第七十四話:バグだらけの再起動【第2部完】
◆第5階層・迷宮都市の外れ/レン視点
夜の迷宮都市は、昼とはまるで違う顔を見せていた。
魔法の灯りに優しく照らされた石畳。遠くから微かに聞こえる酒場の喧騒と、リュートの音色。
レンは街外れのベンチに一人で座り、見慣れない異世界の夜空を見上げていた。
昼間。
ダイキとミユは、泣きながら頭を下げた。
ケット・シーは「許すニャ」と、震える声で泣いてくれた。
だが、自分だけが何も言えず、逃げるようにその場を後にしてしまった。
(……クソが)
謝りたくないわけじゃない。
でも、どんな言葉を使えばいいのか分からなかった。「ごめん」?「悪かった」? そんな薄っぺらい言葉で、あの猫が味わった恐怖と痛みが消えるわけがない。
そもそも、自分はあの猫に何をした?
直接蹴ったのはダイキだ。火をつけたのはミユだ。
でも、自分は止めなかった。「ダルい」とポケットに手を突っ込んだまま、笑って見ていた。
――見ていただけ。
それが、直接手を下すことよりもタチが悪い卑怯者の振る舞いだと、今のレンには痛いほど分かっていた。
「……隣、いいか」
不意に声がした。振り向くと、黒いコートを着崩した男が立っていた。
この迷宮の主、黒瀬だった。
「……別に」
レンがベンチの端に寄ると、黒瀬はコーヒーの入ったマグカップを片手に、その隣に腰を下ろした。
しばらくの間、無言のまま夜風が二人の間を吹き抜ける。
「お前、ゲームが好きだったんだろう」
唐突に、黒瀬が言った。
「……は?」
「元の世界で。ゲームが唯一の居場所だった」
レンは黒瀬を睨みつけた。どこまで知っているのか。だが、図星だった。
「……だったら何だよ」
「俺も、そうだった」
レンは一瞬、言葉を失った。
この恐ろしい迷宮の管理者が、異世界から来た人間であることは聞かされていた。だが、その中身がこんなにも――自分に似た、普通の人間だったとは。
「俺は前の世界で、システムエンジニアだった。朝から晩までコードを書いて、バグを直して、クライアントに理不尽に怒鳴られて。休みなんかなかった」
黒瀬は、遠くの魔法灯を見つめながら淡々と語る。
「唯一の息抜きが、深夜に缶コーヒーを飲みながらサーバールームで過ごす時間だった。機械の駆動音だけが聞こえる薄暗い部屋で、人間関係も、明日への不安も、何も考えなくていい時間。……お前が言う『ダルい』と、多分同じだ」
「……」
「何もかもがどうでもよくなる感覚。でも本当は、どうでもよくなんかない。ただ、本気で世界と向き合って、傷つくのが怖いだけだ」
レンの膝の上に乗せた手が、微かに震えた。
「……うるせぇよ。知ったような口きくな」
「知ったような口じゃない。俺は実際、逃げ続けた結果、死んだ」
レンが弾かれたように黒瀬を見た。初めて、その横顔を真っ直ぐに。
「過労で倒れた。サーバールームの冷たい床で、そのまま目が覚めなかった。三十二歳だった」
夜風が吹いた。レンは何も言い返せなかった。
「お前に説教するつもりはない。ただ、一つだけ言わせろ」
黒瀬はレンの方へ首を向け、その黒い瞳でレンを真っ直ぐに見据えた。
「『ダルい』で蓋をしている間は、人生は何も始まらない。お前が心から『ダルくない』と思えるものに出会った時……その時初めて、お前の人生が変わる」
「…………」
「謝り方が分からないなら、分からないままぶつかればいい。不格好でいいんだ。最初から完璧な言葉なんか言える奴はいない。バグだらけでもいいから、まず動かしてみろ。間違えたら、その時修正すればいい」
レンは、長い間黙っていた。
胸の奥で、冷たく固まっていた何かが、少しずつ溶けていくのを感じた。
「……あんた」
「ん?」
「あんたは、なんでそこまでするんだよ。俺たち、あんたの迷宮に攻め込んで、街を荒らした敵だろ。なんで更生とか、説教とか、そんな面倒なことするんだ。殺すか、追い出せばいいだろ」
黒瀬は少しだけ考え込み、マグカップのコーヒーを一口飲んでから答えた。
「前の会社でな。後輩が一人、俺と同じように潰れかけたことがある」
「……」
「俺は、何もしなかった。自分の仕事で忙しかったから。面倒だったから。そいつは心を壊して会社を辞めた。その後どうなったかは、知らない」
黒瀬の声が、少しだけ低く、沈んだ。
「あの時、見て見ぬふりをしたことが、死ぬ間際までずっと引っかかってた。……だから今度は、面倒でもやる。お前たちが更生できるかどうかなんて分からない。でも、見て見ぬふりだけはしないと決めたんだ」
レンは、息を呑んだ。
『見て見ぬふり』。
それは、自分がケット・シーにしたことと、全く同じ罪だった。
(こいつは……俺と同じ後悔を、繰り返さないために……)
レンは、ベンチから立ち上がった。
「……あんたに、一つ聞きたい」
「何だ」
「謝る時って……どうすればいい?」
黒瀬は一瞬きょとんとして、それから、今まで見せたことのないような、少しだけ優しい顔で笑った。
