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輪廻の檻 ―異世界で再会した幼馴染は、俺を知らない敵だった―  作者: あすらりえる
第二章_翠玉と災禍の庭

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第58話:滝の音だけが聞こえた

 森の高台から、レナートは海里とヘルマンの戦いの一部始終を俯瞰(ふかん)していた。


 それは一方的であり、戦いの体を成してはいなかった。海里を里に留める命は違えられたが、その実力を確認できたことは僥倖(ぎょうこう)だ。素行不良な部下の命令無視も時に有用な結果をもたらす。


「想像以上に強い……。が、あれだけでは腕の立つ冒険者に過ぎない。重力魔法はともかく転生者としての固有能力があるならば、もっと特殊な力があるはずですが……」


 独白のような疑問に応じる声があった。


「惜しかったですね。エルフの少女が邪魔をしなければ、まだ見ぬ彼の真価を見られたかもしれなかったのに……」


「ッ!?……ゼイロンさん!」


 声のした方へ慌てて振り向くと、誰もいなかったはずの場所に、いつの間にかゼイロンが立っていた。影魔法により自在に姿を隠し、あるいは現れる術があることは知っている。だが海里の観察に意識を奪われ、その接近に全く気づけなかった事実に戦慄した。


「そうですね。ヘルマンは失敗しましたが、次はエーリッヒに期待を……」


 レナートが言いかけとき、ゼイロンが向ける視線に言葉を呑んだ。


 その目は「あなたは見ているだけのつもりか」と言っているように見えた。レナートが返答するよりも早く、事態は新たな局面を迎える。


 森の奥から伝わる振動が徐々に大きくなり、悍ましい気配の接近を肌で感じた。


「一体何が!?」


「これは……。ふむ、期待以上に強大な魔物のようですね……ふふふ」


 レナートの動揺を余所に、ゼイロンは薄く笑った。


 レナートは理解した。自身が仕掛けた魔物寄せの魔道具に引き寄せられた獲物が現れたのだと。


 樹々をなぎ倒し、巨躯で地面を抉りながら進む大蛇。全身に不揃いな薔薇を咲かせ、無数の棘を生やした異形。薔荊蛇(しょうけいだ)が身じろぎするたび、その身体から薔薇の花弁が零れ落ちる。


 その光景を前に、レナートは己が支配下に置けると過信していたものの本質を突きつけられた。


「あれが薔荊蛇……なのですか……」


 反射的に身を低くし、高台から眼下を窺う。禍々しく赤い瞳が気絶したヘルマンを見ていた。


 気づけばゼイロンは再び影へと姿を消していたが、レナートはその場から微動だにできず、恐怖に縛り付けられた。異形という存在を根底から侮っていたことを認めざるを得なかった。直後、ヘルマンを見据えていた薔荊蛇の視線がレナートの潜む高台へと向いた。


(位置がバレた……!?何故だ?魔物寄せの魔道具か!!)


 後悔が脳裏をよぎるが既に遅い。


(まずい……!私の身体には魔道具の香りが付着している!!)


 あの魔物を利用するつもりだった。自らの功績を作りだすための道具として。その思惑は外れ、笑えないと自嘲する余裕さえない。あれは人間の策に収まる器ではなかった。魔道具の香りに誘引されて都合よく動く存在だという浅すぎる前提が崩壊していた。


 捕捉されたと理解しても視線を逸らせない。


(逃げられるか……?)


 ただ固唾を呑んで状況を注視し続けるしかないレナートの耳に、別の邪魔が入った。


『逃げるのは無しですよ、レナート殿。あなたの部下たちは皆、行動している。黒曜の副団長ともあろうお方が、まさか逃げ出すわけではありませんよね?』


 影に潜んだゼイロンの声が聞こえた。


(――ッ!!)


 ゼイロンは捕捉されていない。狙われているのは自分だけ。歯痒さと同時にゼイロンに殺意が芽生えかけるが、思考を薔荊蛇に戻す。


 薔荊蛇の赤い瞳は依然としてレナートを捉えていたが、その視線は再び近くに転がるヘルマンへと戻る。


 確信した。あれは判断している。ただ自身の食欲に従い、どちらを先に喰らうかの順序を決めただけだ。


「お前は後だ」


 言葉を持たぬ魔物に、そう告げられた気がした。


 人間がどのような計画を立てようと、薔荊蛇には関わりがない。その行動原理は己の内側にしか存在しない。魔道具の香りに誘われたのも単なる気まぐれに過ぎず、仮に何もせずとも、この災厄はいずれ必ずエルフの里へ達していた。魔道具はその時間を早めたに過ぎない。


 胃がきりきりと縮むような感覚とともにその事実を理解したが、かといってレナートが放置されたわけではなかった。背後の樹木がガサリと音を立てる。振り返ったレナートの視界に薔薇に寄生されたマッドエイプたちが躍り出た。


「くっ!逃がさないつもりですか……!」


 高台での見物。その余裕は海里の調査という任務が、既に自身の思惑を超えた状況へ変貌したことで完全に消失した。


 薔荊蛇に捕捉され、その支配下の群れに包囲されている。さらに影からはゼイロンが逃走を監視している。レナートはモーニングスターを構え、迫りくる魔物の迎撃を余儀なくされた。




