✐1 ラフをひく
雨粒の色は日によって変わるのかを気にしていたら、スマホに光る漫画にも集中できなくなって、サイドボタンでスマホの画面を暗くした。そうしてみて、外がもうこんなにも暗いのかと気づいて部屋の灯をつけた。窓ガラスは梅雨の湿度で濡れている。カーテンレールにハンガーで掛けておいた制服をクローゼットに避難させた。一番手に届くところに空間を作って、ブラウスとスカートを掛けた。奥にはクリーニングのビニールを纏ったままのブレザーや、学校指定の可愛げのないセーターが涼しい季節を待っている。キャスター付きの椅子をひいて机に戻った。さっきやる気でいた課題が半分以上なにも書いていない状態で放ってある。通知が鳴ったからとクラスLINEを開いたのが間違いだった。『明日の英語の予習ってどこまで?』というメッセージには、ほかのクラスメイトと真っ先に返事をしていたから、もうそれで用は済んだはずだった。ホーム画面の漫画アプリに目が留まってタップしたのが最後、課題に戻ってくることもなく今まで知りもしなかった人の4コマ漫画を惰性で延々とスクロールして今に至る。改めて課題に向き合うべくスマホをベッドに放り投げたら、虚しくもマットの隅に跳ね返され床に落下した。それにガッカリしながらも見て見ぬふりをしてシャーペンを握った。
「渚!ちょっと手伝って!」
お母さんの声がした。なんてタイミングが悪いんだろう。
「今行くよ!」
お母さんが悪いんじゃない。「ごめん!課題終わらない!」って言えばお母さんは嫌な顔しないで、「そうなの!頑張ってね!」って言ってくれる人だ。私がお母さんの声を言い訳にまた課題から逃げていっただけだ。握ったばかりのシャーペンを課題の上に転がし、座ったばかりの椅子から立ち上がって、スマホを拾い上げた。再び明るくなった画面には何やら通知が溜まっていたが、それはそのままに部屋を出ようとした。
「いった!」
素足の裏から痛みが走った。ごちゃごちゃと散らかっているわけではない部屋だが、そこに置いてあったスケッチブックのリングを踏んだらしい。私はそれを見下ろして一つ息を吐いてから、スケッチブックを足で部屋の隅に寄せて、お母さんの手伝いをしに行った。
翌日の通学路はやっぱり梅雨空で、低い雲は、その上からあたる太陽で毒々しい色になって光を散乱していた。それでも校舎のなかはいつも通りだ。男子は分からない単語の応酬で笑っているし、女子は聞いたことある気がするアイドルかインフルエンサーの話題でこちらも楽しそうにしている。昨晩に後悔しながら深夜までかかった課題を、隣の席の友人は「うわぁ忘れてた~」と簡単に忘れていた。
「結構大変だったよ、今回のやつ。」
「大丈夫!提出は5限。なんとかするよ!だから渚、課題見せて。」
「いやだね。私の苦労をやすやす分け与えるほど、私の心は広くないよ。」
「けち」
「言いましたね、ついに言いましたね。私はもうユナの希望を叶えることはしませんよ。」
「あぁぁ、ご慈悲を。渚さまぁ」
「言葉と行動を悔いなさいな。もう私はユナの女神様ではなくなりましたから。」
私はそれが演技と分かるように大根芝居を打って窓の外にプイと向いた。毒々しい雲は、いつでもそこから雨粒を落としてもおかしくない重さのバランスで浮いていた。
やはりそれとは裏腹に、私は何も特別ではない一日を順調に過ごした。授業を受け、休み時間に中身のない会話をその都度誰かとして、廊下で先生に絡まれ、また授業を受けた。そうしていれば勝手に時間が進んで昼休みになるのも当然だ。
「あのぉ、渚ちゃ~ん。」
「課題なら見せないよ」
「うぅ、これは深手の傷だ。でもね、そうじゃなくてね。」
「ユナ、まさかまだ何かあるの?」
「いや、そうですねえ、あ!あぁぁ、私の女神様~、姫様~、こっち見て~」
私はわざとだと分かる溜息をついた。
「何?何なのよ。聞いてあげますよ。聞くだけね。聞くだけ。」
