第五十二話:非道の焦熱地獄と、五層の新たな風
◆東方・活火山地帯「絶望の噴煙」/クロ視点
目に映るものすべてが、命を拒んでいる。
空は赤黒い雲に塞がれ、火山灰が絶えず降り、視界は白い幕で塗りつぶされたように濁っていた。硫黄の臭いが喉の奥を刺し、吸い込むたびに肺が熱でざらつく。
そして、俺たちの前に口を開けているのは――巨大な火口そのものが入口になった迷宮。
炎熱迷宮ゲヘナ。
「……酷い環境ですね。ここを拠点にする者の正気を疑います」
ジグが口元を布で覆い、不快そうに目を細めた。鬼人になり感覚が鋭くなった分、こういう“乱れ”が余計に堪えるんだろう。
「魔力感知および大気分析、完了。クロ様、この熱源は自然由来ではありません」
ロクが淡々と言い切る。青い瞳の奥で、見えない計算が走った。
「地脈の流れが、変に引っ張られています。迷宮核が無理に刺激している。……こういうの、長持ちしません」
その一言が、胸の奥を冷やした。
入口周辺を観察する。
俺の迷宮みたいに“迎える”気配はない。あるのは、ただの消耗の循環。熱と灰と、焦げた魔力の匂い。
入口をうろつくのは炎をまとったトカゲの魔物、サラマンダーの群れ――だが、様子がおかしい。
肌はひび割れ、呼吸は荒く、瞳はまともに焦点を結んでいない。背後から、より大きい上位の魔物が鞭みたいな尾で叩き、無理やり穴の奥へ追い立てていた。
「……何してるんだ、あれ」
俺が呟くと、ジグが低い声で答える。
「魔力を押し込んでいるのでしょう。限界まで活性化させ、侵入者へぶつける。……生体爆弾です」
言い終えるより早く、一匹が――破裂した。
内側から爆ぜるように炎が噴き上がり、肉片になって飛び散る。巻き込まれた仲間が転げ回っても、追い立て役の上位種は見向きもしない。代わりの個体が奥から引きずり出され、また叩かれて、また落ちていく。
あの上位種の動きが、妙に機械的だった。怒りでも苛立ちでもない。命を数える目をしていない。
「……命を、爆弾として消費してるのか」
奥歯が鳴った。
俺の迷宮でも魔物は戦う。でもそれは役割で、死が前提じゃない。生きて、育って、回る。回らなきゃ運営じゃない。
「回収を捨てて、排除だけに寄せる……」
頭の中で数字が弾ける。投入コスト、損耗率、継続可能時間。どれを取っても破綻している。
「これ、運営じゃない。浪費だ」
怒りは感情じゃなく、設計の破綻に対する苛立ちに近かった。
資産を溶かして熱に変える。短期だけ強く見せる。後に残るのは焼け野原。
そんなものは、いずれ自滅する。
「気に入らないな」
俺はフードの奥で息を吐いた。
「この不合理を放置したら、うちの迷宮にも飛び火する。……根っこから塗り替える必要がある」
「仰せのままに」
ジグが静かに剣の柄に手を置く。ロクは兵装コンテナを展開し、熱を逸らす防御陣を足元に描いた。
「侵入を開始します。ポヨ、クロ様の皮膜展開を」
「ポヨォ」
ポヨが俺にまとわりつき、冷たい魔力の膜を作る。皮膚の表面温度が一段落ちた。
俺たちは赤く燃える奈落へ、一歩踏み込む。
火口の縁を越えた瞬間、熱が“重さ”になって肩にのしかかった。
◆北西迷宮・第五階層「迷宮都市」/ リアナ
一方その頃。
北西迷宮の第五階層――迷宮都市は、いつもの賑わいの上に、見慣れない種類の緊張が乗っていた。
広場の中心に建った新しい建物。掲げられた紋章は、剣と盾。
冒険者ギルド・北西迷宮支部。
扉の前には、開業初日を見に来た冒険者が列を作り、ケット・シーの店員が「混む前にマカロン買っとくニャ〜」と客をさばいている。平和そのもの――のはずなのに、足音がやけに硬い連中も混じっていた。
「――本日より、当支部は正式に業務を開始します!」
明るい声が新しいロビーに響く。
声の主はリアナだった。
国境の街の受付から、ここへ異動になった。忙しい支部からさらに忙しい場所へ、というのは普通なら嫌がられる。けれど彼女は、目の前の真新しいカウンターを見て、ほんの少しだけ唇を結んだ。
(まさか迷宮の中で働くことになるなんて……)
胸の奥で小さく区切りをつけ、背筋を伸ばす。
◆北西迷宮・第五階層「迷宮都市」
視線の鋭い一団が壁や床、照明の位置を確かめるように歩いていた。制服は視察用の整ったものだが、靴の減り方と立ち方が軍人のそれだ。
「……異常ですな」
小声が漏れる。
「迷宮の中で商いが成立し、魔物が騒がず、人間が寝泊まりしている。……誰が、これを許している?」
答えは出ない。だから彼らは、ノートに書きつける。扉の数、警備の配置、物資の搬入経路。相手が見えないなら、触れる場所から触るしかない。
「焦るな」
先頭の男――将軍格が、声をさらに落とした。
「相手は姿を見せない。呼び出す手段も分からん。……なら、まず“人間側の枠”を作る。支部の権限、流通、規律。枠が広がれば、勝手に人が縛られる」
彼らの目に、ここは都市じゃなく資産に見えていた。
反対側では教会の調査官が、香りに眉をひそめていた。
「……このカレーという料理、香りが強すぎる。妙に気分が軽くなる。邪教の香草を使っているのではあるまいな?」
