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輪廻の檻 ―異世界で再会した幼馴染は、俺を知らない敵だった―  作者: あすらりえる
第二章_翠玉と災禍の庭

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第81話:幕間《A》-l-i-c-i-@†

 世界は剥き出しの刃で構成された不協和音の檻だった。


 静寂という概念はどこにも存在しない。柔らかな風が揺らす樹々の騒めきさえ、鼓膜を執拗に削り取る石の鑢(やすり)のようで、精霊の囁(ささや)きも神経を擦り減らす雑音に過ぎなかった。


「うるさい」


 いくら両手で耳を塞ごうと無意味だった。音は掌を通過し、内側から身体を、脳を激しく揺さぶり続ける。いつから狂ったのかは分からない。ただ、ある日を境に自分の世界から静かさが永久に失われた。賢者の叡智をもってしても、呪いのような喧騒を癒やすことは叶わなかった。


「うるさい……うるさい」


 長年暮らした故郷の森は、終わりのない拷問場に変わった。同胞の案じる声さえ苦痛だった。ここに留まれば、遠からず精神が崩壊して発狂しかねない。その確信だけがあった。


「うるさい!うるさい!うるさいぃぃぃ」


 人の溢れる地ならば、この不協和音を解消する何かが、救いの手段があるのではないか。あるかも分からない淡い幻想に縋らねばならぬほどに、追い詰められていた。


 故郷を離れ、未知の喧騒へ向けて足を踏み出した。


 大陸南に位置する自由都市は、聞きかじった知識通りに人で溢れていた。だが、そこでの往来も逃れようのない喧騒となって耳にこびりつく。道行く人々に救いと対処方法はないかと乞いもした。


 しかし、やはり無意味だった。


「ここも、うるさいだけ……か」


 珍しい外見の自分に、欲を隠そうともしない者たちが群がってきた。自分を奴隷にでもしたいようだ。彼らの発する言葉は、喉元に突きつけられた錆(さ)びた刃に等しい。辿り着いた先でさえ、投げかけられるのは音という名の暴力であり、不快でしかなかった。


(もう、いい)


 考えるのを止めた。


 俗物どもを相手に、容赦や慈悲を差し挟む余地など、削り取られた精神のどこにも残っていない。


 気がつけば、周囲には沈黙が訪れていた。物理的な音を失い、物言わぬ肉塊へと成り果てた者たちを一瞥もせず踏み越えていく。そういえば助けてくれと言っていた気もしたが、耳障りだったから永久に黙らせた。路傍に積み重なるそれらは、騒がしい生者よりも、いくらか静かだった。


 その後もあてどなく自由都市を彷徨い歩いた。


 そんな時だった。澄んだ水の流れ込む開けた場所に群衆が集まっていた。その騒々しさは、これまで知るものとは違った。変化を求めて、その群衆の集まる中心を覗き込んだ。


 熱狂と喝采を浴びる先に一人の女がいた。


 神聖な美しさだと感じた。長く豊かな金色の髪は光を受けてきらめき、白いフード付きのローブが優雅で神秘的な輪郭を形作っている。


 高位の聖職者を示す白の法衣には、細やかな金色の刺繍が施されていた。全身から人を惹きつけ、安らぎを与える清らかな空気が溢れ出ていた。


 彼女は謳うように人々に語り掛けていた。その言葉の一つ一つに、彼らは酔い、喝采を上げる。


 音の種類が違った。


 その声が耳に届いた瞬間、思考を支配していた不協和音が凪いだ気がした。音が消えたわけではない。彼女の言葉もまた、空気の振動として鼓膜を叩いている。ただ語っているだけのはずなのに、目が離せなかった。呪いのような喧騒の中で、初めて音ではなく人を認識できた気がした。心地よいとさえ感じた。


 熱狂する群衆の喝采が、彼女という中心点に吸い込まれていくような錯覚を覚えた。やがて女の演説が終わると群衆は去っていったが、一部の者たちはそのまま彼女の側に残っていた。


「私を連れて行ってほしい」


 と、縋るような声が聞こえてくる。


 すると、彼女は優しい声で告げた。


「ならば、わたくしと共に参りましょう。西の聖国へ」


 その声に、残っていた群衆はむせび泣いた。その光景に滑稽さは微塵もなかった。自分もまた、彼らと同じようにその場から動けずにいたのだから。


 やがて、女の視線が自分を捉えた。


「珍しい方がいらっしゃいますね。悩みをお持ちであるのなら、あなたもわたくしと共に参りませんか?」


 女の言葉を拒否する考えは浮かばなかった。ただ、無言のまま頷いていた。


 輪廻教団の聖女を名乗る女は、西へと向かう道中で語った。


 教団が招き入れるのは純粋な信仰者だけではない。むしろ、満たされぬ渇望に身を焼く者こそが、その門を叩くのだと。


「わたくしの力では、あなたの悩みを解決することは叶わないでしょう」


 街道を吹き抜ける風に混じり、彼女の声が鼓膜を撫でる。


「ですが、その不協和音をどう受け止めるべきか、その可能性を示すことはできます」


 答えず、ただ渇いた喉を鳴らした。


 示された可能性が甘美な毒か、あるいは真の救いか、今の自分には判別などできない。ただ、脳を揺さぶり続けるこの喧騒から逃れられるのなら、行き先などどこでもよかった。


 やがて聖女とともに辿り着いた西の聖国で一人の男と出会った。


 その男の手によって処置を施され、自身を苛む体質から解き放たれた女は、輪廻教団七元徳の一人、『節制(せっせい)』のアリシアとして生きることを選んだ。


挿絵(By みてみん)




