、聞き慣れた声がした。
声のした方へ顔を向ける。そこには、箒の上に立った師匠がいた。腕を組み、嬉しそうに拍手をしている。
「え……ご、合格?」
「卒業おめでとう、ルチア。僕は、認めるよ」
師匠が、柔らかく微笑む。
「……ほ、本当ですか?」
「もちろん」
いつもの返答。いつもの笑顔。師匠は、嘘なんてついたことがない。
私は認められたんだ。一人前の魔法使いとして。
「し、師匠ぉぉ……!」
勝手に涙が溢れてくる。
ずっとなりたかった。ずっと夢見ていた。魔法使いに。今、なれたんだ。
「よく頑張ったよ。一人で、なんでもできるようになったね」
師匠が優しく笑う。
嬉しい。嬉しいはずなのに。私の乗っている箒が、大きく揺れた。風なんて、吹いていない。なのに、身体のバランスが崩れそうになる。
「動揺してる?」
「ちが……なんでしょう……」
自分の気持ちが、まだ分からない。でも、今の言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが刺さった。
もう、一人で旅ができる。もう、弟子である必要はない。つまり。
もう、師匠とは一緒に旅ができなくなる。
「……ルチア?」
「ああ……これが、辛いんだ……」
ぽつりと声が漏れた。
自分の気持ちが分かった瞬間。不思議なくらい、箒が安定した。
私は、師匠のことが大好きだ。だから、師匠と離れたくない。
「どうしたの?」
師匠が不思議そうに首を傾げる。
「いえ、大丈夫です! 師匠! 美味しいもの奢ってください!」
にっこりと笑えば、師匠は安心したような表情を浮かべた。
「分かったよ。まずは報酬を受け取りに行こうか」
「はい!」
師匠は、そのまま下降していく。私も、その後を追った。
私の気持ちは、すぐに固まった。師匠のことが大好き。でも。
弟子が、師匠にそんな気持ちを抱いてはいけない。だから、早く旅立とう。この気持ちとも、さよならしなければ。
お祝いの豪華な夕食を終え、私たちは宿屋へ向かって歩いていた。今こそ、師匠に決意を伝えなければならない。
宿屋の部屋は別々で、今夜が最後になる。
「──師匠。明日から、私……」
「旅立つの?」
言葉を遮られた。前を歩いていた師匠は、振り返らないまま言った。
「……はい。バレてました?」
「うん。君なら、そう言うと思ってた」
師匠は、どんな顔をしているのだろう。悲しんでくれているのかな。私は、もうすでに泣いてしまいそうだった。
師匠と過ごした四年間。忘れられない日々が、次々と蘇ってくる。
一緒に旅をしたこと。魔法を教えてもらったこと。初めて箒で飛べたこと。抱き留めてもらったこと。何度も頭を撫でてもらったこと。
そして──。師匠を好きだと知ったこと。
「師匠! また、会ってくれますか?」
もう会えなくなるわけじゃない。それは分かっている。でも、お互いに旅へ出れば、きっとなかなか会えなくなる。
それでも、私は、また師匠に会いたい。いつか、この気持ちを整理して。弟子だった私として。
「……それを聞くの、反則じゃない?」
「どうしてですか?」
師匠が立ち止まった。反射的に、私も足を止める。
ゆっくりと振り返った師匠が、銀色の瞳で私を真っ直ぐ見つめていた。少しだけ、険しい顔をしている。
「僕がずっと我慢してたこと、君は知らないから」
「我慢……?」
もしかして。師匠は、早く卒業してほしかったのかもしれない。私の気持ちに気づいて、気持ち悪いと思っていたのかもしれない。私、師匠に我慢させていたんだ。
「す、すみません……我慢させてしまって……」
胸が苦しくなる。明日からじゃない。今すぐにでも旅立ちたい。私の箒を握る手に、力が入った。
すると、師匠が一歩近づいてきた。
「君が一人前になるまで、言わないって決めてた」
「……何を?」
「好きだってこと」
