ビル・カンニンガムが早朝、【死霊】イビルシャドウの姿を目撃した件についての聞き取り調査
さて、おしゃべりの前に喉を潤しておくべきだ。その方がわしの舌も滑らかになると思うんだが。
まだ日が暮れるには早いだって?
お堅いことはなしだ。
夕焼けを眺めながら庭のポーチで籐の椅子に腰かけ、瓶ビールを飲もう。グラスなんて野暮なものはいるまい。これが典型的アメリカ人の晩酌って奴さ。
位置についたな。
さ、ハンク、あんたも好きにやってくれ。なに、ヘミングウェイじゃあるまいし、腰が抜けるほど飲むわけじゃない。
まずは名前と生年月日からだったな。よしきた。
わしの名はビル・カンニンガム。1943年6月29日生まれの82歳。メイン州オガンキットに暮らしている、ただの老いぼれだ。
妻を19年前に大腸がんで亡くし、現在は持ち家でゴールデンレトリバーの老犬リトルジョンと余生をすごしている。
恐らくわしにもリトルジョンにも、残された時間は、あと幾許かだろう。わしが先におっ死んだら、奴は甥っ子に譲る約束をしてある。
そしてあんたがハンク・ボウマン――【死霊】イビルシャドウを研究している調査員ってこったな。
なんと27歳。まさに前途洋々。その若さで【死霊】の目撃情報を収集している第一人者とは恐れ入るよ。
わしは今でこそ年金生活者にすぎんが、10年前までは自前の船を持ち、ロブスター漁で飯を食っていた。ロブスターはかご罠で捕らえる昔ながらのやり方だ。この生業で、2人の姉弟も、なんとこさ大学まで行かせた。
このあたり、文化と芸術と観光の町オガンキットじゃ、漁業関係者はわずかしかいない。
わしや、漁師仲間だったトニー・ビンセントやグレッグ・チャップマンも漁獲量をめぐって競い合った仲だったが、陸に上がればいい飲み友だちだった。
そうとも。わしたちは現役のころから【死霊】の噂は耳にしていたさ。
その噂ってのは、こうだ――。
みんなそれぞれ船で漁をしていると、そのうち濃霧に包まれ、にっちもさっちもいかなくなるときがある。
そんなとき、海ん中からヒョイと人影が現れるんだと。
てっきり漂流者か?と思い、漁師はそいつを船に拾ってやるんだが、よく見てみると自分そっくりの姿をしていやがる。
途端、そいつはニヤリと笑い、手を差し伸べてくるそうな。
【死霊】に触れられるってことは、すなわち死の接吻も同然ってことさ。
ドッペルゲンガーのようなもんかって?
ああ、かの偉大なるリンカーンも、生前分身と会ったそうだな。そのそっくりさんは、近い将来の警告の意味で現れるんだろうがね。
しかしながら、【死霊】イビルシャドウは違う。
こちらの命を奪おうと執拗に狙ってくるんだ。
ことによると、奴に触れられるってことはこちらの魂が押し出され、代わりに奴が肉体を乗っ取っちまうのかもしれん。だから避けるに越したことがない。
さっさと本題に入るべきだろう。あんたの怖い眼が催促してるからな。
そうとも、あれは先週10月21日、水曜のことだった。わしの記憶が確かなら、奴との出会いは6時10分前後だと思う。
まだ真っ暗な早朝だった。
わしはいつも起きるとすぐ、老犬の散歩に出かける習慣があるんだ。
家ん前の浜に出てすぐの時間だったからよく憶えている。元漁師だ。長年の習性で、つい海の具合を見に行きたくなるんだ。
引き潮の頃合いで、波は穏やかだった。
周囲は暗く、わしは懐中電灯を照らしながらいつものように海岸線を散歩した。
ライトの光をずっと先に向け、わしは海を見ながら、老犬は下を向いたまま、えっちらおっちらついてくる。
そのうち、わしはなにかに蹴つまずいた。
あんときの靴の感触が忘れられないね。
時にあんた、車のタイヤをパンクさせたことくらいあるだろ?