「白い飲み物……ラッシー。喉の焼けが引くのが早い。癖になるな」
言い方は“疑い”でも、目は値札を追っている。鍋の大きさ、粉の袋、杯の回転。売れるものの匂いを嗅いでいる。
さらに商人組合の使者が、バルドに近づいて低い声で畳みかけた。
「支部長。物流は我々がまとめます。帳簿も人員も揃っています。公的管理と効率の両立を――」
「ガッハハ。効率ねえ」
笑いながら、バルドは使者の靴先を見た。新品の革。迷宮の石畳に似合わない。
「ここで勝手に網を張ったら、どこが切られるか分からんぞ。切ったのが人間か、迷宮か……その区別すらつかねえ。俺はそういう賭け、嫌いだ」
使者の顔がわずかに引きつる。バルドは引かない。
人間たちは、見えない胃袋の中で、胃袋をどう切り分けるかに夢中になっていく。
◆迷宮第十階層・雷雲の玉座/リリ視点
その“濁り”は、十階層にも届いていた。
玉座に座ったリリは、空中に浮かぶ魔力モニターを睨み、頬を膨らませる。
「……もー。人間たちって、本当にうるさい」
翼が苛立ちで震える。
五階層の感情は、粘つくノイズになって脳に刺さってくるのだ。
「リリ様。報告です。支部の権威を盾に、ケット・シーの店員へ無理難題を押し付ける冒険者が増えています」
インプが小声で告げる。
「……今は泳がせる。ご主人に『余計な波風は立てるな』って言われたし」
言いながら、リリはマカロンをひとつ口に放り込む。
甘さで怒りが少しだけ薄まる――薄まるが、消えはしない。
「でもね。もし“街の平和”を壊す真似をしたら――」
瞳が一瞬だけ、魔王の色になる。
「支部とか権威とか関係ない。迷宮のルールで潰す」
その時、モニターの一枚がピクリと揺れた。
五階層、猫のひげ亭の前。
上から目線の冒険者が、ケット・シーの店員に指を突きつけている。
リリは指先を軽く鳴らした。
パチッ。
五階層の空気に、ごく小さな静電が走る。
雷ではない。警告の“気配”だけ。
冒険者が背筋を凍らせ、口を閉じた。
何が起きたか理解できないまま、顔色を変えて去っていく。
「……よし。今のは事故。事故だもん」
自分に言い聞かせるように呟くと、部屋の隅で紅茶を啜っていたエルドラが楽しそうに笑った。
「ククク。小娘、案外向いておるぞ。留守番」
「向いてない! 事務作業が一番の敵!」
リリが叫ぶと、エルドラはさらに愉快そうに肩を揺らした。
「まあよい。人間どもが何を企もうが、知らぬことよ。……踊りたいなら踊らせておけ」
冷たい声音。けれど、現実はその通りだった。
迷宮は、誰にも手が届かないまま、そこにある。
◆炎熱迷宮ゲヘナ・第一階層/クロ視点
俺たちは灼熱の回廊を進んでいた。
熱い。ポヨの膜があっても、空気が重い。吸うほどに疲れる。視界の端が揺れるのは蜃気楼だけじゃない。魔力そのものが沸騰している。
「クロ様、前方に敵影。……ですが」
ジグが足を止める。
現れたのは犬型の魔物、ヘルハウンドの群れ――ただし異常個体だった。
背中に魔力結晶が無理やり埋め込まれ、そこから過剰なエネルギーが流れ込んでいる。毛皮の下が赤く割れ、肉が内側から焦げ、呼吸が悲鳴みたいに乱れていた。
「グルルル……!」
痛みと狂乱に支配された突撃。
襲うというより、早く終わらせてくれと言っているような、捨て身の突進だ。
「……ロク。無力化。殺すな」
「了解。局所重力負荷、停滞の檻」
不可視の重力が広がり、ヘルハウンドたちを床に縫い付ける。
苦しげな咆哮。炎だけが、じわじわと体を焼き続けていた。
「……酷い」
俺は一匹に近づき、背中の結晶に触れる。
熱い。触れた瞬間、指先の感覚が薄くなる。それでも分かる。埋め込みが雑だ。配線も固定も、最低限しかない。安全率ゼロ。壊れるまで回す設計。
結晶の脈動が、魔物の鼓動とズレていた。合っていない。無理やり押し込んでいるだけだ。
「理論は分かる。分かるが……これは負荷試験じゃない。破壊試験だ」
胸の奥が冷えた。
俺が守ろうとしているのは、迷宮という職場だ。
職場は壊して回す場所じゃない。回して守る場所だ。
「ジグ、ロク。方針を決める」
俺は立ち上がり、さらに熱が濃くなる奥を見据えた。
「ここの魔物は敵じゃない。運用の犠牲だ。できる限り無力化して確保する。……結晶は外す。搬送ルートも作る。帰り道にまとめて回収できるように」
ロクの瞳が青く点滅した。
「回収プランを生成。固定具の解除に必要な温度差と、鎮静用の魔力波形を算出します」
「頼む」
ジグは剣を抜き、炎の空気を裂くように一歩前へ出た。
「行きましょう。ここにある理不尽を、終わらせるために」
その瞬間。
回廊の奥から、鈍い金属音がした。
鎖が引きずられる音。
そして、重い足音。
熱の中で“何か”が近づいてくる気配が、はっきりと分かる。
ロクの瞳が青く点滅した。
「監視反応。こちらの侵入を、既に捕捉されています」
「歓迎ではありませんね、クロ様」
ジグが低く息を吐く。
「ああ。上等だ」
俺はフードを指で押さえ、口角を上げた。
「こっちは攻略で来てる。……相手が暴力でしか会話できないなら、言語を合わせるだけだ」
ゲヘナの奥。
炎の主の領域へと続く通路が、熱の中で揺れて見えた。




