ルール違反の訪問者
その異変は、いつものように栄養補給をしている最中に起きた。
「ふぅ⋯⋯。やっぱり、第三形態の『闇の触手』は右から来るな」
「ええ。石さんのログ通り、予備動作で地面が黒く滲むのが見えたわ」
一〇二回目のリスポーン直後、勇者アルドたちは私が《異界の売店》から排出した緑茶をすすりながら、車座になって反省会を開いていた。
空気は弛緩しているとは言わないまでも落ち着いている。
ここは絶対安全圏、扉一枚向こうが地獄でもここだけは不可侵だという絶対的な信頼が、彼らの精神を支えていた。
──ドン。
不意に、重く低い音が響いた。
「ん?」
重戦士が眉をひそめ、おにぎりを口に運ぶ手を止める。
「なんだ今の? 地震か?」
──ドン。
いや、違う。地面が揺れているのではない。空気が震えているのだ。
音源は私たちの目の前――固く閉ざされた、あの「ボス部屋の扉」だ。
「⋯⋯おいおい、嘘だろ?」
アルドが立ち上がり、剣の柄に手をかけた。顔色がサッと青ざめていく。
──ドォン!!
三度目の音は明確な「打撃音」だった。
分厚い黒鉄の扉が内側から何者かに殴りつけられ悲鳴を上げている音。
ボス部屋の方から、こちらのセーブ部屋へ向かって。
「あ、ありえない⋯⋯! ボスは部屋から出られないはずだ!」
魔導師が震えながら声を上げる。
彼らの常識──いや、この世界の、そしてゲームとしての絶対的なルールが音を立てて崩れ去ろうとしていた。
(まずい、まずいまずい!)
私は全力で《聖域の加護》の出力を上げた。視界には、見たこともない真っ赤な警告が滝のように流れている。
[ 警告 ]
不正な圧力を検知。
第1結界、破損。
第2結界、耐久値低下中⋯⋯。
[ 警告 ]
エリア境界への干渉を確認。対象:魔王ゼノス
(来るな! ここは休憩所だぞ! 土足で踏み込んでいい場所じゃないんだよ!)
私の願いも虚しく、扉の中央がメキメキと外側へ膨らんでいった。まるで薄いアルミ缶を内側からプレス機で押し潰すかのように。
「構えろッ!!」
アルドの絶叫が響く、次の瞬間。
ガギィィィィィンッ!!
耳をつんざく金属音と共に、巨大な扉が蝶番ごと弾け飛んだ。
分厚い鉄塊が回転しながら石室の壁に激突し、凄まじい砂煙が舞い上がる。
本来なら「絶対に入ってこない」はずの侵入者。
その姿が、もうもうと立ち込める粉塵の向こうから、ゆらりと現れた。
「──奇妙だと思ったのだ」
地を這うような、重厚で威圧的な声。
それだけで勇者たちの身体が金縛りにあったように硬直する。
現れたのは三メートル近い巨躯を持つ人型、漆黒の甲冑を纏い、背中にはボロボロのマントを──いや、実体化した闇そのものを羽織っている。
魔王ゼノス、私たちが一〇〇以上挑んで一度も勝てていない絶望の象徴。
彼は悠然と、私の作った聖域に足を踏み入れた。
「何度殺しても蛆虫のように湧いてくる。魂を砕いても時を戻したかのように蘇る」
カツン、カツン。魔王の足音が狭い石室に響く。
勇者たちは武器を構えているが動けない。圧倒的な「格」の差に、生存本能が警鐘を鳴らし続けているのだ。
「我は考えた。何故か? 何が理を歪めているのか? 貴様ら自身の力か? ⋯⋯否」
魔王の兜の奥で、真紅の瞳が怪しく光った。その視線はアルドたちを素通りする。
勇者たちの背後――部屋の最奥に鎮座する、動けない私(結晶)へと、真っ直ぐに突き刺さった。
「──其処にいたか」
ヒュッ、と私の思考が凍りついた。
「貴様だな。我が庭の法則を乱し、勝敗を無きものにしている元凶は」
バレた。完全に認識された。今まで私は高みの見物を決め込む「プレイヤー側の設備」だった。
戦うのは勇者たちで私は安全地帯から応援するだけ。
そんな甘えた前提が、魔王の殺意によって粉々に粉砕される。
(やばい⋯⋯殺される)
動けない。逃げられない。ただの石である私に向けられたラスボスの明確な敵意。
それは、あまたの死を見てきた私ですら味わったことのない、本物の「死の恐怖」だった。
(なんて威圧感だ! 勇者たちはこんなのと戦ってたのか!)