わしはピックアップトラックに乗るたんびに車両点検をやるほどまめではないんだが、せめてタイヤの空気圧くらいは意識しとるつもりだ。
別にハンマーでもってコンコンやるわけじゃない。前輪後輪、足で蹴っ飛ばして確認するにすぎない。
明らかにパンクしていたら、見ただけでわかるが、後輪のダブルタイヤの内側ってのは意外と見た目じゃわからない。
そこで脚を伸ばし、コンコンやるわけだ。このとき、パンクしているタイヤを蹴ってみろ。
グニャリと嫌な手応え――足の感触なのに手応えとはこれいかに、だが――がするもんだ。
ちょうどあの感覚に似ていた。死人に蹴つまずくってな、あんな忌々しい感じだ。ましてや死後硬直の解けた死体など……。
つまり、暗い波打ち際に、人らしきものが倒れていたんだ。
すわ、溺死体じゃあるまいか?
ところがわしがしゃがもうとすると、そいつはムクリと起き上がったもんだからたまげたのなんの。
リトルジョンは火がついたように吠えたさ。
だけど吠えるだけで、その場で踏ん張り、小便を垂れてやがる。
ライトの光を、そいつの顔に当てた。
おお、そのときの冷水を浴びせられたような戦慄たるや、あんたにわかってもらえるかどうか。
奴こそ【死霊】イビルシャドウだった。
わしそっくりの馬面の間抜け顔。落ちくぼんだ目元も同じ――ただし眼は虚ろで、明らかに死者のそれだった。
着ていたポロシャツまでわしの持ち物と一緒。ただし、そのときわしが着ていたのはフランネルのシャツだったが。
骨太の身体つきもコピーしたようだった。
けど、わしの眼はごまかせやしない。
【死霊】のコピーミスに気付いた。
なにを隠そう、二の腕にある刺青がないってことさ。
わしをはじめ、トニーやグレッグもそうだ。漁師は身体のどこかに刺青を入れているもんだ。
というのも、漁師はたえず死と背中合わせの商売。いくら百戦錬磨であろうと、泳ぎの名人であったとしても、時として運に見放され、命を取られることもある。実際、わしの友だちも3人ばかし、海でおっ死んでいる。
水死体ってのは大抵の場合、大量の水を飲んだせいで、全身はブヨブヨに膨れ上がり、とんでもない面相に変わっちまっているもんだ。おまけに波に流され、岩礁で顔を傷つけてしまったりして、身元不明のご遺体になることもめずらしくない。
だからこそ刺青は、身元が判明できる手がかりとなるわけだ。わしらはそんなときを想定して、あえて入れてあったんだ。
わしのはホレ、このとおり。肩んところと手の甲にビルの文字。
土左衛門になったあと、なにかの拍子に腕が捥げちまったらいけないんで、胸にもハートが矢で貫かれた刺青まである。
ヌードになる必要もあるまい? トニーやグレッグも似たような刺青をしていただろう。
つまり【死霊】は、刺青がないだけの、わしの生き写しの姿だ。手抜きのコピー野郎ってことさ。
奴は青白い顔でわしを睨んでくる。
老犬ともどもその場に立ち尽くしていると、手を差しのべ、熱い湯船に浸かったときのように呻きながら歩いてくるんだ。
ポロシャツからむき出しの肌には静脈が浮き出ていた。まるで稲妻みたいに、びっしりと。ジョージ・A・ロメロのゾンビ映画じゃあるまいし、奴はあの世から甦った類に違いない。
……むろん、ハンク。あんたのご推察のとおりだ。
ドッペルゲンガーってのは、脳みその横っちょと天辺の接合部にできた腫瘍のせいで、そんな分身を見てしまうってのは、真面目なドキュメンタリー番組で観たことがある。幻覚にすぎないんだと。
だけど、あくまで諸説だ。
言ったろ。わしは奴に触れた。
あんな確かな手応え――死者の肌触りがした。死後硬直が解けて、タコみたいにぐにゃぐにゃに緩解したときの感触だ。しかもひんやりと冷たい。今でも忘れるもんか。
とっさに回れ右して、逃げようとした。
リトルジョンのリードをぐい、と引っ張ったさ。
わしがふり返るのと、心臓が跳ね上がって口から飛び出しそうになったのはほぼ同時だった。
というのも、背後にゃ、なんとジョー・キンブルが立ってたからだ。
ジョーか?
