第二十五話:黒霧の舞台と、中堅の覚悟
◆第3階層・ボス部屋前/ガルド視点
休憩を終え、濡れた装備を締め直し、刃を拭った。
呼吸も戻した。言葉も揃えた。
そして俺たちは――黒鉄の扉の前に立つ。
扉の表面には、薄く光る魔法陣。
じっと見ているだけで、鼓膜の奥が圧迫されるような気配がする。
「……行くぞ」
俺の声に、仲間が無言で頷いた。
恐怖がないわけじゃない。
むしろ、ある。だからこそ、腹を決める。
ギィィ……。
重い音とともに扉が開く。
広がったのは、水浸しの巨大な空間だった。
水面が暗く揺れて、天井の闇を映している。
足を踏み込んだ瞬間、冷気が肺の奥まで入り込んでくる。
そして中央。
一段高いステージの上に――彼女がいた。
黒い翼。真紅の瞳。
以前より背が伸び、輪郭が研ぎ澄まされた悪魔。
“幼い小悪魔”の匂いは消え、代わりにぞっとするほどの艶がある。
「――ようこそ。……また来たのね」
リリが片手を上げる。
それだけで空気が一段、重くなる。水面が一瞬、ぴたりと止まった。
「“帰り道を捨てる勇気”は、持ってきたかしら?」
「生憎、“帰り道は死守する”方針でな」
俺は大剣を構え直した。笑う余裕はない。だが口だけは折れたくなかった。
「今日は“扉の向こうを見に来ただけ”だ」
「ふふ。……“見るだけ”で済むと思ってるのね」
リリの唇が吊り上がる。
――水面を這う魔力の気配が、濃くなる。
「トーラ、前へ! アンナ、側面射線!
シグ、水を使って防御と牽制だ!」
「了解!」
散開。陣形。いつも通り。
……のはずなのに、空気が“いつも通り”じゃない。
リリが指を鳴らした。
「では――試験開始。
“あなたたちが、ここに来るべきだったかどうか”」
ふっと、視界が歪んだ。
「っ!?」
足元の水面が、底なしに見える。
距離感が狂う。平衡感覚が消える。
立っているだけで、膝が笑いそうになる。
「幻惑……! シグ!」
「分かってる!《精神統一》!」
シグの魔法で、歪みが少しだけ剥がれる。
だが、それは“目が慣れただけ”に近い。
リリが、楽しそうに笑った。
「いい反応」
両手を広げる。
「《黒霧の舞台》――開幕」
水面から黒い霧が立ち上る。
触れた肌が、じり、と焼けるように痛む。毒じゃない。だが確実に削ってくる。
「これ、体力が……!」
トーラが叫ぶ。声がかすれる。湿気と霧で喉が重い。
「長居は無用だ! 一気に詰めるぞ!」
俺は水しぶきを上げて突っ込んだ。
霧の中を切り裂くように踏み込み、大剣を振りかぶる――
「遅い」
リリが指先をひょい、と動かす。
次の瞬間、俺の剣の軌道がぐにゃりと“ずらされた”。
刃が空を切り、水面を叩く。
「なっ――」
その隙を、逃さない。
黒霧が鎖の形をとり、俺の腕に絡みついた。
「ぐっ……!」
重い。
筋肉が重いんじゃない。心が重い。
“動くな”じゃなく、“動きたくなくなる”重圧。
「ガルド!」
アンナの矢が走る。
だが、矢はリリの手前でふわりと逸れ、水面に吸い込まれた。
「残念」
リリが小さく肩をすくめる。
「あなたたち、悪くない。
ただ――“ここでは当たらない”」
赤い瞳が細まる。
獲物を弄ぶ悪意。……それだけじゃない。
値踏みする目だ。
(試してる……?)