 □■□■□■□




「う……あ。いってぇ……」


 呻き声とともにヘルマンは意識を取り戻し、身体を起こした。骨という骨が軋み、筋肉が千切れそうな激しい痛みが全身を支配していた。


「殺されると思ったのに、海里って奴、俺を殺さなかったのか……。どこに行きやがった?クソが、このままで済ませるかよ」


 意識の覚醒とともに、直前の記憶が戻ってきて怒りと屈辱が再燃する。エルフの小娘を蹂躙する寸前で海里に叩き伏せられた。手も足も出ずに恐怖を抱かされた事実がヘルマンには到底許せなかった。


「もらった薬があったな。力が増す薬だってのに使えるチャンスがなかった。里まで追いかけて、あいつらに報復してや……」


 ヘルマンは懐の薬瓶に手をかけようとし、その恨み言を飲み込んだ。背筋を這い上がるような冷気に襲われたから。


 周囲の空気は、海里らと対峙していた時とは明らかに異なり、急速に温度が下がっているような錯覚を覚えた。気のせいでは片付けられない。ヘルマンは、ゆっくりと視線を背後へ巡らせた。そこにあったものは、常識の埒外にある純粋な恐怖そのもの。


「ひっ、ひいいいいいいいい!!!」


 視界を埋め尽くす赤い瞳は薔荊蛇(しょうけいだ)のもの。威容を誇る薔荊蛇の眼光が、ヘルマンをじっと見ている。取り出しかけた薬瓶は指先から滑り落ちて地面に転がる。


 薔荊蛇がわずかに身じろぎするたび、身体に咲いた禍々しい薔薇がポロポロと零れ落ちる。その花弁が草木に触れるや否や、異質の魔力が周囲を侵食し、辺りを薔荊蛇の庭へと変貌させていく。折から風がヘルマンの背後から薔荊蛇の方へと吹く中、自然の理を無視した悍ましい力のあり方を見せられた。


 薔荊蛇は微かに「しゅる……しゅる……」という粘性の高い湿った音を響かせた。


 毒々しい紫色の舌が、獲物の反応を確かめるかのように出し入れされる。報復の念など一瞬で瓦解した。


 今の自分は、この捕食者の前に晒された無力な餌に過ぎない。生き延びること。それ以外の思考が頭から消えてなくなった。


「う……うわあああああああああああああああああああッ!!」


 ヘルマンは一目散に、エルフの里とは逆方向、森の奥地へ向かって駆け出した。どこへ向かっているかなど関係ない。ただ薔荊蛇から一歩でも遠ざかることのみに全神経を注ぐ。激痛を訴える身体に鞭を打って狂ったように森を疾走する。


 逃げ出した獲物を視界に収め、薔荊蛇は急ぐ素振りもなく悠然と追跡を開始した。巨体が地面を抉り、転がっていた薬瓶を無造作に押し潰す。薔荊蛇にとって、ヘルマンの必死の逃走など、距離を稼ぐに値しない悪足掻きでしかなかった。




 □■□■□■□




「ぜぇー、はぁー、はぁー、はぁー」


 どれほどの時間を走り続けただろうか。肺が焼けつくような苦痛に、喉の奥から血の味がせり上がる。足をもつれさせながら逃げ続けたヘルマンは、滝の裏側に隠された洞窟へと辿り着いた。


(ここなら……)


 身を隠すには十分な奥行きがある。轟々と鳴り響く水の音に包まれ、ヘルマンは膝を突き、喉を鳴らして安堵の息を漏らした。


 しかし、その希望はたちまち潰えることになる。ずずずずず、という巨躯が地面を抉る音が、滝の音を切り裂いて耳に届いた。


(追ってきてやがる……!?だが気づかれるわけねぇ。ここは滝の裏だ。これだけの音だ、俺の呼吸や気配を嗅ぎつけられるはずがない!)


 恐怖に怯える思考で、必死に都合のいい理屈をかき集める。そう思わなければ発狂してしまいそうだった。


 だが現実は非情だった。滝の前を通り過ぎたかに見えた巨大な影が、不自然な角度で静止して鎌首をもたげた。やがて絶望を具現化したような威容が、ぬぅっと暗い洞窟の入り口を塞ぐように突き入れられた。


 闇の中で二つの赤い瞳が爛々と輝き、逃げ場のないヘルマンをじっと見ていた。


挿絵(By みてみん)


「は……はっ、はっ、はっ。何で……何で俺の居場所が分かるんだよぉ――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!!!」


 ヘルマンの絶叫は滝の音に飲み込まれて消えた。気配を断つ術を持たぬ人間が、理を外れた捕食者から逃れる術など最初から存在しなかった。逃げようとしたヘルマンの身体に突如として痺れが走った。


 指先から感覚が消失し、四肢から力が抜ける。声も出せぬまま、彼は薔荊蛇(しょうけいだ)の前で倒れた。


 次の瞬間、ヘルマンの視界は反転し、巨大な口腔が世界を覆い尽くした。


 真っ暗な喉の奥へと引きずり込まれる刹那、彼が最後に認識できたのは、流れ落ちる滝の水の白さと轟々と流れる音だけだった。


 他者の尊厳を踏み躙り、その悲鳴を楽しんできた男の断末魔は、滝の音に飲み込まれ、誰にも届かなかった。


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