魔王ゼノスが一歩踏み出すたびに、石床がミシミシと悲鳴を上げる。勇者アルドたちが必死に剣を構えるが、その切っ先は小刻みに震えていた。
無理もない。ここは「逃げ場のない袋小路」広大なボス部屋で戦うのとは訳が違う。この狭さで、あの暴虐的な攻撃を繰り出されたら、回避など不可能だ。
「さあ、壊すとしようか」
魔王は、アルドたちのことなど道端の石ころ程度にしか見ていなかった。
彼がゆっくりと手をかざしたのは部屋の最奥──私(結晶)に対してだ。
「この忌々しい理の楔を」
魔王の掌に、どす黒い闇が凝縮されていく。冗談じゃない。あんなものを至近距離で食らったら、ただの鉱物である私の身体なんて木っ端微塵だ。
(させるかよ⋯⋯! ここは俺の城だ!)
私は恐怖でフリーズしそうな思考回路を怒りで無理やり焼き切った。
全SPを防御に回す⋯⋯最大出力、全周展開!
『スキル発動:──《聖域の絶対結界》』
キィィィィンッ!
私の核から眩い光が放たれ、三重の多面体バリアが本体を覆った。
物理攻撃無効、魔法耐性特大、状態異常遮断。
本来なら、城塞都市一つを守りきれるほどの鉄壁の防御だ。これなら魔王の一撃だって耐えられるはず!
「──脆い」
パリン。
魔王が、まるで蜘蛛の巣を払うように腕を振るった。魔法ですらない、単なる腕力と魔力の余波。
たったそれだけで私の自慢の三重結界は、安物のガラス細工のように粉砕された。
(⋯⋯は?)
光の破片がキラキラと舞い散る中、私は絶句した。レベルが違う。
今まで勇者たちが戦っていたのは、あくまで「ゲームのルール内」で強さを制限されたボスだったのか?
ルール無用で、手加減なしに「殺し」に来た魔王は、これほどまでに理不尽だとでもいうのか。
「やめろぉぉぉッ!!」
呆然とする私を庇うように、勇者アルドが飛び出した。側面から魔王へと斬りかかる。
だが、遅い。
「羽虫が」
ドォッ!! 魔王の裏拳がアルドを捉えることなく空を殴った──その衝撃波だけで、勇者の身体が紙切れのように吹き飛ばされる。
「がはッ⋯⋯!?」
アルドは石壁に叩きつけられ、受け身も取れずに崩れ落ちた。聖女たちが悲鳴を上げて駆け寄ろうとするが、魔王の放つ「重圧」だけで、足を縫い付けられたように動けない。
邪魔者は排除された。魔王の前に立ちはだかる者は、もう誰もいない。
カツンと黒い甲冑の足が、私の台座の前で止まった。
見上げれば、見上げるほどの巨体。
兜のスリットから覗く真紅の瞳が、無機質な私を見下ろしている。
冷たい。冷たい金属の手甲が私の表面に触れた。
「ほう⋯⋯。温かいな」
魔王が低い声で嗤った。
「ただの魔力装置ではないな。貴様、意思があるのか?」
ゾワリと、存在の核が震えた。見透かされている。この男は私が「生きている」ことを感じ取っている。
「ならば、恐怖も感じるか?」
魔王の指先に力が込められる。
ミシ、ミシシ⋯⋯私の表面に、蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
(痛い、痛い痛い痛い!)
痛覚はないはずなのに、自分の存在が削り取られる「喪失の痛み」が走る。
システムログが、真っ赤に染まって警告を吐き続けている。
[ 非常事態 ]
本体損傷率:15%⋯⋯20%⋯⋯
警告:核への圧力増大。
このままでは崩壊します。
逃げたい。足があれば今すぐこの部屋から走り去りたい。
声が出れば「助けてくれ」と叫びたい。
でも、私は石だ。セーブポイントだ。
ここから一歩も動けない。ただ迫りくる死の圧力を、その場で受け入れることしかできない。
(ああ、終わった⋯⋯)
魔王の手が闇色の輝きを増していく。
次は撫でるだけじゃ済まない。あの一撃が放たれれば私は砕け散り、ただの瓦礫になるだろう。
視界の端でアルドが血を吐きながら、必死に手を伸ばしているのが見えた。
「い、し⋯⋯ッ!」
ごめん、アルド、ここまで一緒にやってきたのに最後まで付き合えなくて。
私が壊れたら、もう復活はできない。次、お前が死んだらそれは本当の「死」だ。
(逃げろ、アルド。俺のことはいいから、逃げてくれ⋯⋯)
私は最後の力を振り絞って、彼に《退避推奨》のシグナルを送ろうとした。
──その時だった。
「⋯⋯退け」
魔王の冷徹な声に対し、地を這うような、けれど灼熱の怒りを孕んだ声が響いた。
「そこを、退けと言っているんだ⋯⋯!」
ズザザザザッ!
土煙を巻き上げ、一つの影が私の前に滑り込んだ。
ボロボロの鎧。口元からは鮮血。足はガクガクと震えている。
それでも。勇者アルドは私と魔王の間に割って入り、剣を構えていた。