「あぁさすが、聖母・渚さま!アマテラス渚さま!なんと慈悲深いのでしょう!」
さすがにユナの言い回しもめんどうくさくなってきた。
「5秒以内に本題初めて」
ユナの目の前で手を開いて、親指から折っていった。ズル無しの一秒に一本ずつだ。
「はい!はい!結論から言うと!図書委員の代役!お願いしたい!」
「なんでよ?」
ユナにも何か明確に事情がありそうな気配を感じた。ユナも、おふざけはここまで、と言いたげに一歩さがった。
「今日、部内のランク戦の試合があるんだよ。図書委員の当番日って新学期の頭にまとめて決まるんだけどさ、被ってたのよ。さっきのさっきまですっかり委員会のほうを忘れててさ。」
「ランク戦?バドミントンの?」
「そうなの。ランク戦で勝っていかないと、大会の団体メンバーになれないのよ。それに関してはさ、顧問の頭硬くって、例外ないのよ。」
私たちの高校のバドミントン部は全国大会の常連で、特に団体戦に秀でていた。私はユナがこの高校でバドミントンをして全国に行きたいから受験してきたことを前々から知っていた。あんだけ抜けているけれど、部活に関してはその努力量は群を抜いている。
「はぁ、わかったよ」
ユナの懇願する顔は徐々にその緊張から解放されていった。
「ホントに!ありがと、渚。ホントにホントに。ホントに。」
「わかったって。条件付きね」
「何なりと。渚様。今度アイスおごる。サーティワンで。トリプル!」
私はユナの単純さがおかしくなって思わず笑った。
「何言ってんの。じゃあそれは貰っとくよ。」
「ほかにも何か?」
「そう。ほかに一つ」
「モスバーガー?」
私はユナの肩を二度強めに叩いた。
「今日は勝ってきなさい。」
ユナの目を真っすぐに見た。その瞬間でユナは自身の湧き出る顔になった。私が叩いた肩を右手で掴んだユナはもう今日は勝つんだと思った。
「任せて。ボッコボコにしてくるよ。ありがと、渚。」
そのあとは、図書室で司書さんに何したらいいか聞けば教えてくれるうんぬんと、図書委員の話をして、そこで昼休みの終わるチャイムが鳴った。席に小走りで戻るユナを一度呼び止めた。
「何?渚。」
「悩んだんだけどさ、モスバーガーも貰っておくわ」
ユナは力が抜けたようにズッコケるふりをした。
「はいよ。了解した。」
そして、私たちは午後の授業も特別なことはなく無難に過ごした。
図書室は校舎の別館の1階だ。6月で夏至も近いのにのっぺりした雲に覆われてじっとり薄暗い。本棚と本棚は、電灯の明かりも満足には届いていないが、夕日のない部屋には無機質なその明るさが際立っていた。
司書の先生は私を見ると、子犬のようにトテトテと近づいて、「ユナさんの代打かな?」と聞かれた。私はそれが嫌々だと思われないように明るく返事をした。司書さんは呑気そうに見えたが、説明は簡潔でまとまっていて分かり易かった。司書さんがカウンターで事務をしながら、貸出や返却の手続きをするので、私は返却済みの図書を棚の正しい場所に戻す役目を受け持つことになった。「体力仕事でごめんね」とふわふわした声の司書さんが優しさに満ちていて、私はついに本当に嫌々ではなくなった。
カートに積まれた本を5冊ずつ手にとっては、その背表紙に貼られたラベルにあるカタカナ一文字を頼りに所定の棚を探した。作業は呆気ないほど簡単だったが、本の量がその単純な作業の繰り返しを求めてくる。高校の図書室でこれだけの本が借りられていることに少し驚いたが、少人数がそれぞれ大量に借りているのであろうことが想像できた。
図書室は自習のスペースに3年生がいるだけで、それぞれの机に並べられているのは図書室の本ではなく、色とりどり、厚さもとりどりの参考書だった。6月になってもまだ中学生から抜け出せない1年生が、階段の数段を飛び降りて着地した音が、奥まった図書室にもそれがそういう音だと分かるほどに図書室も、そして校舎そのものも静かだった。
