第七十話:チートが効かない部屋
◆第8階層・絶対暗闘の無響室/レン視点
暗い。
何も見えない。
レンは闇の中で、もう何度目になるか分からない舌打ちをした。
「クソが……ふざけんなよ、マジで」
壁を叩く。感触はある。冷たい石の壁。
だが、反響がない。叩いた音が、まるで綿に吸い込まれるように消えていく。
光がない。音が返ってこない。
それはレンにとって、世界の「描画が停止した」のと同じだった。
【空間断絶】――レンに与えられたチートスキル。
視認した対象を、空間ごと消去する絶対攻撃。この世界のルールすら無視する理不尽な暴力。
だが、それは「見える」ことが大前提だった。
「出口はどこだよ……壁を消せば……いや、見えねぇんだから消せるわけねーだろ!」
自問自答が虚しく闇に溶ける。
レンは右手を壁につけ、手探りで歩き始めた。
(……ダルい。マジでダルい)
いつもの口癖が浮かぶ。だが、その言葉の裏に、今まで感じたことのない感覚が張り付いていた。
――怖い。
認めたくなかった。奥歯を噛む。
勇者として召喚されてから、恐怖を感じたことなど一度もない。当然だ。何だって「消せる」のだから。
ドラゴンも、城壁も、軍勢も。視界に入れて、消す意志を向けるだけ。怖いものなど、存在しない。
――はずだった。
ヒュッ。
何かが、レンの頬をかすめた。
「ッ!?」
咄嗟に壁に背中を叩きつける。手を構えるが、構えたところで何も見えない。
冷たい風が首筋をなでた。生臭い。金属と、古い血の匂い。
ガシャン……ガシャン……
重い足音が、闇の中から近づいてくる。
足音? いや、音は反響しないはずだ。ということは、こいつは――すぐ目の前にいる。
「な、なんだよ……誰かいんのかよ!」
返事はない。
代わりに、空気が裂ける音。
ヒュンッ!
レンは本能的に身をよじった。風圧だけが頬を撫でる。何かの刃が、数センチの距離を通り過ぎた感触。
一拍遅れて、頬にぬるい液体が伝う。血だ。刃の風圧だけで皮膚が裂けている。
「ひっ……!」
情けない声が、自分の喉から漏れた。
普段なら、こんな攻撃は見てから消せる。指先を振るだけで、剣ごと、持ち主ごと、空間ごと消去できる。
なのに今は、かすり傷一つ防げない。
見えない。聞こえない。逃げ場が分からない。
そして、この暗闇の中に、確実に殺意を持った「何か」がいる。
ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ。
心臓が、うるさいくらいに暴れていた。
レンは震える足で後ずさりながら、壁に背中を押しつけて、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
(……なんで、俺、こんな……)
ふと、元の世界のことが脳裏をよぎった。
教室の隅。誰とも目を合わせない日常。何に対しても「ダルい」としか思えなかった、灰色の毎日。
ゲームの中だけが、唯一「自分が強くいられる場所」だった。
この世界に来て、本物のチートを手に入れた時、確かに少しだけ笑えた。
やっと俺が「主人公」になれた。やっと、全部どうでもよくなくなった――と思った。
でも、すぐに飽きた。
誰を消しても、手応えがない。モブを痛めつけても、退屈が消えない。
強い奴を探しても、全員ワンパンで消えた。
結局、何も変わらなかった。ゲームと同じだ。チートコードを入れたRPGは、三十分で飽きる。
(……俺、何がしたかったんだっけ)
ガシャンッ。
足音が、止まった。
目の前に「何か」がいる。気配だけで分かる。冷たくて、重くて、巨大な「何か」が。
レンは壁に張り付いたまま、凍りついた。
指が震えて、拳すら作れない。
消せない。見えないから。
逃げられない。どこに逃げればいいか分からないから。
戦えない。戦い方を、知らないから。
初めて知った。
チートを取り上げられた自分は戦闘すらまともにできない、ただの人間だったということを。
◆迷宮核の間/黒瀬視点
「第一フェーズ、想定通りだな」
俺は三つのモニターを見渡しながら、八杯目のコーヒーを啜った。
左のモニターには、暗闇の中で壁にへばりついて動けなくなっているレン。
中央には、溶岩に首まで沈んだダイキ。
右には、増殖するスライムに追い詰められて泣き叫ぶミユ。
「ご主人。三名のバイタルデータですが、全員の心拍数が危険域に達しています。特にダイキの気道確保可能時間は、推定あと四分です」
影から浮かび上がったナノが、空中にデータウィンドウを展開する。
「四分か。まだ余裕あるな」
「余裕ありません。人間の限界値としてはかなりギリギリです」
「安心しろ。殺す気はない。あくまでこれは――」
俺は腕を組み、真顔で言った。
「教育的指導だ」
「……ご主人。世間一般では、溶岩に沈めたり、真っ暗闇に閉じ込めたり、スライムで押し潰したりすることを『教育的指導』とは呼びません」
「いや、前の会社ではな。始末書三枚書かされた上、深夜三時にサーバールームに監禁されたことがあるんだ。それに比べれば、溶岩にはぬくもりがある分だけ温情がある」
「比較対象がブラック企業なので、何の説得力もないです」
ナノの冷静なツッコミを軽くスルーし、左のモニターに目を戻す。
