「無能は出ていけ」と夫に言われたので、家の全権限を持って消えます。〜浮気相手と共に不便な箱で震えて眠れ〜
「……あぁ、いたのか。ちょうどいい」
結婚して一年目の記念日。
リビングのテーブルには聖奈が数時間かけて仕込んだローストビーフと、夫が好きなヴィンテージのワインが並んでいた。しかし、帰宅した夫・高坂誠の隣には、見知らぬ若い女がこれ見よがしに腕を絡めて立っていた。
「……誠さん、その人は?」
「見ればわかるだろ。萌香だ。お前よりずっと若くて気が利く、俺の新しいパートナーだよ」
誠は聖奈が用意した料理を一瞥し、汚物でも見るかのように鼻で笑う。
「なんだこの料理は。商社マンの妻ならもっとマシなもん作れよ。……まぁいい、どうせ今日で終わりだ。聖奈、お前みたいな無能な寄生虫は今すぐこの家から出ていけ!」
日頃から繰り返される「誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ」、「社会に出られない無能を養ってやってるんだ」という数々のモラハラ発言。
誠にとって聖奈は、自分の生活を彩るための便利な「動く家電」程度にしか思っていないのだ。
「えー、これが誠さんの奥さん? うわぁ地味ー。今までお疲れ様でした、お・ば・さ・ん」
萌香と呼ばれた女がわざとらしく高い声で笑う。彼女はリビングを見渡し、聖奈が吟味して配置したスマートスピーカーや、最新の全自動調理器を指差して言った。
「この立派なお家、明日からは私が使いこなしちゃいまーす。誠さんと二人で最新家電に囲まれてラブラブに過ごすから、安心して消えていいですよぉ」
萌香は誠の胸に顔を埋め、誠はその頭を撫でながら聖奈を冷酷に睨みつける。
「聞いたか? ここは萌香にこそふさわしい場所だ。専業主婦なんていう家で寝てるだけの無能に居場所はないんだよ。荷物をまとめてさっさと出ていけ」
二人の卑俗な笑い声が静かなリビングに響く。
聖奈の指先がわずかに震えた。
それは動揺からではない。
(……あぁ、そう。やっと、捨てられるんだ)
誠の浮気は数ヶ月前からスマートホームのログで把握していた。いつ切り出すか、いつ終わらせるか、聖奈はずっと迷っていた。元ITコンサルとしての論理的思考が、「まだ修復のコストが見合わない」とブレーキをかけていた。
だが、今、自分の目の前でいちゃつく二人を見て、聖奈の中で最後の回路がパチリと音を立てて繋がった。
そして霧が晴れるように、驚くほど冷静な思考が戻ってくる。
(私が設定し、私が構築し、私が最適化したこの家。……無能な私には何もできないと、本当にそう思っているのね、バカな誠さん)
聖奈はゆっくりと顔を上げた。その瞳からは先ほどまでの弱々しさが消え、かつて「氷のコンサル」とまで呼ばれた鋭い光が宿っている。
「……わかりました。そこまでおっしゃるなら今すぐ出ていきます」
「フン、物分かりが良くて助かるよ。さっさと消えろ」
勝ち誇った顔の誠に、聖奈は冷ややかな微笑みを浮かべて付け加えた。
「ええ、持っていきます。私のものはアカウントの一つ、データの末端に至るまで……、文字通り全てを。……明日からの生活、頑張ってください」
その言葉の真意を愚かな夫はまだ微塵も理解していなかった。
聖奈は荷物をまとめるためにリビングを後にした。背後からは「やっと追い出せるぜ」「誠さぁん、このお掃除ロボット動かしてみてもいいですかぁ?」という浮かれた声が聞こえてくる。
寝室で聖奈は自身のスマートフォンを取り出す。
画面にはこの家のすべてを司る「ホームマネジメント・システム」のダッシュボードが表示されている。
「……削除、解除。……これも不要ね」
指先が迷いなく動く。
まずは家庭内Wi-Fiの親機をリセットし、SSIDごと消去した。これで家中全てのスマート家電は「脳」を失う。
次にスマートロックのマスター権限を自身の旧姓で登録している『御堂 聖奈』のアカウントごと削除。
照明のスケジュール設定、全自動掃除機の清掃ルート、さらに冷蔵庫内の食材賞味期限を管理していたカスタムアプリまで、聖奈が時間をかけて構築したシステムを次々と初期化していく。
それだけではない。
元コンサルの聖奈は家計の防衛策も完璧だった。
(誠さんの「家族カード」、本会員は私だもの。当然停止ね)
スマホの決済アプリでカードの利用停止ボタンをタップする。さらに誠が「秘書代わり」として重宝していた、聖奈のアカウントに紐付いた共有カレンダーの同期も解除した。明日の朝、彼は自分の会議の場所すらわからなくなるだろう。
最後に聖奈は公共料金の管理画面を開いた。
結婚当初多忙な誠に代わって聖奈が『御堂』の旧姓で契約し、そのままにしていたライフライン。
「電気、ガス、水道。……すべて解約、と」
