第30話:淀んだ殺意の行方
土壁の上から雪崩れ込む傀儡の魔物が、絶え間ない鯨波と轟音となり戦場を埋め尽くす。だが、その轟音さえ矮小に変えてしまう衝撃が突き抜ける。
傀儡の魔物たちとは一線を画す、この戦場屈指の強者たちの死闘の余波によって、土壁の一部が砕け、それが礫となって降り注ぐ。二つの力が檻の中で暴れ回る感覚を覚えて、海里は迫り来る魔物を斬り伏せながら、肌が粟立つのを抑えられなかった。
ゼファーの雷撃とディランが駆る巨獣の突進が衝突する度に振動が突き上げ、海里の平衡感覚を狂わせる。
「――っ、平衡感覚が、狂う……!」
海里は突き上げる振動に耐えながら迫り来るゴブリンを斬り伏せる。
海里たちの周囲では、討伐隊の騎士や冒険者たちが、文字通り死に物狂いで魔物の鯨波に抗っていた。
「押されるな!陣形を崩すなッ!」「背後から来るぞ!盾を構えろ!」
騎士たちが整然と盾を並べて防波堤となり、その後ろから冒険者たちが矢や魔法、長柄の武器を突き出す。だが、土壁の稜線からは次から次へと魔物が湧き出し、重力に従って文字通り降ってくる。頭上から降り注ぐ暴力に、隊列のあちこちで悲鳴が上がり、血飛沫が舞っていく。
「数が多すぎる!――そおらぁッ!!」
レンは気勢を上げ、土魔法で長大化したメイスを力任せに旋回させた。直撃したゴブリンの肉体がひしゃげ、後続を巻き込んで数体まとめて吹き飛ぶが、空いた隙間は一瞬で新たな魔物によって埋め尽くされる。
「泣き言を言わないの、レン!これだけいるんだから、どこへ撃っても当たるわよ!」
リズは杖を掲げ、魔法の精度よりも連射性を重視した火球の嵐を展開していた。連射される火球が、落下してくる狼の群れを次々と爆炎で呑み込んでいく。レンのメイスが漏らした敵を、リズの魔法が確実に仕留めていく。だが、それでも土壁の稜線上は、依然として魔物の影で埋め尽くされたままだ。
海里は重力を帯びた剣を振るい、確実に一体ずつ魔物を仕留めながらも、周囲の消耗を感じ取っていた。防壁となっている騎士や冒険者たちが少しずつ疲弊し始めていた。
「……流石に、このまま一体ずつ相手をしていては埒が明かないな」
海里は剣を握り直し、土壁の上で魔物を操り延々と送り込んでくる双子へと視線を向けた。
土壁の稜線では、双子のリリィとロロが、眼下の混戦を身を乗り出して見つめていた。その表情には、ディランの役に立てているという高揚感が浮かんでいる。
「見て、ロロ!ディランパパの作戦、すごく上手くいってるわ!」
「うん、リリィ!!やっぱりディランパパってすごい!こうなることがわかっていたんだからさ!!もっともっと兵隊魔物をたくさん送りこもう!!」
二人は手に持った鞭と鎌を構え、傀儡の魔力を背後に控える魔物たちへ流し込み、リリィが頬を紅潮させ、眼下の海里たちを指差した。
「いけぇ!頑張ってあのお兄さんたちを倒してちょうだい!!」
リリィの合図と共に、新たな狼の群れが、土壁の縁から弾むような勢いで雪崩れ落ちた。落下への恐怖を知らぬ魔物たちは、ただ双子の命令に応えて、牙を剥いて海里たちの頭上から殺到する。
「あはは、すごい、すごいよ!ディランパパ!!」
双子の明るく響く声は、戦場の怒号とはあまりにも不釣り合いに響き渡る。自分たちが送り出す暴力が誰の命をどう奪うのか。その現実的な実感を欠いたまま、二人はただ次々と魔物の鯨波を戦場へと注ぎ込んでいく。
その時、海里が動いた。
(……このままじゃジリ貧だ。物量そのものを覆すには、俺の重力で押し潰せるか!?)
