第36話:鏡花
白い煙がヴェノム・ルカンの感覚を狂わせている僅かな隙。 海里と合流したジュノアは、魔力を乱し、身体を蝕みつつある毒の激痛を悟られぬよう装って問いかけた。
「海里……あの魔物の嗅覚を封じたみたいだけど、何を使ったの?」
「以前話した道具屋で入手した煙玉をつかった。嗅覚に優れているあいつには効果覿面だった」
海里は煙の向こうで暴れる巨躯を見据え、店主のシモンの顔を思い浮かべて内心で感謝した。
ジュノアは激痛で遠のきそうになる意識を繋ぎ止めるように、あえて戦いとは無関係なその先の話題に触れた。
「ああ、剣を買ったと言っていた。……ふふ、ラルフも興味持ってたわね。海里、私にもそのお店を紹介してくれるかしら?」
「ああ、一緒に行こう。店主のシモンさんは変わり者だけど、品揃えは確かだからジュノアもきっと驚くさ」
海里の提案は、戦いが終わった先にある平穏な時間を見据えたものだった。それが今のジュノアには微笑ましかった。
「……ええ、そうね。約束よ。なら、早くあの魔物を倒さないと」
海里が自分の傷の異常に気づいていないことに安堵し、ジュノアは強烈なめまいに耐えながら、薄く微笑みを返した。
その笑みの裏で、彼女の身体を蝕む右腕の青白い光が、より一層不気味にその輝きを増していた。毒素はもはや傷口に留まらず、じわりとその浸食を広げていた。
「ジュノア。さっきあいつの潜行を封じた時、魔力をかなり使っただろ。……まだ余力はあるか? あるなら、あいつの機動力を削ぐことに集中してほしい。」
海里の問いかけは、ジュノアが毒に侵されていることにまだ気づいていない。
「任せて……。それなら、ちょうどいい仕掛けを思いついていたところよ」
傷から入り込んだ毒で動けなくなる前に一気に決着をつける。それがジュノアにとっての最優先事項。
「ありがとう。一緒に戦うと心強いよジュノアは」
「ふふ、私もよ」
海里の飾り気のない言葉が、ジュノアの胸を熱く焦がす。 短い言葉の応酬。だが、そこには生死を共にする者だけが持つ親愛が凝縮されていた。
二人は同時に前を向き、未だ煙の中で暴れる巨軀を見据えた。 因縁のヴェノム・ルカンを倒すため、二人は最後の行動を開始した。
ジュノアは震える両手を掲げて水の魔力を練り上げる。 彼女の周囲から溢れ出した水の魔力が戦場一帯を包み込む濃密な霧へと変化していく。煙玉の白煙と混じり合ったそれは、嗅覚に続き、ヴェノム・ルカンの残された左目から視界をも奪い去っていく。
潜行を封じられ、嗅覚をも断たれた巨躯が、苛立ちと警戒を露わにしてその動きを止める。 だが、嗅覚は取り戻しつつあり、霧の向こうから接近してくる獲物の匂いを微かに捉えた。今度こそ切り裂かんと、ヴェノム・ルカンは前脚の爪を振り下ろす。
しかし、その一撃は、空を斬った。
海里はもう一度、羽のような軽やかさで跳躍し、その爪撃を寸前で回避する。 二度は同じ攻撃を食らわないと主張せんばかりに、空中に飛んだ海里を食い千切らんと、ヴェノム・ルカンが移動しながら上空を見上げてその巨大な顎を開いた。
「――かかったな!」
その直後、ヴェノム・ルカンの片脚が地面へと深く沈み込んだ。
それは、二人がヴェノム・ルカンの視界を奪う霧の裏で仕掛けた小さな罠。 ジュノアが地面に浸透させた水の魔力で地面の一部を沼のようなぬかるみへと変えていた。ヴェノム・ルカンがその位置へ移動した瞬間、海里が重力の魔力を叩き込む。 ヴェノム・ルカンの自重にぬかるんだ地面が耐え切れず、その巨体を地面へと引きずり込んだ。
ヴェノム・ルカンが前のめりに転倒した絶好の隙を、海里は逃さない。倒れ伏して藻掻く背中へ着地する。
「喰らえぇッ!!」
渾身の力を込め、剣をその背へ垂直に突き立てる。 重力を纏い質量を得た刃が硬質な背甲の内側へと沈むようにめり込んでいった。
ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!