本の整理もあと残り3往復で終わりになるというタイミングで、図書室の扉が開いた。私が図書室に入ったとき以来の外気だ。少し重めのガラス戸を開いて入ってきたのは知った顔だ。4月、新学期のクラスで、出席番号順の仮席の時に右隣だった。すぐに席替えをしたので話すこともなかった子だ。
七森梢枝。
彼女は休み時間も教室の隅の席で、何の教科でもないノートに一生懸命何かを書き込んでいる。梢枝は図書室の席に荷物を置くと、迷うことなく本棚の間に消えて、そしてただ往復してきただけのような時間で本棚の間から出てきた。それでも梢枝の手には一冊の本が抱えられていて、最初からあの本をとる事を決めていたんだと分かった。
梢枝は抱えた本を机に置くとすぐに脇に滑らせて、カバンから例のノートを取り出した。本はその表紙を梢枝に向けたまま開かれなかった。私はカウンターから次に棚に戻すべき本を拾うべく、梢枝の座る椅子の後ろを通り抜けた。見ようと思ったのか、視野に入ってきたのかははっきりしないけれど、梢枝の脇にある本は表紙に何やら南国を思わせる植物の写真があると分かった。新たに両手に抱えた本と一緒にカウンターから本棚の森へ足を進めても、その林間に見える梢枝がなぜか気になった。本はまだ表紙を開かれない。かわりに例のノートが開かれていて、梢枝が何か書いている。ペンの動きが文字ではなかった。チラリと本の表紙に時折目線が動き、またノートの上をペンが流れた。梢枝は書いていなかった。何かを描いていた。
梢枝のペン先の動きは細かかった。線一本ごとに表現の意味があるらしかった。抱えた本をひとしきり棚に戻し終えると、私はまた梢枝の後ろの空間に吸い寄せられた。近づくにつれて見えてきたノートには「修学旅行しおり」と書かれたリボンの下に砂浜の波打ち際で波を蹴る女子高生が二人と、手前にハイビスカスの花、そしてシーサーのキャラクターが配置されているイラストだった。まだ線絵のそれは、悩んで消した跡があって構図に苦労しているらしいことが伝わってきた。自然と女子高生二人に目線が行くものの、その二人の表情には特徴がなく、かわいらしいキャラが適宜配置してあるだけに見えた。
私が背後から覗いていることにも気づかずに梢枝は線を足していった。足されるたびに繊細さを増すイラストはそれでも繊細さが増えるだけで無機質だった。梢枝の引く線の筆圧にもどことなしか正解の線をさ迷って探している風に見えた。
「下手っぴ」
私の心の声が油断して音となっていた。そんなこと言うつもりもないのに音になってしまっていることに少し間をおいて気づいた。気づいてから焦った。音になった心の声が小さく、梢枝に届いていないことを祈った。しかし、私の祈りは届かず棘のある言葉が梢枝に届いていた。焦りで梢枝のノートから視線を外していたが、恐る恐るその視線を戻すと振り返った梢枝と視線が合ってしまった。一度合った視線を梢枝はずらしてはくれなかった。しかしその目は、私を非難するようでも、怒りが籠ってもいない純真の目だった。あまりに気まずくて、私は梢枝のノートに視線を逃がした。
「そうなんだよね。私、全然上手く描けないんだ」
梢枝は困った顔と私への興味の顔、半々で笑っていた。その笑顔は屈託もなく、私には梢枝が本当に悲しんでも怒ってもいないことが分かった。
「いや、ちがくて、あの、下手とか思ってなくて、えっと」
一生懸命に逃げ切れる言い訳が頭の中で駆け巡った。しかし、どう駆けても袋小路にはまり辻褄が合わないことに自分で気づいた。思考をいくら重ねてもここから脱することなんてできないと観念するしかなくなって、「ごめん」とだけ言うしかなかった。もう梢枝に何を言われても受け止める覚悟だし、いっそのこと「ひどいよ!」と机に突っ伏してこの場で泣かれた方が私は楽だった。
しかし、むしろ梢枝は嬉しそうだった。私の次の言葉に期待しているような柴犬のような笑顔だ。