「相手の目を見て、自分の言葉で言え。それだけだ」
◆猫のひげ亭・閉店後/レン視点
閉店後の食堂は、片付けの音だけが静かに響いていた。
レンは入口の扉の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
ガラス越しに見えるカウンターの奥で、ケット・シーが一匹、背伸びをしながらテーブルを拭いている。
あの日、ダイキに蹴られ、ミユに火をつけられているのを、自分が「ダルい」と傍観していた、あの猫だ。
足が震える。心臓がうるさい。暗闇の中で刃を振り下ろしてきたデュラハンより、よっぽど怖い。
一歩。
また一歩。
カラン、とベルが鳴り、ケット・シーが気づいて振り向いた。
レンの姿を認めた瞬間、その丸い目が怯えに揺れ、耳がペタンと伏せられる。
レンは、ずっとポケットに突っ込んでいた両手を、外に出した。
生まれて初めて、その両手をだらりと体の横に垂らした。武器も、チートも、自分を守る虚勢すらも持たない、ただの無力な『裸の自分』として。
「……あの時」
声が震えた。みっともない。ダルいとか、どうでもいいとか、そういう言葉で逃げたかった。
でも、逃げなかった。
「お前が蹴られてるのを見てた。止めなかった。見てるだけで、何もしなかった。……俺が、一番卑怯だった」
視線を落としそうになるのを必死に堪え、ケット・シーの丸い目を真っ直ぐに見つめる。
「……ごめん」
たった三文字。不格好で、声が裏返っていて、ひどく震えていた。
だが、それはレンという少年が、十七年間の人生で初めて『自分の意志』で絞り出した、紛れもない本音だった。
ケット・シーは、ぽかんとレンを見上げていた。
やがて、小さな鼻をひくひくと動かし、丸い大きな目にじわりと涙が浮かぶ。
「……許す、ニャ」
その言葉を聞いた瞬間。
レンの目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
誰かの前で声を出して泣いたのなんて、生まれて初めてだった。
二人の間に、もう言葉はなかった。ケット・シーが泣き、レンが泣き、閉店後の静かな店内に、ただしゃくり上げる声だけが響いていた。
やがて、ケット・シーがそっと近づいてきて、小さな肉球のついた手で、レンの指先をちょん、と触った。
「……明日も、お客さんとして来てほしいニャ」
レンは泣きながら、何度も、何度も頷いた。
◆迷宮都市・広場/旅立ちの朝
翌朝。
迷宮都市の中央広場には、少しばかりの緊張と、清々しい空気が満ちていた。
広場の中央には、空間を切り裂くようにして紫色の亀裂――『転移ゲート』が開いている。
その傍らには、漆黒のドレスに身を包んだリリスが、優雅に扇子を揺らして立っていた。
「さあ、準備はいいかしら? 私の迷宮は、ここのように甘くないわよ。死ぬ気でしごいてあげるから、覚悟なさい」
リリスの言葉に、ダイキとミユがごくりと唾を飲み込む。
「……黒瀬さん」
ダイキが、見送りに来ていた黒瀬に向かって深く頭を下げた。
「俺、ここで教わった痛み、絶対に忘れません。もっと強くなって、いつか恩返しに来ます」
「私、魔法の勉強、一からやり直します。……本当に、お世話になりました」
ミユも晴れやかな顔で笑う。
二人がゲートへ向かう中、レンだけが黒瀬の前に残った。
ポケットから出した両手は、しっかりと体の横に添えられている。
「……黒瀬」
「なんだ」
「俺、あんたの迷宮より、ずっとすげぇもんを自分で組み上げてみせる。……元の世界に帰る方法だって、絶対に見つけてやる」
それは、負け惜しみでも虚勢でもない、レンの新たな目標だった。
黒瀬は口の端を少しだけ吊り上げた。
「この世界に不可能はない。世界の理を読み解く気合いがあれば、な。……せいぜい励め、レン」
レンはニヤリと笑い、踵を返してゲートへと歩き出した。
その背中は、以前の退屈しきった少年のものではなく、ようやくスタートラインに立った『冒険者』の背中だった。
「いってくるわね、リリちゃん! ママ、寂しいわ!」
ゲートの奥へ消えようとするリリスに向かって、見送りに来ていたリリが手を振る。
「……うるさい、ママ。早く行きなさいよね」
リリはそっぽを向きながらも、その口元は少しだけ緩んでいた。
紫色の亀裂が収縮し、やがてパチンと弾けるようにして消滅する。
広場には、いつもの迷宮都市の朝の活気だけが残された。
「……行きましたね、ご主人」
影から現れたナノが、静かに呟く。
「ああ。厄介なバグ対応は、これでクローズだ」
俺は背伸びをして、凝り固まった肩を鳴らした。
「さあて。休んでる暇はないぞ。俺たちも、次のフェーズ(階層拡張)へ移行する」
「はいっ! スケジュールは既に引いてありますよ!」
迷宮核が、以前よりも力強く、深く脈打つのを感じる。
俺が作り上げたこのシステムは、まだまだスケールする。世界の理不尽をハックし、全ての弱者が笑って暮らせる、最高のプラットフォームにするために。




