第34話:因縁の再来
ゼファーの放った雷撃の余波がまだ大気を震わせる中、海里、リズ、レンの三人は、崩れかけた土壁の陰でジュノア、ラルフと合流を果たした。 返り血と泥に塗れた互いの姿を認め、五人の間の張り詰めた緊張が僅かに緩む。
「ジュノア、ラルフ! 無事だったか……!」
「海里! ええ、なんとかね」
海里は安堵の息を吐き出し、そこから空を見上げて尋ねる。
「……さっきの雷撃、ゼファーさんだよな。すごい威力だ」
「ええ。それにこの冷気。……どうやら後方に控えていたシルフィアさんを呼んだみたいね。あの二人が揃ったなら、戦況は確実に変わるわ」
ジュノアの言葉にラルフも頷く。
「ああ、時間の問題で数の差は覆せる。俺たちも残りのルカンを片付けながら、ゼファーさんのところへ合流するぞ。側面から叩けば一気に終わらせられるだろ」
束の間の休息と、次の行動へ向けて彼らがそれぞれの武器を握り直そうとした刹那、変化が訪れる。
先ほどの雷鳴とは全く質の異なる不吉で底知れない振動が地面から響き始め、その音が徐々に海里たちのいる場所へ近づいてくる。それは恐怖を感じさせるおぞましい振動だった。
海里はその振動を感じながら、脳裏に決して忘れられない記憶と直結している巨大で醜悪な影がよぎる。
「……っ、この感じ……やっぱり来たのか……」
「海里? どうしたのよ、何が……」
リズの問いかけに答えるより先に、疑問の正体が先に姿を見せ、その場の全員が震源に一斉に視線を向けた。
凄まじい衝撃と共に、賊たちが拠点にしていた山塞型のアジトが内側から爆ぜる。 土と木材で組まれた堅牢な拠点が不規則に脈打ち始め、土壁が波打つように歪み始めた。そして、地面の割れ目から、巨大な黒い影が地上に這い出した。
地上に這い出したそれは、これまでのルカンを遥かに凌駕する異形だった。 煤けた岩塊を思わせる赤黒い外殻。それを繋ぎ止めるのは、硬質な漆黒の皮膚。背筋から首筋にかけては、獲物を串刺しにするために存在するような鋭利な棘が、剣山のように並んでいる。
その巨体が山塞型のアジトに接触したことで、激しい衝撃音が戦場を揺るがした。 ルカンの群れが既にアジト内を蹂躙していたことで土と木材で組まれた堅牢な拠点は脆くなっており、その衝撃に耐えきれない。岩壁に無数の亀裂が走り、泥と木屑が崩れ落ちる。人の築いた砦が、ただの塵へと還されていく光景は、再編されつつあった討伐隊を再びパニックへと突き落とした。
ぐおおおおおおおおおおおおおっ!!!
大気を震わせる咆哮は、海里たちの鼓膜を容赦なく穿ち、原始的な恐怖を刻み込んだ。
「あ、あれもルカンなのかよ……!? デカすぎんだろ、姿だって全然……っ!」
レンの声は上擦り、驚愕のあまり不自然に裏返っている。 群れを為す下位個体とは存在の格が違った。
海里は剣の柄を握り締め、滲み出る汗を感じながらも、その瞳を逸らさなかった。
「あいつ……前より、大きくなっている。あれからさらに喰らったのか」
「海里……あれはルクスの死んだ場所に現れた奴なのよね?」
「……ああ、そうだ」
ジュノアの問いかけに答える海里の脳裏に、あの日ルクスと対峙した魔物の姿が甦る。あの時でさえ巨躯だったが、前回の遭遇時よりも巨躯になっている。捕食を繰り返し、異常なまでの急速成長を遂げたことに疑いの余地はなかった。
ルカンの上位個体は地上へ出るなり、周囲の喧騒を歯牙にもかけず、赤い瞳で周囲を睥睨した。 そして、その視線が、最も食いがいのある獲物に固定される。ディランが暴れさせていた猪型の魔物グリムボア。
ぷぎゃああああああああああああッ!!