俺は奥歯を噛みしめた。
“殺す”気配が薄いのが、逆に恐ろしい。
逃げる余地があるうちに、逃げろと言われている気がする。
◆迷宮核の間/黒瀬視点
「……リリ、性格悪いよなあ」
監視水晶に映る光景に、俺は頭を抱えた。
幻惑で距離感を潰す。
黒霧で継続ダメージ。
鎖で精神拘束。
殺さず、じわじわ追い詰めて、判断力を削る。
“撤退させるための拷問”みたいな戦い方だ。
「ご主人、“性格悪い”設計したの、ご主人ですよ?」
ナノが即ツッコミを入れる。
「『死なせないけど限界まで追い込んで帰らせる』って、設計書に――」
「はいはい、俺のせい俺のせい」
画面端のステータス。
灰色の風、HPはまだ半分以上。だが“精神負荷ゲージ”が危険域に入りかけている。
「折れてない。さすが中堅だ」
「でもそろそろ、“引き際”を提示するタイミングですね」
「ああ。リリ、合図出す」
俺は通信を繋いだ。
◆ボス部屋/ガルド視点
「――っは、は……!」
息が上がる。
体力より、神経が削られていく。脳が疲れる。
攻撃が当たらない。
足場が悪い。
霧と鎖が、じわじわと俺たちの“決断”を鈍らせる。
「リーダー、きつい……!」
トーラの足が鈍る。
シグの魔力も底が見えてきた。アンナの矢も湿気で伸びが悪い。
(……このままじゃ、削られて終わる)
ここまで来て、全滅は論外。
だが、このまま撤退も――悔しい。
「ガルド!」
アンナが叫ぶ。
「まだ撃てる! 私が囮になる、その隙に――!」
「バカ言え!」
俺は吠えた。
「ここまで来て、“誰か一人だけ致命傷”にして見る景色なんか価値ねえ!」
アンナが唇を噛む。
リリは楽しそうに眺めている。
「いい顔」
悪魔が、くすりと笑った。
「“もう少しだけ先が見たい”って顔」
「悪いがな」
俺は剣を構え直した。
「俺たちは“もう少しだけ”を何度も繰り返して生き残ってきた。
今日の仕事は、あんたの“戦い方”が分かった時点で終わりだ」
霧が肌を刺す。鎖が心を重くする。
――“ここから先は命を削る場所”。それはもう十分分かった。
「扉の奥は、また今度でいい」
「撤退?」
リリが首を傾げる。
「生きて帰るって、約束してきた」
俺は短く笑った。
「じゃあ……帰るのね?」
リリの目が、少しだけ見開かれる。
次の瞬間――黒霧が、ふっと濃くなった。
「っ!?」
痛みが跳ねる。足がすくむ。
(――逃がさない気か!?)
身構えた、その時。
霧が嘘みたいに晴れた。
鎖も消えた。水面がまた揺れ始める。空気が軽くなる。
「……え?」
呆然とする俺たちの前で、リリは翼を畳み、ステージに腰掛けた。
まるで退屈な授業を終えた教師みたいに、手をひらひらさせる。
「帰るなら、さっさと帰りなさい」
「……」
「“ここまで来た”ご褒美よ。
今なら背中は撃たない」
見逃された。
いや――“合格”だ。そういう顔をしている。
リリは背を向けたまま、ぽつりと言う。
「次に来るときは――
“誰か一人欠けても構わない覚悟”を持ってきなさい」
背筋がぞくりとした。
(違う。欠けないために、もっと準備して来るんだよ)
俺は心の中で返し、号令をかける。
「撤退! 全員、生きて帰るぞ!」
「おう!」
俺たちは水を蹴り、霧のない道を走り出した。
背中に追撃はない。
代わりに、赤い瞳の“次も来い”という圧だけが残った。
◆迷宮核の間/黒瀬視点
「……ふぅ」
椅子にもたれて、俺は深く息を吐いた。
モニターには撤退していく灰色の風。
全員、立っている。歩けている。死んでいない。
「全員生存」
「はい。致命ライン未到達です」
ナノが即答する。
「リリさん、最後の引き際も綺麗でしたね」
「あいつにしちゃ上出来だ」
これで“中堅が苦戦して撤退する”実績ができた。
噂になる。挑戦者が増える。魔力が増える。
……そして、次はもっと強い連中が来る可能性も上がる。
「Dランクを退けた。次はCランク……下手すりゃ、それ以上だ」
俺は迷宮核を見上げた。
「ここからが正念場だぞ」
迷宮核が、静かに――どくん、と脈打った。