最後のタップを終えると聖奈はリビングに戻った。二人はソファでワインを飲みながら、聖奈のことなど見えていないかのように密着している。
「これ、置いていきますね」
聖奈は誠がテーブルに叩きつけていた離婚届に、流れるような筆致で署名をする。
「あら、意外と早かったわね。ねぇ誠さん、早く追い出して中から鍵かけちゃいましょう?」
「そうだな。お前、二度と敷居を跨ぐなよ」
誠の罵倒を聖奈は柔らかな、どこか慈しむような微笑で受け流した。その微笑みの意味に愚かな夫は気づかない。
「ええ、二度と来ません。……あぁ、言い忘れましたけど、あと一時間もすればこの家はただの『不便な箱』になります。今のうちに暗闇でできる遊びでも考えておいた方がいいですよ」
「あ? 何をぶつぶつ言ってやがる。さっさと行け!」
聖奈は振り返ることなく玄関のドアを開けた。
背後で『カチャリ』と自動で物理的な鍵が閉まる音がする。
その鍵を開けるためのデジタルキーの権限は、もうこの世界のどこにも存在しない。
外は冷たい夜風が吹いていたが聖奈の心は驚くほど軽かった。
スマートフォンの画面が一通の通知を知らせる。
『全てのライフラインの解約予約が完了しました』
(一時間後。楽しみにしてるわ、誠さん)
聖奈はヒールの音を響かせ夜の街へと消えていった。
聖奈が去ってから、ちょうど一時間が経過した頃。
リビングでは誠と萌香が聖奈が用意していたワインを飲み、高級なソファにふんぞり返っていた。
「あーあ、やっとせいせいした。これでここは俺たちの愛の巣だな、萌香」
「そうですよぉ。あんな暗い女、いない方が――」
その瞬間。
――パツンッ。
心臓を掴まれるような嫌な音と共に、家中の照明が一斉に消えた。
「……え? 停電?」
誠は眉を潜め暗闇に向かっていつものように命じた。
「アレクサ、電気をつけろ! リビングを一番明るくしろ!」
しかし返ってきたのは聞き慣れた軽やかな返答ではなかった。
『……デバイスが見つかりません。セットアップを完了させてください』
「はあ? セットアップだと?」
誠は苛立ちスマホのアプリを開こうとした。しかし画面上部には『Wi-Fi未接続』の無慈悲な文字。
聖奈が親機の設定ごと消去したため、家中を飛んでいた超高速回線は死滅していた。
「おい、Wi-Fiが繋がらないぞ! 萌香、お前のスマホは!?」
「私もですぅ……。あ、動画見すぎちゃって、私、今月の通信制限かかってるんだった! 誠さんテザリングさせてくださいよぉ!」
「バカ言え、俺だって制限中だ! ……なんだ、この暗闇は!」
誠は手探りで壁のスイッチを探すが、押しても引いても反応がない。
当然だ。ライフラインそのものが聖奈の手によって全て解約されているのだから。
「そうだ、一旦外に出てコンビニで懐中電灯を――」
誠が玄関のドアノブを回した。だが動かない。
「おい、なんだこれ! 開かないぞ!」
「えっ、誠さん、そんなはず……、ひっ! 閉まったままピクリともしません!」
この家のドアは聖奈が完璧なセキュリティのために導入した最新のスマートロックだ。ネットワークから切り離され、さらに『高坂誠』の権限が削除された今、聖奈が持っていった物理的な鍵がない限り、内側からも外側からも「解錠不可」の鉄壁の要塞と化したのである。
「くそっ、何なんだよ! おーい、誰か開けろ!」
暗闇の閉鎖空間。誠の怒号が響く中追い打ちをかけるように音が響いた。
ゴボゴボッ、シュウゥゥ……。
「……え、今度は何の音だ?」
「……誠さん、キッチンから変な音が……」
恐る恐るキッチンに向かった二人は蛇口を捻った。
しかし、出てきたのは最後の一滴のしずくだけだった。
電気、Wi-Fi、そして水道。現代社会のインフラすべてを奪われた愚かな男と女は、月の光すら届かない『不便な箱』の中でただ震えるしかなかった。
――翌朝。
誠は最悪の気分で目を覚ました。
顔を洗いたくても水が出ない。コーヒーを飲みたくてもケトルが動かない。
そして何より、仕事だ。
「今日の会議、どこで何時からだったっけな……。カレンダー、カレンダーを表示しろ!」
誠は低速化したスマホで共有カレンダーを開こうとする。
しかし、そこには真っ白な画面が広がっているだけだった。
すべての予定、取引先の連絡先、会議室の予約。それらはすべて聖奈のアカウントに紐付けられていたデータだった。
「嘘だろ……。場所がわからなきゃ、商談に行けない……!」
「誠さん! お腹すきました! 全自動調理器で何か作ろうとしたら、変な煙が出て止まらなくなったんですぅ!」
萌香は全自動調理器を無理やり手動で動かそうとした結果、エラーを吐いて沈黙。リビングには昨日放置したディナーの残骸が悪臭を放ち、ゴミ屋敷へのカウントダウンが始まっていた。
