第33話:……あばよ
「嫌だよ、ディランパパ! 一緒に戦う、一緒に逃げようッ!」
リリィはディランの胸板に縋りつき、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして叫んだ。
「傀儡魔法が効かなくても……僕だってまだ戦えるッ!」
ロロもまた、震える手でディランの厚い胸筋を掴み、必死に意地を見せようとする。 彼らが今、何よりも恐れているのは、押し寄せる異形の群れではなく、ディランという拠り所を失うことだった。
ディランは、その無骨な腕で二人を力一杯抱き締めた。賊に落ちぶれてからの十年、彼にとってこの温もりこそが唯一の救いだった。
「リリィ、ロロ……。お馬鹿で可愛い、俺のガキンチョども。……いいか、絶対に死ぬんじゃねぇぞ」
慈愛とともに拒絶を許さない声。ディランは二人を引き剥がすと、背後に控えるイザベラを見据えた。
「イザベラ、リリィとロロを任せた。お前にばかり、不本意を押し付けちまうが……」
イザベラはもう、反論する言葉を持たなかった。ディランに宿る死の決意が、彼女のすべての異論を焼き尽くしていた。
「……任された。世話になったよ、ディラン」
「俺のセリフだ、そりゃあ」
ディランはわずかに笑って応えた。 それはイザベラにとっても、双子にとっても、忘れられない記憶となるであろうもの。ディランが見せた本心の、そして最後の笑顔。
「行くよ、リリィ、ロロ……ッ!」
「待って、イザベラ! 待ってよぉ!!」 「嫌だ、パパ! パパァッ!!」
泣き叫ぶ双子を、イザベラは強引に両脇に抱え込んだ。いつかの森で逃げ延びた時と同じように。
「……待たない。万が一の時はこうすると、ディランと決めていたんだ」
頬を伝う涙を拭うことさえせず、イザベラは白狼の背に跨った。ディランの覚悟を無駄にしないという意志だけを固め、咆哮を上げる白狼と共に南へと駆け出す。
ディランは、遠ざかる家族の背中からゆっくりと視線を外し、相棒である巨獣へと命令を下した。
「突っ込めッ!! グリムボア!!」
傀儡魔法の影響下にあるグリムボアが、咆哮を上げてルカンの群れへ肉薄する。巨大な牙を振るい、蹄で踏み潰すその猛進は、一時の防波堤となった。
だが、これだけでは足りない。 飢えたルカンの関心を逃げていく白狼から完全に逸らさねばならない。
ディランは十年前に死んでいった仲間たちの姿を思い返していた。あの日、生き残ってしまった後悔を、今この瞬間、救うべき命のために使い果たす。
「はっ……。団長、副団長。あいつらを逃がすために俺が囮になるなんて、柄じゃねぇよな……」
自嘲気味に呟き、ディランの全身から濃密な紫色の魔力が迸った。それは『操魔』の名を冠する彼の最期の魔力行使。
「魔物どもぉッ!!! 俺に向かって集まれぇぇぇええええええッ!!!」
その叫びは戦場の空気を震わせた。 ディランは自身の魔力を、まだ戦場に残っているすべての傀儡ゴブリンや狼たちの行動原理を強制的に書き換えた。
『ディランのもとへ集結せよ』
解放された魔力の奔流に、ルカンの群れが反応した。 逃走する数人よりも、一箇所に集結しつつある大量の生きた餌。ルカンは獰猛な本能に従い、イザベラたちへの追撃を止め、新たな獲物ディランと、彼を包囲する魔物へと一斉に向きを変えた。
無数の牙が肉を裂き、魔物の叫びが重なり合う中心。 その波に呑み込まれる直前、ディランは土壁を蹴って外へと跳躍する白狼の姿を視界の端に捉えた。
「……あばよ」
