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第七十二話:暗闇の答え合わせ

◆第8階層・絶対暗闘の無響室/レン視点


 暗闇の中で、どれくらいの時間が経ったのだろう。


 レンは壁に背中を預けたまま、膝を抱えて座り込んでいた。


 デュラハンの足音は、いつの間にか消えている。だが安堵はなかった。光も音もない空間で、自分の早鐘を打つ心臓の音だけが、嫌になるほど耳に響いている。


(……ダルい)


 無意識に口の中で呟く。いつもの言葉。

 だが、もうその言葉に「余裕」の色はなかった。本当は、怖い。ここから出たい。誰でもいいから、助けてくれ。


 ――ガチャリ。


 不意に、重い扉が開く音がした。

 デュラハンのような金属音とは全く違う、静かで、隙のない正確な足音が近づいてくる。


「起きているか、勇者」


 低く、落ち着いた声だった。


「……誰だよ」


「ジグ。この迷宮の階層守護者だ。ご主人の命により、お前の第二フェーズを担当する。――立て」


「は? この暗闇の中で何しろってんだよ。見えねぇんだから何もでき――」


 ゴッ。


 腹に鋭い衝撃が走った。拳だ。重くはないが、正確に鳩尾を捉えていた。


「がっ……!?」


 うずくまるレンの襟首を掴んで、ジグが乱暴に引き起こす。


「立てと言った」


「暗闇の中で戦えってのか……ふざけんな! こっちは何も見えねぇんだぞ!」


 レンは剣を握りしめ、闇雲に振った。


 ブンッ!


 空を切る。何にも当たらない。


(……クソ。ゲームなら、暗闇マップでも敵のマーカーくらいは映るだろ)