内臓を直接蹂躙された怪物の咆哮。
「……効いたな!」
海里がさらなる追撃を加えようとした瞬間、ヴェノム・ルカンが死に物狂いで巨躯を激しくのたうち回らせ、背中の海里を振り落とそうとする。
「振り落とされて……たまるかぁッ!!」
海里は背中の棘の隙間に指を食い込ませ振動に耐えながら叫ぶ。 視界が激しく揺れ、握力が限界に達しようとしたその時。
海里の視界の端で、銀白色の髪をたなびかせてジュノアが動いた。
「……海里、そのまま離さないで……ッ!」
ジュノアが暴れるヴェノム・ルカンの腹部の真下へと滑り込む。
逆手に握りしめた剣の切っ先に水の魔力を凝縮させていく。毒の影響で乱れる魔力に敢えて抗わず暴れさせる。それは水流の螺旋となって、ジュノアの叫びとともに解放された。
「貫けぇッ!!」
ジュノアが吠え、腹部の真下から剣を突き立てた直後、ヴェノム・ルカンは高圧の水柱に猛烈な勢いで抉られることになった。
腹部を削り、抉り取る凄まじい水流。 一点に全魔力を集中させた高圧の奔流は、脆弱な腹部を無慈悲に穿ち、容赦なくねじ込まれていく。
ぐお、おぉぉおおおおお……ッ!?
臓腑を直接穿たれた衝撃にヴェノム・ルカンの巨躯が完全に硬直した。
だが、それはジュノアも同じだった。毒に侵された身で限界を超えた一撃を放ったジュノアもまた、すべての余力を使い果たしていた。
ヴェノム・ルカンの腹部から抜け出すのが精いっぱいで、敵を目の前にして、その場にへたり込んでしまう。
それをヴェノム・ルカンもまた見逃さない。妨害を続けてきた獲物の片割れがついに動けなくなった。前脚の爪を大きく振り上げ、ジュノアを引き裂かんとする。
「ジュノア!!」
ヴェノム・ルカンの背甲の上で辛うじて体勢を整えた海里の喉が裂けんばかりの絶叫が響く。
視界がスローモーションになり長大な爪がジュノアの命を刈り取ろうとする軌道が、あの日、鏡花を襲った凶刃と重なる。
同時にルクスの最期が蘇る。彼は最後の瞬間にジュノアを想っていた。その命がヴェノム・ルカンによって奪われようとしている。
(そんなことは、絶対にさせない…!!)
海里の心臓がドクンと音をたてて大きく脈打った。ルクスに誓ってジュノアを守るという意思が応えるように、首から下げたペンダントが淡い光を帯びて海里の全身を、剣を包み込む。
(もう二度と、俺の目の前で奪わせるものか!)
海里がヴェノム・ルカンの背中に刺さったままの剣を一気に抜き去る。 その剣先が狙うは、ジュノアの命を刈り取らんと振り下ろされるヴェノム・ルカンの右前脚。
白い光を帯びた剣が横薙ぎに一閃された直後、強靭な甲殻に覆われたヴェノム・ルカンの右前脚が消失していた。
が、あああ!?
右前脚を奪われたヴェノム・ルカンが鳴き声を上げ、標的を海里へと移す。
海里はヴェノム・ルカンの背中から跳躍し、ジュノアを背後にして正面から相対して、剣を頭上に高く掲げた。その刀身を、憑想の白い光が呑み込んだ。重力の魔力を注ぎ込む余地すらない。海里の想いそのものが形を成したかのような、直視できないほどの輝きを放っていた。
「俺から……これ以上、何も奪うなッ!!」
海里が叫ぶと同時に踏み込み、振り下ろされた剣が、ヴェノム・ルカンの巨躯に吸い込まれるように直撃した。
硬いはずの甲殻は光の前に意味を成さない。 剣がヴェノム・ルカンの身体を縦に貫いた瞬間、その光が触れた部位、右前脚の付け根から下半身にかけての全てが眩い白い光に呑み込まれて消滅していく。
が……ぁ……
光の範囲外で残されたヴェノム・ルカンの上半身と左の前脚は、轟音を響かせながら地面に叩きつけられた。ルクスが刻んだ右目の傷は、皮肉にもそのまま残されていた。
「はっ……はぁ……」
海里はふらつく足で振り返る。そこには驚愕の表情で海里を見上げるジュノアの姿があった。彼女が生きて、そこにいる。
その事実を確認した瞬間、海里の全身から力が抜け落ちた。
「よかった……」
剣が手から滑り落ち、海里の体が傾く。だが、地面に倒れる前にジュノアの腕が彼を抱き留めた。
「海里……馬鹿、また。こんな無茶をして……」
「守れ……た……」
海里は安堵の息を漏らす。元の世界で血に濡れて冷たくなった鏡花とは違う温かいジュノアの体温。その温もりが、海里がずっと抱えていた守れなかった後悔を少しだけ溶かしてくれた気がした。
海里とジュノアは互いに身体を支えあい、生身の温もりに安堵していた。だが、ジュノアの肩が小刻みに震えていることに気づき、海里はそっと彼女の身体を離してその顔を覗き込んだ。
「ジュノア……?」
すぐ近くで見た彼女の顔色は蒼白に変色していた。唇は紫色に震え、額には大粒の脂汗が浮かんでいる。
「……海里」