師匠は、私の頬を指先でそっとつまんだ。頭が、真っ白になる。
「し、師匠が……私を?」
「そうだよ、ずっとね。ルチアよりも先に」
「先に!? い、いつですか?」
声が裏返ってしまい、師匠は少し笑った。
「弟子にしたとき」
「……そんなときから?」
師匠は、私を弟子にしたそのときから、私のことを好きになってくれていた。そう思った瞬間、瞳から涙が溢れて止まらなくなった。
「……私も、師匠が好きです!」
「知ってるよ」
そう言いながら、師匠が少し照れくさそうに笑った。こんな表情、初めて見た。
「弟子にしたときって……初めて話した日ですよね?」
「うん。僕は、女の子を弟子にしないんだ。でも、ルチアと出会って、話をして。君の夢を聞いて……」
師匠が少しだけ視線を逸らす。
「他の男に弟子入りしてほしくないって、気づいた」
そういえば。師匠は、師匠としてではなく、惚れられることが多いから女の子を弟子にしないのだと、以前聞いたことがある。
これだけ顔が整っていれば、みんな好きになってしまうだろう。でも、私はそれどころではなかった。魔法に夢中だった。師匠の魔法に憧れて、いつか師匠みたいになりたいと、そればかり考えていた。師匠を、そんな目で見てはいけないとも思っていた。
「そんなときから!? ほ、本当に私のこと好きなんですね……」
驚きと嬉しさで、また顔が熱くなる。
「ははっ。顔、真っ赤だ」
師匠が楽しそうに笑う。
「好きだったよ。ずっと、ずっと我慢してたんだから」
頬をつまんでいた手が離れる。その指先が、今度は私の涙を優しく拭った。それでも、涙は止まらなかった。
「……ぅうっ」
「だから、君が僕を好きになってくれたとき、嬉しくて言っちゃいそうになった」
「先に言っちゃいましたね、私」
「そうだよー? 僕は卒業するまで待ってたのに」
「……ふふっ」
師匠が笑うから、思わず私も笑ってしまった。さっきまで、あんなに悲しかったのに。
「だから、これからは覚悟してね」
「覚悟……ですか?」
「もう弟子じゃないけど、一人で旅立たせるつもりはないからね」
「ずっと、一緒にいていいってことですか?」
「これからも、僕と一緒にいてくれる?」
「もちろんです! 師匠!」
私は、その胸に飛び込んだ。師匠の腕が、ぎゅっと私を抱きしめる。
もう、弟子だからじゃない。好きな人に抱きしめられている。そう思うだけで、胸がいっぱいになった。
すると、師匠の両手が私の頬へ伸びてきた。そっと顔を上げられる。
そして──。唇が重なった。
「……!」
顔に熱が集まっていく。心臓が、壊れそうなくらい大きく鳴っていた。
「もう、師匠って呼ばずに名前で呼んで、ルチア」
「そ、そんなの……いきなりは難しいです……」
「できるよ」
その言葉は、ずるい。弟子だった私は、師匠のその言葉に弱いのだ。
「……エリオット、さん」
「かーわいいなぁ。ほんとに」
「……っ」
絶対に、私の顔は真っ赤だ。師匠の頬も、ほんのり赤く染まっている。それなのに、愛おしそうな目で私を見るから。こっちの心臓は、どんどん速くなっていく。
「師匠っ、その顔やめてください」
「なんで?」
「かっこいいです……」
「どういうこと? 普通の顔だけど」
「私のこと好きって顔してます!!」
「好きだから、いいんじゃない?」
「だから、その顔~!」
身体中が熱すぎて、今にも沸騰してしまいそうだ。今なら、火属性が一番得意かもしれない。
師匠は微笑みながら、私の両手を握った。
「これからは、僕の弟子じゃなくて相棒として、ついてきて」
「……はい!!」
師匠が真っ直ぐ私を見る。私は、大きく頷いた。
私たちは翌朝、また旅に出る。今までとは、一つだけ違う。
私はもう、師匠の後ろを歩かない。隣に、堂々と並んで歩いていく。
私はこれからも、大好きな人と一緒に歩いていくのだから。