ゼファーの雷撃さえ弾き返したグリムボアの硬皮も、上位個体の前では物理的に柔らかな皮膜に過ぎなかった。 硬皮を誇る巨獣を、熟れた果実でも潰すかのように容易く噛み砕き、下位個体に増して耳障りな咀嚼音が響き渡る。
血と肉塊が撒き散らされる中、上位個体は牙と爪を鮮やかに駆使し、瞬く間に食事を終えた。 だが、その食欲はグリムボア程度では満たされない。
赤く燃える瞳がゆっくりと移動する。 次に狙いを定められたのは海里たち。 牙の隙間から溢れる血を滴らせながら、上位個体は次の獲物たちを見据える。
「おい、捕捉されたぞ」
ラルフの声が響くが、その槍の先は微塵も揺れていない。
禍々しい眼光でこちらを射抜く異形を前に、海里は明確に他のルカンと区別するために名付けることにした。
「あいつは別格だ。他のルカンと区別するなら……ヴェノム・ルカンとでも呼ぶべき魔物だ」
「ヴェノム・ルカン、ね。……右目が潰れているのが救いかしら。少しは視界に死角があると期待したいわね」
ジュノアの冷静な言葉に、海里の視線はヴェノム・ルカンの右目に走る深い裂傷へと吸い寄せられた。それは命を賭して海里を生かした男が遺した消えない傷痕。
「……あの傷は、瀕死のルクスが力を振り絞って刻んだものだ。奴が何を喰らって成長しようがあの傷は消えない。彼の意志を無駄にはしない」
「そう……あれはルクスが。なら、私たちがここで倒す理由がまた一つ増えたわね」
ジュノアが剣を正眼に構え直した、その刹那。 獲物の抵抗意志を敏感に察知したヴェノム・ルカンが、巨体からは想像もつかない速度で地を蹴った。
狙いはジュノア。 巨大な岩石が高速で飛び出したかのような突進。
「ジュノア! 避けろッ!!」
ラルフの叫びが届くより先に、黒い影が視界を塗り潰した。 ヴェノム・ルカンが通り過ぎた直後、轟音と共に地面は深く抉れ、瞬く間にラルフたちがいる側と、海里とジュノアがいる側が物理的に分断された。
二人の間に横たわったのは、容易には飛び越せぬほど幅広く、底の見えない深い溝。
「くそっ、この野郎……ッ!」
ラルフが溝を越えようと踏み出すが、それを阻むように地中から新たなルカンの群れが、腐った泥のように溢れ出した。
「邪魔すんじゃねぇッ!! 今はそれどころじゃ……!」
「ラルフ、レン、リズ! そっちの群れを頼む!」
舌打ちするラルフを制したのは、溝の向こう側でヴェノム・ルカンの目前に立つ海里の声だった。
「俺とジュノアで、あいつを仕留める。……そっちは頼む!」
混乱の中でも海里は冷静だった。ヴェノム・ルカンという上位個体が疲弊した討伐隊から分断された今のうちに叩く。同時にそれは、この魔物と因縁がある自分の役目だと確信していた。
「了解! 海里、そっちは任せたわよ! この大きさの群れなら、私がまとめて焼き払ってあげるわ! レン行くわよ!」
リズが即座に応じ、その杖の先に猛烈な火炎を収束させる。
「海里!死ぬんじゃねぇぞ! 変な怪我したら承知しねぇからな!」
レンの荒々しい激励が届くが、その声さえ遠ざかるほどにヴェノム・ルカンの執拗な追撃が海里とジュノアを翻弄する。一撃を繰り出すたびに土埃が舞い、二人は仲間たちから、そしてゼファーの指揮下からも孤立させられていく。
激突の余波で巻き上がった土埃の向こう側、ヴェノム・ルカンが巨躯を震わせ、獲物を仕留め損ねた不快感に喉を鳴らす。
海里は、直撃すれば肉を削ぎ落とすであろう鋭利な爪撃を間一髪で躱し、同様に身を翻したジュノアへと視線を飛ばす。ルクスの仇の上位種と対峙した彼女の動揺を案じたが、それは杞憂だった。
ジュノアは呼吸を瞬時に整えると、額にかかる乱れた髪を無造作に振り払い、静かな声で問いかけた。
「海里。あの魔物は、貴方にとっても倒さなければならない因縁なのよね?」
ジュノアの声音は澄んでいた。今の彼女は王国騎士として使命感と、ルクスを失った悲しみから立ち上がった者が持つ強さが同居していた。
「ああ、そうだ。ここで終わらせる。……ジュノア、君の力を貸してくれ。一人じゃ届かなくても、君となら」
海里の言葉に応じるように、ジュノアは剣を握る手に一層の力を込めた。
「ええ、勿論よ。リグリアの騎士として、そして私個人としても、ルクスが倒しきれなかった魔物だというのなら必ず打ち倒す。それに……」
彼女は一度だけ海里と視線を交わし、薄く唇を綻ばせた。
「貴方の背を支えることが、今の私のすべきことだと思っている。行きましょう海里」
彼女の瞳は、白昼の陽光さえも撥ね退けるほどに輝いていた。それは亡きルクスへの弔いと、隣に立つ新たな戦友への信頼を映す光。ヴェノム・ルカンが放つ殺意を正面から打ち払う輝き。
「ありがとう、ジュノア」
海里はふっと笑う。
分断されたこの場所に、救援を待つ猶予も逃げ出す隙も存在しない。 孤立無援。だが、二人の心に絶望の影はどこにもなかった。二振りの剣が、ヴェノム・ルカンに向かって真っ向から向けられる。
獲物の不遜なまでの戦意を感じ取ったヴェノム・ルカンが、喉奥で唸りを上げ、赤黒い眼光を殺意で爛々と輝かせる。
だが、二人の心は微塵も揺るがない。 ルクスという名の絆を経て、いま重なり合った二つの意思。 その剣先が放つ光は、死を運ぶ魔物の喉笛を捉えていた。