「レンの部屋に配置したデュラハンはどうなってる」
「予定通り、威嚇行動に留めています。致命傷を与えない範囲で、かつ恐怖が持続するよう攻撃間隔を調整中です」
「よし。あいつのチートは視認がトリガーだ。暗闘の中では丸腰同然……つまり今のレンは、チートなしの素のスペックで恐怖と向き合っている状態だ」
(チートに依存しきった人間を矯正するには、まずチートが使えない環境に放り込んで、自分の素の実力を思い知らせるしかない。新人研修の基本だろう。まずは現状のスキルセットを正確に把握させる)
俺は満足げに頷き、右のモニターに目を移した。
ミユは泣きじゃくりながらも、まだ必死に魔法を撃ち続けていた。炎を放てばスライムが炎を喰って膨張し、氷に切り替えれば今度は氷を喰って分裂する。撃てば撃つほど敵が増える無限ループだ。
(無限のリソースがあっても、出力先がすべて敵の養分になるなら意味がない。典型的な無限ループバグだな。CPU使用率だけが天井に張り付いて、処理は一ミリも進まない)
「ミユさんの魔力出力が徐々に低下しています。無限魔力でも、パニックによる集中力の低下は防げないようです」
「無限魔力でもメンタルは有限か。……まあ、そりゃそうだ」
三人とも、順調にチートの「仕様の穴」にハマっている。
「ナノ、第1階層から第5階層の通常運用はどうなってる」
「問題ありません。勇者対策として第6階層以降を封鎖中ですが、カイさんたちを含む一般冒険者の方々は通常通り攻略可能です。本日の入場者数は百二十三名、食堂の売上は過去最高を更新中です」
「よし。通常業務に支障が出ない範囲での特別対応だ。一般のお客様には一切迷惑をかけず、迷惑な客だけをピンポイントで対処する。これぞ効率的なカスハラ対応ってやつだ」
「……ご主人」
ナノの声のトーンが、一段低くなった。
こうなると面倒なのは、経験上よく分かっている。
「ご主人は、もう六時間モニターの前から動いていません。コーヒーの摂取量も本日八杯目です。就寝管理フラグ、オンにしてよろしいですか」
「却下だ。今は重要なフェーズの最中で――」
「却下を却下します」
ナノの声が、珍しく強い。
影の中の光球が、ジッと俺を見つめていた。
「前の世界で、同じ台詞を言って倒れた方を、私は知っています」
「…………」
言葉に詰まる。
ナノのやつ、たまに致命的な角度からクリティカルを飛ばしてくる。
「あと一時間だけ猶予を設けます。一時間後には、強制的にモニターをシャットダウンします」
「……分かった分かった。一時間な」
渋々頷くと、ナノは小さく「ありがとうございます」と言って、影に戻っていった。
(……まったく。うちのシステム管理担当は、健康管理モジュールだけ異常に権限が強いな)
苦笑しながら、中央のモニターに視線を戻す。
そこには――溶岩が顎を覆い始めたダイキの姿が映っていた。
◆第11階層・闘争の円形闘技場/ダイキ視点
熱くはなかった。
痛くもなかった。
だが――息が、できない。
「がぼ……っ、ぁ……!」
ドロドロの溶岩は、ダイキの肩を、首を、そして顎の下まで飲み込んでいた。
【絶対防御】は確かに機能している。溶岩の熱ダメージはゼロ。肌は一ミリも焼けていない。
だが、粘度の高い溶岩はセメントのようにダイキの体を締めつけ、指一本の自由も許さない。
そして――口を開けば、溶岩が流れ込んでくる。
「ぶはっ……! く、空気……ッ!」
首を精一杯伸ばし、溶岩の表面から顔だけを出す。だが、それもあと数センチ。
必死にもがくが、もがくたびに体重が沈む方向に作用する。
バルログは、溶岩の沼の縁に腕を組んで座り、その様子を静かに見下ろしていた。
先ほどまでの怒りは消えていた。代わりに、その瞳には冷たい観察者の光が宿っている。
「……どうだ、無敵の勇者。我が炎は効かなくとも、お前自身の重さには勝てぬらしいな」
「た、たすけ……ッ!」
言葉が途切れた。
溶岩が唇の高さまで迫り、声を出そうとした瞬間、ドロリと口元を塞ぐ。
(息が……できない……!)
ダイキは生まれて初めて、「死」というものを実感していた。
痛くない。熱くもない。
なのに、空気が吸えない。
ただそれだけのことが、こんなにも恐ろしいとは知らなかった。
(嘘だろ……俺、無敵じゃなかったのかよ……!)
鎧が重い。自分の体が重い。無敵の殻に守られたまま、その殻ごと、沼底へと引きずり込まれていく。
視界が溶岩の赤に染まる。呼吸ができる残り時間が、秒単位で削られていく。
これまでの人生で、ダイキが「助けてくれ」と言ったことは一度もなかった。
チートがあったから。無敵だったから。
誰かに助けを求める必要など、存在しなかった。
だから、この感覚の名前すら知らない。
胸の奥がギュッと締め付けられて、目の奥が熱くなる。
他者に縋りたいと、一人では無理だと、体の芯から悟ってしまう、この感覚。
それを人は――「恐怖」と呼ぶ。
ダイキは、十七年間の人生で初めて、その意味を知った。
「……たす、け……て……」
溶岩の中から、かろうじて絞り出された声。
ゴボゴボと泡立つ赤い沼に半分飲み込まれたそれは、かつて多くの者を踏みにじってきた「無敵の勇者」が、生まれて初めて漏らした――懇願だった。