無理に作った彼女の笑みから、海里はジュノアが不調を押し隠していたことに気づいた。海里が彼女の右腕に目を落とすと、そこには青白い光を放つ紋様が浮かび上がっているのが見えた。
「ジュノア! その腕、まさかさっきの爪に毒が……ッ!?」
海里が叫び、彼女を支え直そうとした、その時だった。背後から肉を無理やり引き摺るような不快な音が響いた。
海里の背筋に、凍り付くような悪寒が走る。 振り返った視線の先で、地面に叩きつけられたヴェノム・ルカンの上半身が、残された左腕を地面に突き立てて蠢いていた。身体の半分を消失させ、断面から内臓を零しながらも、ヴェノム・ルカンはまだその命を繋ぎ止めていた。
「嘘……だろ……。何で、まだ生きているんだ……ッ!?」
海里の顔から血の気が引く。 完全な勝利を確信して緊張の糸を緩めてしまっていた。それ以上に、連続した死闘と最後の一撃に全てを賭したことで、海里の肉体はもう限界を超えていた。
海里は震える膝を叱咤し、反射的にジュノアを背後へ庇う。
「海里、だめ……逃げて……。もう、私は……」
背中に届くジュノアの声はひどく弱々しい。
「……嫌だ。君を置いて逃げるなんて、絶対にしない」
残された左前脚で地面を抉りながらヴェノム・ルカンが這い寄ってくる。その執念は、自分をこの無惨な姿にまで貶めた獲物を最後に道連れにせんとする呪いそのもの。
血臭を撒き散らしながら眼前に迫ったヴェノム・ルカンが、二人を食い千切らんとその顎を大きく開いた、その時だった。
突如、空気が震えて激しい風が吹き荒れた。 次の瞬間、ヴェノム・ルカンの残った左半身が細切れに引き裂かれていく。重力剣と水刃をも弾き返した硬質な甲殻が容易く削ぎ落とされ、鮮血と肉片が飛び散った。
ヴェノム・ルカンは最期の叫びを上げることすら許されず、今度こそ動かぬ肉の塊となって崩れ落ちた。
「な、なんだ?何が起きたんだ、今のは……?」
あまりに一瞬の出来事。海里が事態を飲み込めずに呆然としていると、ジュノアのそれとは異なる、氷のように冷たく無機質な女の声が響いた。
「随分と弱っていたから……この程度の風魔法で十分だったか」
「ッ!!!」
海里は驚愕に目を見開き、弾かれたように声の主を探して視線を走らせた。
そこに立っていたのは、一人の女。 深いフードが落とす影によってその素顔を窺い知ることはできない。
だが、問題は女の顔が見えないことではなく、海里の耳に聞こえた声にあった。その声は、そもそも聞き間違えるはずがないものだった。海里は自身の心臓の鼓動の音が激しく聞こえる錯覚を覚え、衝撃が全身を貫く。
海里が目の前の光景に言葉を失い、衝撃に打ちのめされていたその瞬間、再び突風が吹き荒れた。女の顔をすっぽりと隠していた深いフードを一瞬で捲り上げ、その素顔を白日のもとに晒した。
「……な、んで……」
海里の唇から乾いた掠れ声が漏れる。 その視線の先に現れたのは、かつて失ったはずの存在。
露わになった女の顔は、海里の記憶に深く刻み込まれた特別な存在と寸分違わぬものだった。
元の世界で死の間際、もう一度だけ会いたいと切望した幼馴染の少女。
転生してなお、その面影を胸に刻み、形見のペンダントは何度も窮地から海里を救ってくれた。その本来の持ち主。
そして――かつて自分の腕の中で、冷たく、物言わぬ骸へと変わってしまった、あまりにも大切な存在、三澄鏡花。
短く切り揃えられた漆黒の髪は、海里の記憶の中の面影と完全に一致していた。しかし、その端正な顔立ちは、かつての陽だまりのような温もりを完全に失っていた。
特にその瞳。人間らしい感情を削ぎ落とした、硬質で美しい瞳。だが、海里の姿を映すその瞳には、一欠片の郷愁も動揺もない。海里の記憶にある鏡花の瞳は、死の瞬間まで海里を映していた。
「あな、た……だ……れ?」
海里の背後で、毒に侵され意識を混濁させたジュノアが、異様な気配に抗うように声を絞り出す。 女はわずかに視線をジュノアへと向けた。その表情は微動だにせず、ただ事実を、感情の伴わない無機質な声で応じた。
「私は輪廻教団、七元徳の一人、『信仰』の鏡花。第四転生者だ」
その名乗りは、海里の心臓を直接刃で突き刺すような衝撃を伴った。
「……鏡花……」
元の世界で守れなかった幼馴染が、自分と同じくこの世界に転生し、目の前に立っている。本来ならば、奇跡だと涙し、歓喜を上げて駆け寄るべき場面。だが、疲労と関係なく海里は一歩も動けなかった。 目の前にいる『信仰』の鏡花からは、海里の知る幼馴染の面影が欠片も感じられなかった。
鏡花という名の異質な他者。 その威圧感を前に、海里の喉は引き攣り、問いかけたいはずの言葉は行き場を失って胸の奥で渦巻いていた。




