第七十一話:無敵の涙
◆第11階層・闘争の円形闘技場/ダイキ視点
赤い。
視界の全てが、赤い。
溶岩が鼻の下まで迫っていた。口を閉じて鼻だけで呼吸しようとするが、ドロドロの粘液が鼻孔を塞ぎ、空気がどこにも入ってこない。
(だめだ……もう、だめだ……)
意識が薄れていく。
沈む。ゆっくりと、確実に、底へ。
ふと、元の世界のことが浮かんだ。
小学校の頃。体格に恵まれたダイキは、腕相撲もドッジボールも鬼ごっこも、全部一番だった。
中学で喧嘩に勝てない相手はいなかった。負けたことがないから、負ける気持ちが分からなかった。
「お前に殴られたら痛いに決まるだろ……!」
うずくまって泣いていた、自分より二回りも小さな同級生の背中。
あの時、何も感じなかった。「弱いのが悪い」としか思わなかった。
この世界に来て【絶対防御】を手にした時も、当然だと思った。
俺は最強だ。俺は無敵だ。
痛みなんて、弱い奴だけが知っていればいい――。
(……あれ)
視界が暗くなる。赤が、黒に変わっていく。
もう溶岩の表面がどこにあるかも分からない。
(俺、このまま死ぬのか……? こんなとこで……?)
誰も助けてくれない。
当たり前だ。俺は誰も助けたことがない。
意識の糸が、一本ずつ切れていく――。
◇
バルログは、溶岩の縁に立ち、沈んでいく小さな体を見下ろしていた。
もう顔は完全に溶岩の下だ。気泡がぽこぽこと浮かぶだけで、もがく動きすら弱くなっている。
このまま放っておけば、あと一分もしないうちに意識が途切れるだろう。鬱陶しいガキが一匹消えるだけのこと。
(……我の誇りは、こんなものか?)
バルログは、自分の巨大な拳を見た。
何千年と強者を求めて戦ってきた。命を削り合う闘争こそが、我の生きる意味だった。
だが今、目の前にいるのは「敵」ではない。殻に守られているだけの、ただの子供だ。
この子供を溶岩で溺殺して、何を得る?
武勲か? 誇りか?
否。それは弱者を嬲る行為であって、戦士の所業ではない。
(黒瀬は「殺すな」と言っていた。事前の打ち合わせで、こいつらが街でケット・シーを蹴り飛ばした話も聞いた。……だが、これは黒瀬の命令で動くのではない)
バルログは溶岩の中に、右腕を突っ込んだ。
ジュウウゥゥ、と凄まじい音を立てて、魔人の腕に焼け跡が走る。自らの全魔力を注いで生成した溶岩は、生み出した本人すら灼く温度に達していた。
だがバルログは顔色一つ変えず、底近くまで沈んだダイキの襟首を探り当て、掴み上げた。
ぐん、と。
凄まじい力で引き上げ、溶岩の中から体ごと引きずり出す。
赤い粘液をまき散らしながら、ダイキの体が闘技場の石畳に叩きつけられた。
「ゴホッ、ゴホッ、ゲホォッ……!!」
咳が止まらない。肺の中に溜まった溶岩の蒸気を吐き出しながら、口を限界まで開けて空気を貪る。
空気。
ただの、空気。
それが肺に流れ込んだ瞬間、全身を電撃のような感覚が貫いた。
「はっ……ぁ、ぁっ……!」
吸える。息が吸える。
たったそれだけのことが、こんなにも嬉しい。こんなにも、体が震える。
今まで当たり前すぎて考えもしなかった。空気がある。呼吸ができる。生きている。
そのひとつひとつが、奇跡みたいに感じられた。
涙が溢れた。
痛くないのに。熱くもないのに。
なぜか止まらなかった。
ダイキは石畳に額をこすりつけるようにうずくまりながら、嗚咽混じりに絞り出した。
「息が、できるって……ありがてぇ……」
それは、十七年間「最強」であり続けた少年が、生まれて初めて漏らした感謝だった。
◇
どれくらいそうしていたか分からない。
荒い呼吸がようやく落ち着いた頃、ダイキはのろのろと顔を上げた。
目の前に、巨大な影が立っていた。
バルログ。
溶岩の残り火を踏みながら、腕を組んで見下ろしている。
片腕が赤黒く焼けていた。溶岩に突っ込んでダイキを引きずり出した、その腕だ。
「な……んで……」
声がかすれる。
「なんで、助けたんだよ……。俺、お前を……サンドバッグって……」
バルログは、しばらく無言でダイキを見下ろしていた。
やがて、低く、重い声で口を開いた。
「勘違いするな」
その声には、怒りはなかった。
「我はお前を助けたのではない。我の誇りを守っただけだ」
「……誇り?」
「我は戦士だ。何千年と、命を懸けた闘争に身を投じてきた。――戦えぬ者を溺殺して、それが勝利か? 笑わせるな。そんなものは戦いではない」
バルログは焼けた右腕を一瞥した。皮膚が赤黒く焼けただれている。溶岩に突っ込んだ代償だ。だが魔人はそれを痛みとも思わぬ様子で、鼻を鳴らした。
「ただし、ひとつ言っておく」
炎のような瞳が、真っ直ぐにダイキを射抜いた。
「お前がこの街で蹴り飛ばした猫の店員。あの者も、こう思っていたはずだ。――痛い、怖い、助けて、と」
ダイキの体が、凍りついた。