「なんでそんなに楽しそうなの」
私の疑問はその笑顔に素直に出せた。
「私、絵が好きなんだ。上手に描けるようになりたいってずっと思ってた。でもね、ここのところどうも進歩しなくって。今までもいろんな人に絵を見てもらってきたんだよ。親にも、おじいちゃんにも、中学校の友達にも、先生にも。みんな、絵が描けて良いね、って私を認めてくれた。でもね、私の絵を見て『下手っぴ』って言ってくれたの初めてで。それが嬉しくって」
「下手って言われるのが嬉しいの?」
「そう、私自身が私の絵に違和感あって納得できていなかったから、渚ちゃんがそれを射抜いてくれた感じがして」
「あ、私のこと知ってたんだ。」
「知ってるよ。隣の席だったでしょ。」
そこで初めて、私は七森梢枝に認知されていたことを知った。
「それでさ」
梢枝の興味の目は輝きが止まらなかった。
「何が下手っぴなのかな?構図がありきたりなのは分かってるんだよね。でもこれしか思いつかなくってさ。頭身のバランス?なにかもう少し整う気もするんだよね。あとは、うーん、背景の書き込みが甘いよね。海の奥行とかがあんまり感じないかなぁ。」
梢枝の並べた梢枝の絵の批評は、恐ろしいほどに私の思っていたことと一致していた。私はもうここまで来てしまったんだと覚悟を決めて、思い切ってそれに賛同した。
「キャラクターは魅力的なのに、なんていうかさ、修学旅行のしおりにしては『青春感』が足りないのかも。光なのか、風なのか」
具体的に言うつもりはなかったが、話始めると止めどころが分からなかった。
「パースが絵の左右でずれているのもあるかも。背景の陸地がそのせいで置物っぽく見える。それでいて水平線が直線的なのが画角を狭く見せているんだと思う。」
なんでここまで話しているのか私にも理解できなかった。でもそれを聞いている梢枝の目は真剣そのもので、憧れの物を見ているようだった。
梢枝はノートに私の言葉をそのままメモして、一つ一つを自分の絵の中で確認していった。それが済むたびに「うわぁ」とか「うおぉ」とかいう納得と驚嘆の混じった声を出していた。
「渚ちゃんって絵が描けるんだよね?」
梢枝の質問は唐突だった。「ここまで私の絵にあれこれ言ったんだから、描けないわけないよね」と攻め立てるものではなく、ただ純粋と期待に満ちていた。
「どのくらい描いてるの?いつから?何使ってる?」
疑問は矢継早に飛んできたが、私は悩んで最初の質問にだけ答えた。
「梢枝のほうが上手かも。でもね、絵を描くのは昔から好き」
誰にも言ったことはなかったが、梢枝には行ってもいい気がした。
「見たい!!見たい見たい見たい見たい見たい!」
梢枝は図書館の中であることを忘れたように立ち上がって、両手の拳を胸の前で強く握って揺すった。その必死さが面白かった。
チャイムが鳴った。下校時間を知らせるもので、これを合図に図書館も閉館する。「残念だけど、時間だからまた今度ね」と逃げることだってできた。また日付が変われば私はいつもの何もない日常に戻るし、教室で梢枝もわざわざ話しかけてきたりはしないだろうと思った。でも、口から出てしまった「下手っぴ」が私の心を縛った。それに端を発して、分かっているかのような絵の批評だけ並べて逃げることに罪悪感が止まらなかった。それに、梢枝の憧れのものを見たかのような瞳は呪縛に近かった。私は自ら飛び込んでしまったその呪縛に引き込まれ、そのまま奥底が見たくなってしまっていた。
「今日、このあと暇してるの?」
絵を見せてほしくて立ち上がったまま、拳をぎゅっと握って動かない梢枝はその一言にほどけていった。
「いちおう、課題とかあるけど暇してるよ」
キョトンとした顔に変わった梢枝はやっぱり柴犬みたいだった。
「じゃあさ、ウチに来る?これから」
梢枝は刹那、固まったが、頭の理解が追いつくと一気に顔が華やいだ。