「うるさい! 萌香、お前が使いこなすって言ったんだろ!」
「誠さんこそ稼いでるって威張ってたのに、水道代も払ってなかったんですか!? 最低!」
昨夜までの「ラブラブ」はどこへやら。
暗闇と不便さの中で二人は醜い罵り合いを始めていた。
その頃、当の聖奈は。
(さて、そろそろ「第一段階」が完了した頃かしら)
都内の高級ホテルのラウンジで、朝日を浴びながら優雅にエッグベネディクトを口にしていた。
彼女の指先が次なる「復讐」のボタンへと動く。
ホテルでの優雅な朝の静寂を破ったのは、聖奈のスマートフォンに表示された「高坂誠」からの着信だった。
「……はい、もしもし」
『聖奈! お前、何をした! 家がおかしいんだ! 電気がつかない水も出ない! スマートロックも反応しなくて外に出られないんだぞ! なんとかしろ!』
誠のひっくり返った怒声と、背後で「お腹すいたぁ、喉乾いたぁ」と泣き喚く萌香の声が聞こえてくる。
聖奈はホテルのスイートルームで淹れたてのコーヒーを一口含み、ふっと微笑んだ。
「え? 何を仰っているんですか? 誠さんの言う通り、私は『無能な寄生虫』ですよ? そんな高度なシステム、私にどうにかできるはずがないじゃないですか」
『ふざけるな! お前が設定してたんだろ! 今すぐ戻って直せ!』
「嫌ですよ。もう私は『高坂』の人間ではありませんから。……あ、そうそう。言い忘れていましたが、そのマンションは来月賃貸契約の更新ですけど更新はしませんよ。保証人と名義は私の父ですので、早めに出ていってくださいね。数日中には管理会社から連絡が行くはずです」
『なっ……!? 親父さんにまで話したのか!? 待て、聖奈、悪かった、俺が言い過ぎた! 頼むから――』
「さようなら、二度とかけてこないでくださいね」
聖奈は通話を切り、元夫を着信拒否にした。
それからの誠の転落はデジタル処理のように速かった。
仕事では聖奈が管理していた重要案件のスケジュールを飛ばし、プレゼン資料も聖奈の個人所有データだったため共有クラウドから消滅。「管理能力ゼロ」の烙印を押された誠は重要プロジェクトから外され閑職へと追いやられた。
さらに聖奈が雇った凄腕の弁護士から、これまでのモラハラの音声記録と、スマートホームのログに残された浮気の決定的証拠を突きつけられる。
「えっ、慰謝料なんて払えないわよ! 誠さんが払ってよ!」
「お前が誘惑したからだろ! 自分で払え!」
暗闇のゴミ屋敷で二人は顔を合わせるたびに罵り合い、最後は萌香が誠の財布から残りの現金を抜き取って逃亡。誠は実家から「一族の恥だ」と勘当され、彼は住む場所も職も、そしてプライドもすべてを失った。
――数ヶ月後。
場末の古い安アパート。
カビの臭いが立ち込める狭い部屋で、誠は半額のカップ麺を啜りながらスマホの画面を眺めていた。
そこにはIT業界の最前線にコンサルタントとして復職し、華やかに笑う聖奈の姿がニュース記事として載っていた。
「うぅ……、聖奈ぁ……。俺が悪かった、戻ってきてくれ……」
後悔の涙で麺が伸びるが、返ってくるのは壁の薄い隣室からの苦情の壁ドンだけだった。
一方、聖奈は新しく借りたタワーマンションのベランダで、宝石を散りばめたような夜景を見下ろしながら思い切り両腕を伸ばした。
今の家には、かつて誠のために心血を注いで構築したような複雑なスマート家電は一切置いていない。
自分の指先でパチリとスイッチを押し、自分の意志でガチャンと物理的な鍵を開ける。
以前なら「非効率」だと切り捨てていたはずの、その確かな手応え、五感に伝わるシンプルな動作の一つ一つが、今の彼女には何よりも愛おしく誇らしかった。
「……あぁ、自由って、こんなに空気が美味しいんだ」
もう二度と誰かの「所有物」としてアカウントを管理されることも、身勝手な言葉に心を縛られることもない。
奪われた一年間は多額の慰謝料と「氷のコンサル」としての輝かしいキャリアへの復帰という形で、お釣りが出るほど取り戻した。
過去の未練は微塵も残っていない。
明日からも自分の人生を、自分だけのタイミングで過ごそう。
高鳴る鼓動を楽しみながら、聖奈は新しい世界を力強く踏み出していく。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「ざまぁ!」と思ってくださった方、聖奈の新しい門出を応援したいと思ってくださった方は、【☆☆☆☆☆】を押してもらうと励みになります。
ブックマークや感想も大歓迎です。
本作内に登場するスマート家電の機能や設定、仕様などは、「スマート家電を武器にする」という設定上の演出となっております。あらすじ・物語の一部としてお楽しみいただけますと幸いです。