海里は剣を左手に持ち替え、空いた右手を頭上へと高く掲げた。その瞬間、彼の全身から魔力が噴き出し、周囲の空気をビリビリと歪ませていく。
土壁の上から魔物を送り込み続けていたリリィとロロが、その異様な気配に顔色を一変させる。
「リリィ、あれヤバそうだよ!」「うん……!下がろう、ロロ!」
本能的な危険を察知した二人が土壁の影へと姿を消した、その直後。海里は魔力を込めて掲げていた手を振り下ろす。その対象は魔物の群れ。数十体分の魔物の質量を同時に叩き潰す。それがどれほどの魔力を食うか、海里には計算する余裕もなかった。
「――潰れろッ!!」
収束された重力の魔力が、頭上から雪崩れ込んでいたゴブリンと狼の群れへと迸りのしかかる。魔物たちは逃げ場のない檻の中で、目に見えない重圧によって、みしみしと音をたてて潰されていく。
土埃が舞い、重圧に耐えかねた地面が円状に陥没する。その中心にいた数十体の魔物たちは元の形を失い、地面に刻まれた赤黒い紋様へと成り果てた。一帯の空間を支配していた狂乱が魔力の重圧によって圧殺された。
「はっ、はぁ……っ、はぁ……」
海里は膝を突きそうになるのを、震える右手の剣でどうにか支えていた。全身を猛烈な倦怠感が襲い視界が白く点滅する。これまで一度も試したことのない広域の魔力行使。その代償として、自身の魔力がごっそりと削り取られていた。
(これは駄目だ。二度は使えない。次にこの規模の重力を放てば、戦場に立っていられなくなる)
だが、海里の肉体を支配しているのは、単なる魔力欠乏による疲労だけではなかった。
(これを……俺が、やったのか……?)
視線の先には、先ほどまで魔物の軍勢であったものが、ただの赤黒い紋様として大地にこびりついている。敵の動きを阻害して翻弄するための魔法ではない。魔力そのものを巨大な鉄槌に変え、数十の命を叩き潰したという生々しい実感。剣を振るう感触すらないまま、一瞬で肉塊へと変えてしまった事実に、海里は慄いていた。
これまでも魔物と戦い仕留めてきた。しかし、この効率的な破壊の行使は、彼が知る戦闘とはあまりにも落差がありすぎた。
「……っ」
込み上げる吐き気を奥歯を噛み締めて強引に飲み込む。今は立ち止まっている暇などない。海里は霞む視界を無理やり戦場へと戻し、迫り来る次の脅威、土壁の端に降り立ち、こちらを殺意の瞳で射抜く双子を睨みつけた。
「……はい、これ飲んで。今のすごい威力だったわ。少し休んでて」
横合いからリズが駆け寄り、魔力薬の瓶を海里の口元へ差し出す。その瞳には海里の無茶への危惧と、それ以上に彼が成し遂げた戦果への賞賛があった。
「……ありがとう、リズ」
震える手で薬を受け取り喉に流し込む。魔力が徐々に満たされる感覚に、海里は短く息を吐いた。だが、薬はあくまで魔力の補給に過ぎない。悲鳴を上げる肉体の疲労までは拭えなかった。
「海里、ありがとよ!回復するまでは俺たちが……って、やっぱり諦めてないか!」
警戒していたレンが、土壁の影から滑り降りてくる二つの影を捉えてメイスを構え直した。魔物の群れが圧殺された凄惨な光景を目にしながらも、リリィとロロは前回の敗北という屈辱を晴らすべく、その瞳を怒りに燃やしている。
「うるっさいわねぇ!いくらあんたたちが強くたって、そのお兄さんみたいに疲れないわけないじゃない!ほら、次よッ!!」
リリィが悔しげに鞭を振るい、生き残った魔物たちへ強引に前進を命じる。
「魔力薬を飲んだって、すぐには回復しきれない!邪魔するなら先にお前たち二人から僕の鎌でぶった斬ってやる!」
ロロは大鎌を構え、海里の前に立つレンとリズを仕留めるべく一気に肉薄してきた。
「海里には近づけさせねぇぞッ!」
レンが叫び、土魔法を纏わせたメイスを旋回させ、ロロの初撃を強引に弾き飛ばす。
「レン……リズ……」
「まだ動いちゃダメよ、海里!あなたの派手な仕事は終わったんだから!」
動き出そうとする海里の気配を感じてリズは制止の声を上げ、彼を背に庇いながら炎の連射を開始した。レンとロロが再び激突せんとする間隙を縫い、リズの放つ火球が霰のように降り注ぐ。爆炎が魔物の足止めを担い、その隙間からレンの一撃が次々と粉砕していく。