脳裏に、蹴り飛ばしたケット・シーの姿がフラッシュバックする。
石畳に転がり、痛みにうめき、震えながら泣いていた小さな体。
あの猫は、今の自分と同じだった。
無力で、怯えて、誰かに助けを求めていた。
違うのは――あの猫には、助けてくれる「バルログ」がいなかったことだ。
あの猫は、蹴り飛ばされたまま泣いていた。「許すニャ」と震えながら、痛みに耐えていた。
それを自分は笑って見ていた。
「……俺は、あいつに……」
声が震えて、言葉にならない。
目の奥が熱い。さっきとは違う涙が、頬を伝う。
バルログは答えなかった。背を向け、燻る溶岩を踏み消しながら歩き出す。
「……ありがとう」
ダイキの口から、ぽろりとこぼれた言葉。
ぎこちなくて、不器用で、声にならないほど小さい。
だが、それは紛れもなく、生まれて初めて「敵」に向けた感謝だった。
バルログの背中が、わずかに止まった。
「……その言葉は、我ではなく、猫の店員に言え」
一言だけ残し、炎の魔人は闘技場の闇へと消えていった。
ダイキは一人、冷えた石畳の上に残された。
震える両手を見つめる。この手で、あのケット・シーを蹴り飛ばした。この手で、弱い奴を踏みにじって笑っていた。
溶岩に沈んでいた時間より、今この瞬間の方がよっぽど苦しかった。
◆迷宮核の間/黒瀬視点
「……あの脳筋め」
俺は中央のモニターを見つめながら、呆れたように呟いた。
バルログが独断でダイキを引きずり出した。
更生プログラムのフェーズ1は「恐怖の植え付け」であって、「救出」は第二フェーズ以降の予定だったのだが。
「ご主人。バルログの独断行動ですが、結果としてダイキの精神状態に有意な変化が見られます」
ナノが空中にグラフを展開する。
「恐怖→絶望→救済→感謝。更生プログラムの第一段階から第三段階までが、想定の三倍速で進行しています」
「現場判断でスケジュール前倒しか。……勝手にプログラム変更しやがって」
舌打ちしつつも、口元が緩むのを抑えきれなかった。
中央のモニターでは、ダイキが石畳にへたり込んだまま、ぼろぼろと泣いている。あの傲慢な脳筋に、まさか涙を流す回路があったとはな。
(あの脳筋のOSに、ようやく「他者の痛み」という概念がインストールされたか。初期化に溶岩が必要だったのは想定外だが……まあ、結果オーライだ。うちのブラック企業にしては珍しく、人事担当が有能だったな)
「ご主人。うちの迷宮を『ブラック企業』と呼ぶのは、そろそろ実態と乖離していると思うのですが」
「何を言う。従業員に溶岩プールを運用させてるんだぞ。十分ブラックだろう」
「あれは来客用です」
ナノの即答に、俺は一瞬黙った。
……うん、来客を溶岩に沈めるのはブラック以前の問題な気もするが、今は考えないことにしよう。
「で、残りの二人はどうなってる」
俺は左右のモニターに視線を移した。
左のモニター。レンは暗闇の中で壁に背中をつけたまま、膝を抱えて動かなくなっていた。デュラハンの巡回は継続中だが、攻撃を避ける反応すら鈍っている。
「レンの精神負荷が限界に近づいています。怒りと恐怖が拮抗し、思考が停止しかけている状態です」
「まだ折れてはいないか。……あの手のタイプが一番厄介だ。プライドが高くて、助けを求める回路がそもそも実装されていない」
(ダイキは脳筋だからシンプルだった。恐怖を知れば素直に泣ける。だがレンは違う。あいつは恐怖すらも「ダルい」で蓋をする。その蓋を外す方法を考えないとな)
右のモニター。ミユは部屋の隅に追い詰められ、杖を胸に抱えてしゃがみ込んでいた。スライムの壁が四方から迫っているが、もう魔法を撃つ気力すら残っていないようだ。時折ひくっと肩が震え、小さくしゃくり上げている。
「ミユも限界が近いな。……よし」
俺は通信を開いた。
「リリ、準備はいいか」
『とっくにできてるよ』
返ってきた声は、いつものリリだった。
ただし、その声からはいつもの悪戯っぽい軽さが消えている。
『ボク、あの子にちょっと言いたいことがあるんだ』
静かな怒りを含んだ声。
ケット・シーを踏みにじった勇者たちへの、リリなりの義憤。
(……リリがあのモードに入ったか)
俺は内心で冷や汗をかいた。
普段は甘えん坊でマカロン大好きのリリだが、怒りのスイッチが入った時の戦闘力は、この迷宮でもトップクラスだ。
「手加減しろよ。更生が目的であって、殲滅が目的じゃないんだからな」
『分かってるよ。……たぶん』
その「たぶん」が非常に不安だった。
「ご主人。リリさんの戦闘モード移行に伴い、第15階層のマカロン備蓄を事後報酬として確保しておくことを推奨します。リリさんは戦闘後にマカロンを要求する確率が九十八パーセントです」
「了解。マカロンで懐柔できるなら安いもんだ。……ジグにも連絡を入れろ。レンの方は、あいつに任せる」
『承知いたしました。ジグには第二フェーズの開始を通達します』