愉快そうに口の端を吊り上げ、ディランは空を仰ぎ見た。 家族の気配が遠ざかるのを確認した直後、天を割るような雷鳴が轟いた。
そこには、全身に青白い稲妻を纏って跳躍したゼファーがいた。 ディランが魔力を解放した刹那、ゼファーはその意図を言葉を交わすことなく正しく理解していた。
『一か所に集めた餌ごとルカンを焼き払え』
言葉を交わさぬ無言の要求を瞬時に察し、滞空しながら極大の魔力を練り上げていた。
魔物の津波に呑み込まれ、その姿が消える寸前。ディランは満足げな笑みを浮かべ、上空のゼファーを見つめていた。その表情には、己の命を代償に家族を逃がし、後事を信頼に足る敵に託した男の確信が宿っていた。
ゼファーは槍の先に、雷そのものを圧縮したかのような眩い雷球を生成し、高く掲げた。
「――『操魔』ディラン殿。あなたの覚悟に、感謝と敬意を」
その言葉とともにゼファーは掲げた槍を振り下ろした。 螺旋を描き地上へ降り注ぐ巨大な雷撃。それはディランを飲み込んだ魔物たち、そしてルカンの群れを光で塗り潰した。
激突の瞬間、世界は純白の閃光に塗り潰された。一瞬遅れた轟音と衝撃が重なり、雷撃は戦場の一角を熱線で焼き尽くした。
煙が晴れたとき、そこには炭化した魔物の骸が築いた山が出来上がっていた。鼻を突く焦げ臭さと、陽炎のように揺らめく熱気だけが残っていた。
だが、それでもなお、土中からは新たなルカンの影が這い出してくる。
「シルフィア、頼むッ! ルカンを何体か氷漬けにしたい!!」
ゼファーの声に応えるように、崩れかけた土壁の上に一人の女性が降り立った。 荒涼とした戦場にはあまりにも不釣り合いな、純白と水色の衣装を纏った魔導士。
長く垂らした銀白色の髪と、その毛先から覗く細く尖ったエルフ族特有の長い耳。彼女は透き通るような肌と穏やかな瞳をしている。三日月型の意匠を持つ杖を構えた彼女の周囲から冷気が立ち昇る。氷の結晶が中で舞い、満ちる熱気を凍てつく魔力が包み込んでいく。
「やっと私を呼んでくれたわね、ゼファー」
彼女は、混乱に満ちた戦場の激しさにそぐわないほど静かな所作で歩み出る。シルフィアが杖を前にかざすと、ルカンたちの動きが途端に緩慢になる。舞い散る氷の結晶がルカンの身体をなぞった次の瞬間、彼女を狙っていたルカンたちは氷像となって、その場に静止した。
ルカンが鳴き声を上げる暇すらなかった。ルカンの牙を、身体を一瞬にして透明な氷像へと変質させていた。
「このまま出番がないと思ったら……少しだけ、本当に少しだけ、寂しくなってしまったわ」
シルフィアは羽衣でも纏っているかのように優雅に、ゼファーの隣へと着地した。青い瞳をわずかに細め、不満を装いながらも、その視線はゼファーの無事を確認して安堵に揺れている。
「すまない、シルフィア。状況に応じて動けるように君には後方待機していてもらったけれど、私の予想を超える事態になった」
「分かっているわ、ゼファー。私はあなたを支えると決めている。……残りのルカンは、すべて殲滅してしまって構わないわね?」
「ああ、頼む。これ以上は必要ない」
シルフィアに答えながらゼファーは、ディランが最期に立ち尽くしていた方向へ一瞥した。そこには、男の執念の残滓とも呼べる紫色の微かな魔力が、未だに消えず揺れていた。
『操魔』ディランの自己犠牲と、後方待機させていたシルフィアの参戦。 敵対していた男の期待に応え、ゼファーは槍を握り直す。
戦場に満ちる血臭をシルフィアの氷の魔力の静謐さが上書きしていく。ここから、反撃の火蓋が切って落とされた。