 そんな思考が浮かんだ自分に、吐き気がした。まだゲームの感覚で考えている。ここは画面の中じゃない。自分の体で、自分の腕で、剣を振っている。


 それなのに、何一つ相手に届かない。


「……遅い。そして雑だ」


 声は、さっきまでと全く違う場所から聞こえた。木剣の軌道を完全に読み切り、最小限の動きで回避している。


『対象、右に0.5メートル移動。壁との距離二メートル。心拍上昇中。次の攻撃は右からの横振り、確率七十八パーセント』


 闇の中に、もうひとつの無機質な少女の声が響いた。


「ロク、引き続き頼む」


『了解。――対象、重心移動。突き攻撃に移行する確率六十一パーセント』


 二度目。三度目。上段から振り下ろす。空振り。直後、ジグの木剣がレンの手首を打ち、指が痺れる。

 四度目。突きを試みる。難なく払われ、体勢が崩れたところに膝裏を蹴られて転倒した。


「痛ッ……!」


 声が出た。チートがあった頃は、痛みなど知らなかった。空間を断裂させるだけで、敵は消えた。

 だが今、打たれた手首がジンジンと熱を持っている。


 床の冷たさが頬に触れる。石畳の表面のざらつきまで、はっきり感じる。

 チートがあった時は、世界に「質感」なんてなかった。全てが画面越しの映像のように平坦で、触れる前に消せたから。


 自分が消してきた者たちも、こんな痛みを感じていたのだろうか。


 暗闇の中で、蹴り飛ばされたケット・シーの小さな体が浮かんだ。あの猫も、こんなふうに打たれた場所がジンジンと熱を持って、痛んでいたのだろうか。


 自分はそれを「ダルい」の一言で、見ないふりをした。


 五度目に木剣を叩き落とされた時、レンは完全に心が折れて膝をついた。


「もう一度、立て」


「……うるせぇ」


「立て」


「うるせぇっつってんだろ……!」


 レンは剣を拾わなかった。拳で闇を殴った。石畳に当たって、指の皮が裂ける。


「結局、チートがなきゃゼロじゃねえか……。ダルいんだよ。戦い方も知らねえのに、何やったって無駄だろ……!」


 それは、彼の本音だった。

 何も積み上げてこなかった。だからチートを剥がされた瞬間、自分には何もない虚無ゼロしか残らない。


「チートを取り上げられたお前に、残っているものはゼロか」


 ジグは否定しなかった。だが、その声には静かな熱があった。


「そうだ。今のお前はゼロだ。……だが、ゼロからなら積み上げられる」


「は……?」


「お前は『何をやっても無駄だ』と諦めているんじゃない。今まで一度も、本気で何かを積み上げた経験がないから、途中で投げ出しているだけだ」


 ジグの言葉が、暗闇の中で真っ直ぐにレンの胸を刺す。


「俺はかつてゴブリンだった。この世界で最も弱い種族だ。何の力も持たず、使い捨ての雑魚だった。だが、ご主人が俺に言った。『使い捨てにはしない』と。そこから俺は毎日千回、刀を振った」


 コツン、とジグの木剣が床を叩く。


「才能じゃない。積み上げただけだ。毎日千回。雨の日も、体が動かない日も。千日で百万回だ。――百万回の素振りは、才能に追いつく」


 千回。毎日。

 レンは、人生で何かをそこまで繰り返したことがあるか考えた。ゲームのレベル上げ以外で。

 ――なかった。


 レンは闇の中で、自分の手を見た。見えないけれど、痛みを放つ、確かにそこにある手を。


「今のお前に必要なのは、チートじゃない。……自分の足で立つことだ」


 返す言葉は、出てこなかった。

 だが、「ダルい」という言葉も、もう口からは出なかった。


◆第9階層・魔力吸収の隔離部屋/ミユ視点


 同じ頃。ミユの部屋は絶望の淵にあった。


「嫌ぁぁっ! 来ないで、来ないでよぉっ!!」


 四方を紫色のスライムの壁が埋め尽くしている。

 炎を放てば炎を喰らい、氷を撃てば氷を喰らって増殖する。ミユの無限の魔力は、完全に敵の養分(無限ループ)と化していた。


 スライムの粘液が足首に絡みつき、ミユが恐怖で顔を覆った、その時。


 ――ズバァンッ!


 空間が歪み、ミユの目の前に一人の少女が姿を現した。

 黒い四枚の翼。見下ろすような真紅の瞳。


「ずいぶん無様で、汚らしい格好ね」


 少女は口元に優雅な笑みを浮かべながら、ミユを見下ろした。


「あ、あんた……だれ……」


「ボクはリリ。この迷宮の最高執行責任者。……そして、貴方が泣かせたあの子たちの、責任者でもあるわ」


 リリはパチン、と指を鳴らした。

 それだけで、ミユに迫っていたスライムたちの動きがピタリと止まる。


「助けに来たわけじゃない。ただ、あまりにも魔法の使い方がお粗末だから、見かねて口を出しに来ただけ」


「お粗末って……! 私の魔力は無限なのに、こいつらが全部吸っちゃうから……!」


「だから、頭が悪いって言ってるの」


 リリの冷ややかな声が、ミユの言い訳を一刀両断する。


「ねえ。無限の魔力があるなら、どうして『混ぜない』の?」


「混ぜる……?」


「火を撃てば熱を吸う。氷を撃てば冷気を吸う。なら、火と氷を同時にぶつけて、魔力の波長を相殺バグらせさせればいいじゃん。相反する属性を同時に処理させる。そんなの、魔法の基礎でしょ」


 ミユはハッとした。

 今まで「力で押し潰す」ことしか考えてこなかった。無限の魔力に任せて、ただ単一の極大魔法を乱射するだけ。

 魔法を「制御」し、「組み合わせる」という発想が完全に抜け落ちていた。


「(……できる。私なら、魔力切れを気にせずに両方最大出力で撃てる!)」


 ミユは震える両手で杖を握り直した。

 スライムの波が再び迫り来る中、彼女は右手から極大の炎、左手から絶対零度の吹雪を同時に展開する。


「いっけえぇぇぇッ!!」


 相反する二つのエネルギーが、ミユの目の前で激突し、スライムの群れへと放たれた。

 熱と冷気。プラスとマイナスの魔力が衝突・対消滅を起こし、吸収の法則を完全に破壊する。


 ドォォォォォォンッ!!!