「クソッ、リリィ!もっと魔物を増やせ!この二人、全然崩れない!」
「もうやってるわよ!見てわかんないの!?」
ロロの焦燥に満ちた叫びに、リリィが金切り声を上げる。リズの炎がリリィの視界を遮り、レンのメイスが着実に残った魔物の数を減らしていく。
今は海里を守る二人が、リリィたちの猛攻を真っ向から受け止めていたその時だった。
激しい怒号が飛び交う混戦の中、その男の声だけが、海里の鼓膜に不気味なほど鮮明に届いた。
「聞き間違いじゃあなかったかぁ。……海里?海里だとぉ……!?」
周囲の賊たちが討伐隊の猛攻に悲鳴を上げる中、一人の男が海里の名に反応し、その顔を驚愕と歪んだ歓喜に歪ませた。その響きには、長い時間をかけて煮詰められたような憎悪が混じっていた。
「え?」
海里は反射的に視線を向けた。不揃いで色あせたボロ布、露出した肌に刻まれた無数の傷跡。一瞬、誰なのか分からなかった。だが、その体格と、海里を射抜く目の色だけは、変わっていなかった。
そこにいたのは、かつてロルカ村で自分を売り飛ばそうとし、異世界の悪意を最初に教えた男バルドだった。
だが、海里の記憶にある姿とはあまりにもかけ離れている。不揃いで色あせたボロ布を纏い、露出した肌には無数の痛々しい傷跡がミミズ腫れのように残っていた。
「バルド……!?お前、生きていたのか……?」
「ああ、生きてるよ!くそったれ……!お前のせいで、俺は……!地獄を見たんだよぉッ!」
バルドは周囲の戦闘には目もくれず、海里だけを見据えて叫んだ。手に握ったナタを狂ったように振り回して、真っすぐ海里だけを狙って襲いかかってくる。
「くっ!」
疲弊した身体を動かして海里は、バルドのナタを剣で防ぐ。バルドは何度も何度もナタを打ちつけてくる。そこには戦術など微塵もなく、ただ海里を殺すという濁りきった執念だけが宿っていた。
「くそっ!海里!」
「あの賊、何で海里を狙うの……!?」
レンとリズがリリィとロロと戦っていると、その答えを双子がまるで他人事のように口にした。
「あのおじさんが恨んでたのって、冒険者のお兄ちゃんのことだったんだね」
「廃村の畑で生きてたから、アジトで治療してあげたんだよ。でも、使った回復薬が安物でさ。傷は治ったけど、副作用ですっかり頭がおかしくなっちゃったんだ」
淡々と語られる事実。バルドの壊れた精神は、海里への憎しみを一方的に募らせていた。
「やめろ、バルド!落ち着け!あの村の生き残りは、もうお前とリーファだけなんだぞ!生きていたのなら、こんな真似はやめろ!」
海里の必死の呼びかけも、狂気に侵された男の耳には届かない。
「リーファぁ……生きてるだと!?あいつが邪魔しなけりゃ大金が手に入ったんだ!俺が地獄を見たのに、あいつだけ助かるなんて許さねぇ。リーファも、俺をこんな体にした教団のあの女も……全員ぶっ殺してやるッ!!」
口角から泡を吹きながらナタを振り回すバルド。だが、元が体格に恵まれただけの村人の彼では、死線を潜り抜けてきた今の海里の敵ではない。海里はバルドのナタを躱し、剣の柄でバルドの脇腹を強く打ち据えた。
「大人しくしろッ!」
「ぐ、ああッ!」
地面に転がされたバルドだったが、彼は幽鬼のように再び立ち上がる。再びナタを振り上げ、海里へ飛びかかろうとした時だった。
「あぁっ!?」
バルドが間の抜けた、奇妙な声を上げた。ナタを振り上げていたはずの彼の右肘から先が、音もなく消失していた。
ドチャッ、と音を立てて地面に落ちたのは、ナタを掴んだままの右腕。直後、バルドの腕の切断面から鮮血が吹き出して、土を赤く染め上げる。
バルドが呆然と己の右側へ顔を向けると――そこにそれはいた。
耳障りな咀嚼音を響かせながら、サメの頭部とハイエナの斑模様の身体を繋ぎ合わせたような吐き気を催す異形の魔物。
「……ルカン……!?」
海里の脳裏にルクスと共に遭遇した際の記憶を呼び覚ます。
(なぜ、ここに?なぜ、今?)