 □■□■□■□




「……ん。ふぁっ」


 漏れた欠伸が静かに消える。革張りの長椅子から身体を起こすと、柔らかな掛け布が床に滑り落ちた。眠っている間に部屋の主が被せたものだろう。


 石造りの壁に囲まれた研究室。部屋の中央には、複雑な魔法陣が刻まれた巨大な木製の円卓が据えられ、その上では色とりどりの薬液が満たされた瓶が怪しげな光を放っている。


 壁一面の書架には古びた魔導書が隙間なく並び、天井からは暖かな光が降り注いでいるが、室内の隅々には魔力の残滓(ざんし)が青い火花のように揺らめいていた。


「よく眠っていましたよ。うなされていたかと思ったら、その後は熟睡していましたね」


 褐色肌の女は、呼びかける声に反応し、薄紫色の長髪から覗く尖った耳をぴくりと揺らした。部屋の主は、淡い青色の髪を無造作に遊ばせ、知的な縁なしの眼鏡をかけた青年だった。


 切れ長の瞳は、理知的な光とともにどこか暗い色を宿している。白い長衣を羽織り、その下には黒を基調とした装束を身に着けていた。


「……デクスター。私の寝顔を観察するな」


「私の研究室に頻繁にやって来るうえに、惰眠を貪りながら何を言っているんですか、アリシア。まったく、あなたは怠惰ですね」


 おかしそうに笑うデクスターに、「それもそうか」と、アリシアは身体を預けていた長椅子から立ち上がった。ゆっくりと身体を伸ばしてから、足元に落ちた掛け布を拾い、背もたれに放り投げた。


「この場所は落ち着く。それにやることはやってるから、ゼーラに何か言われることもない」


「あなたは効率的ですからね。それで、どんな夢を見ていたんですか?」


「故郷を出たあと、はじめて聖女様に会った時の夢だ。そういえば最近はお会いしていないな」


 夢の余韻がまだ薄く漂っている。喧騒の中で初めて聴いたあの心地よい声の響きは、いつまでも耳の奥に残り続けていた。


「あの方もお忙しい身です。我々が動けば星蝕の欠片を集めることは出来ますが、その先はお任せするしかありません。順調に数が集まっているので、最近は聖殿に籠られがちのようです」


「そうか。リグリアにある分は見つかったのか?」


「それは鏡(・)花(・)た(・)ち(・)に任せておきましょう。ゼーラが割り振ったとおり、我々はまだ見つかっていないものを探すだけです」


「そうだな」


 デクスターは何かを手元に書き留め、アリシアはその傍らで書架の背表紙を視線でなぞっていた。


「そういえば、あなたの故郷でひと騒動あったそうですよ。何でも巨大な魔物が現れたとか」


「別に私の故郷が滅んだわけではないんだろう?」


「反応が淡白ですねえ」


 デクスターが呆れたように肩を竦(すく)めるが、アリシアの反応は変わらない。彼女にとって故郷は既に切り捨てたものに過ぎず、その瞳に郷愁の欠片は映っていなかった。


「自分の故郷で騒ぎを起こした女にそれを言ってどうする?」


「それもそうでしたね」


 アリシアの視線が、円卓の上に並ぶ薬瓶の列をぼんやりと眺めた。


「お前の研究は順調なのか? リグリアに行く鏡花に何か薬を持っていかせただろう?」


「あの薬は、まぁ失敗作といったところです。そのまま廃棄するのも惜しかったので、試せそうならと渡したに過ぎません。それについて鏡花の配下から使用報告が届きましたが、私の望んだ効果は得られなかった……」


 アリシアはデクスターの顔を覗き込んだ。


「人間が使ったんだろう?エルフの私が飲んだらどうなる?」


「あなたにその薬を飲ませるわけにはいきません」


 やんわりと拒否が返ってきた。本当に飲ませるつもりがないと理解したアリシアは、薄く唇を吊り上げた。


「ふふ。私に希望を与えてくれた聖女様。そして、デクスター。お前のために私は動く。お前も星蝕の地にたどり着きたいんだろう?」


「ええ。あの場所には、今の私が知らない未知が存在するでしょうからね」


 デクスターは淡く青色に発光する液体が入った薬瓶をじっと見つめていた。


挿絵(By みてみん)


 そこへアリシアが音もなく近づき、彼の背後に立つ。薄紫の髪がデクスターの白衣をかすめた。革の手袋をはめた細い指を、静かに彼の肩に乗せて、耳元に顔を寄せる。


「お前の実験で、エルフの私の肉体が役に立つならいつでも協力しよう」


 そこには、彼だけに向ける甘く挑発的な笑みが浮かんでいた。当のデクスターは、彼女の気配を背後に感じながらも、意に介さぬ様子だった。


 ややあって、デクスターが呟いた。


「実験の助手であるなら依頼しますよ」


「ああ、それでいいさ」


 背後から離れる際、アリシアの指先が彼の白衣を軽く弾いた。革手袋越しに伝わる体温は微かなものだったが、彼女を喧騒という呪いから解放し、今の静寂を与えてくれた男への恩義を示すにはそれで十分だった。


 軽く手を振りながら、アリシアは研究室を後にする。


 その気配が遠ざかり、残されたデクスターは、彼女が触れた肩を一瞥した。それから手元の薬瓶に視線を戻す。


「私のやっていることを理解したうえで進んで協力するのだから、本当に奇特なエルフですね」


 ふっと笑った呟きは、静かな部屋の中に消え、薬瓶の中の青い液体だけが変わらず揺れていた。


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