 凄まじい爆発と共に、部屋を埋め尽くしていたスライムたちが一瞬にして気化し、消え去った。


「……できた……! 私、できた……!」


 ミユは杖を突きながら、荒い息を吐いてへたり込んだ。チートに頼り切った力押しではなく、初めて「考えて」魔法を成功させた達成感。


 だが、安心したのも束の間だった。

 リリが冷ややかな目で、床に座り込むミユを見下ろしていた。


「バグの処理は終わったわね。……それじゃあ、ここからは『カスハラ客』への対応を始めさせてもらうね」


 ヒュンッ、とリリの指先から極小の魔導レールガンが放たれ、ミユの頬を掠めた。


「ひっ……!」


 チリッとした痛み。傷口から血が滲む。


「私、あの子たちが好きなの。毎朝早くから仕込みをして、いつも笑顔でお客さんを迎えてくれる、うちの迷宮の自慢の従業員。……その子たちを、貴方たちは笑いながら燃やしたわよね」


 リリの瞳の奥で、静かな、しかし絶対的な怒りの炎が揺らめいていた。


「迷宮の責任者として、ちょっとだけ『お仕置き』が必要だと思わない?」


 ミユの顔から血の気が引いた。

 覚えている。確かに、笑っていた。小さな猫が震えながら泣いていたことを、テレビのバラエティ番組みたいに「おもしろいもの」として見ていた。


「あの子たちも、こうだったのよ。怖くて、痛くて、やめてほしくて。でも誰も助けてくれなくて」


(あの子も……こんな気持ちだったんだ……)


 頬の痛みと、自分がしてきたことの重さが、同時に押し寄せてきた。

 ミユはうずくまり、声を上げて泣いた。自分がどれほど残酷なことを、あの小さな猫にしていたのかに、やっと気づいたから。


「ごめ……ごめんなさい……っ! 私、ひどいこと……ごめんなさい……っ!」


 リリは泣きじゃくるミユをしばらく無言で見下ろしていたが、やがて小さくため息をつくと、歩み寄って、ぽん、と頭に手を置いた。


「……その言葉は、私にじゃなくて、あの子たちに直接言いなさい」


◆迷宮核の間/黒瀬視点


「三名全員の更生プログラム・フェーズ1、完了だな」


 俺は三つのモニターを見渡しながら、背もたれに深く体を預けた。


 左:暗闇の中で、自らの手を見つめながら静かに涙を流すレン。

 中央:石畳に座り込んで泣き腫らしているダイキ。

 右:リリの前で泣き崩れ、謝罪を口にするミユ。


(三人とも、チートの外側で初めて世界と接触した。痛みを知り、恐怖を知り、己の無力さを知った。既存システムの完全シャットダウンが完了した、というところか)


(壊すフェーズは終わった。ここからが本番だ。壊した後に何を建てるか――それがエンジニアの仕事だろう。再構築だ)


「ご主人、一つ確認ですが」


「何だ」


「フェーズ1で三名のチートを一時的に封印・無効化しましたが、これは恒久措置ではありません。精神的にチートに依存しない状態を構築しない限り、チート再使用時に同じ問題が再発します」


「分かっている。だから次のフェーズが必要なんだ」


(バグの根本原因を潰さずに表面的なパッチを当てても、いずれ再発する。人間も同じだ)


 俺はマグカップを手に取り、コーヒーを一口飲んだ。今日で六杯目だ。ナノがそろそろ健康管理フラグを立ててくる頃合いだろう。


「ご主人、本日のカフェイン摂取量が――」


「分かってる。最後の一杯だ」


「三時間前にも全く同じことを仰いましたが」


「…………」


 俺は視線を逸らし、咳払いをして話題を変えた。


「ナノ。三人を第16階層に集めろ。……リリスさんにも連絡を入れてくれ」


「リリスさんにですか?」


「ああ。勇者の今後について相談したい。俺たちの迷宮だけじゃ、こいつらの受け皿として不十分だ」

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