第五十三話:吸熱反応と、揺らぐ信仰
◆炎熱迷宮ゲヘナ・第三階層/クロ視点
視界のすべてが、どろりとした赤色に染まっていた。
ゲヘナの第三階層。そこは、巨大な洞窟の底に広がる「溶岩の海」だった。
足場は申し訳程度の岩の突起が点在しているだけで、その下では煮え滾る液体状の岩石が、不気味な飛沫を上げて波打っている。
「クロ様、注意を。大気そのものが熱を帯びて膨張しています。通常の呼吸を続ければ、肺を内側から火傷しかねません」
ジグが口元を覆いながら警告を発する。魔力による防護があってもなお、この階層の熱量は異常だった。
一方で、ロクは無機質な瞳を点滅させ、淡々と周囲の環境値を計測している。
「周辺温度、摂氏一二〇〇度を観測。地脈から直接供給される魔力が熱エネルギーへと変換され、この空間に滞留しています。……クロ様、このまま正攻法で進めば、ポヨさんの魔力消費が限界に達し、数分で私たちは『消し炭』になるという演算結果が出ました」
「分かっている。バルログの野郎、とにかく熱量を上げれば侵入者を防げると思っているらしいが……あまりにも、エネルギーの使い方が乱暴すぎるんだよ」
俺は額の汗を拭い、懐から数枚の魔導スクロールを取り出した。
普通、この状況を打開するなら強力な「氷魔法」で冷気をぶつけるのが定石だろう。だが、それは高熱の海に対して氷を投げ込むようなもの。一時的な凌ぎにはなっても、根本的な解決にはならない。エネルギーの押し付け合いは、コストがかかりすぎるのだ。
「ロク、用意した陣の配置を。……力で押し返すんじゃない。熱そのものを、別の事象の代価として支払わせる」
「了解。――《吸熱の理:大規模展開》」
ロクが兵装コンテナを地面に叩きつけ、幾何学的な紋様を空間に投影した。
俺が展開した術式は、前世で使われていた「瞬間冷却パック」の原理を魔法的に再現したものだ。特定の物質――尿素や硝酸アンモニウムに相当する魔力触媒を空間に散布し、周囲の熱を奪って溶け出す『吸熱反応』を大規模に引き起こす。
俺がスクロールに魔力を流し込むと、魔法陣が青白く発光した。
「《熱を奪い、静寂を導け》――実行!」
パキパキ、と。
耳慣れない音が、轟々と燃える溶岩の海に響き渡った。
俺たちの周囲の熱気が、まるで見えない巨大な掃除機に吸い込まれるように、魔法陣へと収束していく。奪われた熱エネルギーは、そのまま別の化学的変化の動力源となり、空間から「熱」が消えていく。
次の瞬間。
ジュワァァァッ!!
猛烈な水蒸気と共に、俺たちの目の前の溶岩が、一瞬で黒く変質した。
赤く光っていた液体が、熱を奪われて急速に冷え固まり、硬質な黒曜石の道へと姿を変えたのだ。
「な……溶岩が、凍りついた!?」
ジグが驚愕の声を上げる。
「いや、凍らせたんじゃない。熱を奪って、元の岩に戻しただけだ。……さあ、道ができたぞ。熱が戻る前に一気に駆け抜ける」
俺たちは、まだ熱を帯びているが十分に踏みしめられる黒曜石の道の上を走った。
バルログの「力」に、俺は「理」で対抗する。
◆北西迷宮・第五階層「迷宮都市」
第五階層に設置された『冒険者ギルド・北西迷宮支部』。
その真新しい宿舎の一室に、一人の男がいた。
名を、マルファス。
聖教会の異端審問官であり、この迷宮が世に広める「堕落」を暴くために送り込まれた調査団のリーダーだ。
「……信じられん」
マルファスは、清潔なシーツが敷かれたベッドに腰掛け、部屋の隅々を厳しい目で見回していた。
彼がこれまで見てきた迷宮内での休息といえば、カビ臭い地下室や、不潔な藁の寝床がせいぜいだった。だが、ここは違う。
壁は白く塗られ、窓からは偽物の空とはいえ、柔らかな光が差し込んでいる。
「これが迷宮だというのか。……悪魔の巣窟が、これほどまでに平穏であるはずがない。これは、冒険者たちの魂を骨抜きにするための、高度な誘惑に違いない」
マルファスは自らに言い聞かせるように呟いた。 彼にとって、迷宮とは苦難に満ち、命を削って踏破すべき試練の場でなければならなかった。そこに安らぎがあること自体、神への冒涜に近い。