異形の魔物ルカンは、辺りを気にすることもなくバルドの腕をただ貪り続けていた。
□■□■□■□
ディランと激しい戦闘を繰り広げていたゼファーの槍がぴたりと動きを止めた。グリムボアの突進を最小限の動作で躱した直後、戦場を覆う土壁の足元から染み出してくるような魔力の揺らぎを感じ取り眉をひそめた。
「……何だ。この悍ましい魔力は?」
その呟きは対峙するディランの耳にも届いていた。ディランもまた、手綱を引きグリムボアの勢いを制した。死線を幾度も潜り抜けてきたはずの彼が、戦場の喧騒とは明らかに異質な気配を察知していた。
「この気配……。まさか、あの時の……!?」
ディランが目を見開いて驚愕し、猛り狂っていた巨獣グリムボアが、傀儡魔法の影響にあるにも関わらず、警戒するように地面を蹄で削っていた。
ゼファーとディラン、二人の強者が戦場を覆っていく悍ましい気配の脅威を、他の誰よりも感じ取っていた。
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「何だ……!?何が起きている!」
ラルフが槍を構えたまま困惑の声を上げた。直前まで激しい死闘を繰り広げていたイザベラの白狼が、突如として攻撃を中断して低い唸り声を漏らし始めていた。
「どうしたんだい!?相手は目の前の女騎士だよ!」
イザベラが白狼に呼びかけるが、白狼は低く身を沈めて周囲を警戒している。その黄金色の瞳はジュノアたちを捉えてはおらず、牙を剥き、全身の毛を逆立てて、土壁の向こう側を凝視している。
その尋常ならざる様子に、イザベラも異変が起きていることを理解した。
「一体、何が……起きて……っ」
剣を構えたまま、ジュノアが周囲を見渡すと、戦場を支配していた喧騒が消え去っていた。代わりに充満していくのは得体の知れない悍ましい気配。
「……ラルフ。……来るわ」
ジュノアが警告を呟く中、土壁に囲まれた檻の中は、強者たちの動きさえも封じるような不気味な静寂に包まれていく。
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突如として現れたルカンは、食いちぎったバルドの右腕を鮮血を撒き散らしながら夢中で貪り食っていた。骨を噛み砕く生々しい音が、静まり返った戦場に響き渡る。
「……何だ、あいつはッ!?どこから来やがった!」
「知らないわ、あんな不気味な魔物、見たことも聞いたこともないわ!」
レンとリズが動揺を隠せぬ声を上げる。その混乱は海里たちの周囲に留まらず、土壁の檻全体へと瞬く間に波及していった。
「――ルカンッ!!」
海里の叫びを合図としたかのように、土壁の亀裂から、地面の下から、無数のサメの頭部が這い出してくる。
その異様な光景に、リリィとロロも目を見開いて硬直した。
「……なに、あれ」
「ボク、あんなの知らないよ……っ」
魔物を操ってきた双子の顔から、一気に血の気が引いていく。自分たちの想像を絶する不気味な造形の群れに、双子は言葉を失って異変を見つめることしかできなかった。
一匹、また一匹。ルカンの群れは加速度的にその数を増やし、獲物を求める飢えた瞳が戦場のいたるところで蠢き始める。
「おい、あっちの壁からもだ!」
「こっちの地面からも湧いてきたわよ……!」
レンとリズの驚愕が重なる。それは、戦場に充満した濃厚な血の匂いに誘われてきた招かれざる客たち。誰の味方でもなく、ただ純粋な捕食だけを目的とした異形の魔物たち。
騎士も、冒険者も、そして賊さえも。この異常事態を前に、それまでの争いは意味を失い、武器を構えたまま凍りつく。
イザベラが作り上げた堅牢なる土の檻。敵を逃がさぬために築かれたその土壁は、今やルカンの群れにとって都合の良い新鮮な餌を閉じ込めた餌場へと変貌を遂げていた。
逃げ場はない。
それまでの人間同士の争いを嘲笑うかのように、阿鼻叫喚の血祭りが、今ここに幕を開ける。