トントン、と。 部屋の扉がノックされた。
「失礼しますニャ。夕食の準備が整いましたニャ。一階の食堂までお越しくださいニャ」
扉を開けたのは、エプロンをつけたケット・シーの店員だった。 マルファスは反射的に腰の聖印に手をかけたが、店員のあまりに無防備で愛らしい仕草に、毒気を抜かれてしまう。
「……あ、ああ。すぐに行く」
食堂に降りると、そこには信じがたい光景が広がっていた。 そこでは、見たこともない形状の理外の食事が、冒険者たちの胃袋を掴んでいた。
「さあ、お待たせしましたニャ! 当店自慢の『ダブル・チーズバーガー』と『コーラ』だニャ!」
マルファスの前に、一皿の料理が置かれた。 円形のパンに、厚い肉が二枚、黄金色の溶けた乳酪、そして鮮やかな野菜が積み重なった、塔のような食べ物。
「(……これが、噂の。教会が『堕落』の根源と疑っている食事か)」
マルファスは恐る恐るその「塔」を両手で掴んだ。
一口食べれば、精神を汚染されるかもしれない。だが、調査官として、この悪を確認しなければならないという義務感が彼を突き動かした。
ガブリ、と大きく一口。
「――――ッ!?」
衝撃が走った。 溢れ出す肉汁。濃厚な乳酪のコク。それを繋ぎ止める柔らかなパンの甘み。 すべての具材が、己を主張しながらも一つの暴力的な旨味となって口内で暴れ回る。
「(なん……だと? これは呪法などではない。単に、あまりにも……あまりにも破壊的な美味さなだけではないか!)」
マルファスは無意識のうちに二口、三口と食らいついていた。 そして、喉を襲う濃厚な脂に対し、彼は傍らに置かれた漆黒の液体――コーラを手にする。 黒く、泡立ち、不気味な音を立てるその液体を流し込んだ瞬間。
「……!? っ、はぁぁ!!」
舌の上で弾ける無数の火花。突き抜けるような清涼感。 重厚な肉の脂が、この「コーラ」によって一瞬で洗い流され、口の中が再びまっさらな状態へとリセットされる。
「(毒だ……。これは、次の一口を誘い続ける無限の輪。一度知ってしまえば、干し肉と硬いパンの生活には二度と戻れぬ。これこそが、北西迷宮の真の恐ろしさか!)」
「マルファス様! これ、喉が痛いのに止まりません! シュワシュワして……あぁ、もう一つ注文してもいいですか!?」
横では、同じ調査団の若者が、完全に骨抜きにされた顔で叫んでいる。 マルファスは叱責しようとしたが、自らの手も二つ目の「チーズバーガー」へと伸びていた。
ふと視界の端に、一人で優雅にアイスティーを飲んでいる銀髪の美女の姿が入った。
エルドラだ。 彼女は、教会の審問官が苦悩しながらハンバーガーに食らいついている様子を、退屈そうに眺めていた。
「ふむ……。あやつの顔、信仰が崩壊する音がここまで聞こえてきそうじゃな。次はフライドポテトという悪魔の枝も勧めてやろうか」
エルドラはクスクスと笑った。
彼女は、人間たちが勝手に救われ、勝手に堕落していくのを、余興として楽しんでいた。
自らもスイーツのせいで堕落してきていることには無自覚なままに……
◆炎熱迷宮ゲヘナ・第三階層・出口付近/クロ視点
「――よし。吸熱陣の限界前に、溶岩地帯を抜けたぞ」
黒曜石の道が再び熱で溶け出す背後を振り返り、俺は安堵の息を漏らした。
足元のポヨも、少しばかり縮んだ気がするが、なんとか耐えきってくれたようだ。
「……お見事です、クロ様。力ではなく、世界の理を書き換えることで道を拓く。バルログには決して真似できない戦い方です」
ジグが感嘆の声を上げる。
「さて、次は第四階層か。……ロク、次の階層の環境スキャンを」
「了解。……第四階層、気圧の急激な上昇を検知。酸素濃度が不自然に高まっています。バルログは、この階層を火薬庫に変えるつもりのようです」
ロクの報告に、俺はニヤリと笑った。
「酸素濃度を上げて、爆発の威力を高めるつもりか。……ふん、考えることは単細胞だな。逆に利用してやるさ」