なんてことない。
ほれ、すぐお隣さんだ。
キンブル家は早くから灯りがついてるだろ。
ジョー・キンブルはわしと同い年で、若い時分はやり手検察官で、そりゃブイブイ言わせたもんだ。
正義をふりかざすのはこの町に住んでも一緒――やれゴミの出し方が汚いだの、やれおまえん家のテレビの音量がやかましいだの、やれトラックの排気ガスが臭いだのとすぐ言いがかりをつけてくる。わしもどれだけトサカに来たことか。犬猿の仲ってわけさ。
そのジョーが、暗い早朝の砂浜に佇んでいた。
しかもだ。
ジョーは二人いたんだ。なんと双子みたいにそっくりの、禿げ頭で小太りのジョーが肩を組んでいやがるんだから、おったまげたってもんじゃない。
わしは背後の分身から逃げたいのもあるし、それどころじゃなかった。状況が状況だけに異常すぎる。
このときばかりは犬猿の仲も関係あるまい。
わしはあえぎながら、彼に救いを求めた。
「……たった今、わしは【死霊】と出会った。後生だから助けてくれ」と。
二人のジョーは肩を組んだまま、同時にニヤッと笑った。
片方の肌はやけに青白いと思った。いや、青すぎる。
わしは背後の【死霊】につかまれるんじゃないかと気が気じゃない。
思わずふり返ると、奴はもといた場所に根が生えたみたいに棒立ちしているだけ。
そしたら血色のいい方のジョーが歯をのぞかせて、いつもながらの冷淡な声で、
「ビル――現役のころみたいに、【死霊】を恐れることはないんだ」と、言うんだ。相方のそっくりさんに向かってキッスせんばかりに見る。まるで熱烈な恋人のように。「このように仲良くすればいい。手なずければいいのさ。老いたりとはいえ、死を恐れることなかれって奴さ。折り合うことこそ肝要だ」
なんてこった……。ジョーは、自身の分身たる【死霊】と頬と頬を合わせていたんだ。すなわち死とダンスしていたも同義だろう。
ジョーの相方の様子が変だ。
両方の眼は、まるでフォグランプのように黄色く輝いていた。
しかも鼻の穴から、なにか細長いものが、ニョロニョロこんにちはしていやがるんだ。
このへんの浜ならどこにでも見かけるゴカイだった。
半開きの口からもウネウネと、いやらしい環形動物が出たり入ったりをくり返していた。どうやらジョーの身体ん中は、ゴカイどもの賃貸マンションと化しているらしい。
なにがあったか知らないが、どうやら鼻持ちならないジョー・キンブルは隣人のわしとの仲を修復する前に、自分の【死霊】と仲良くなっちまったようだ。
わしはリトルジョンを引っ張って、さっさと逃げた。
家に着いたころには、やっと東の空が白みはじめていただろう。
幸い、わしは逃げおおせられた。
ジョーはどうだったか。
先週の出来事以来、一度も姿を見ていない。
だが、ああしてキンブル家に灯りがつき、奴さんの気配がするんだから、事なきを得たんだろう。そう思いたい。
ハンク……。これが【死霊】を目撃したことの全部だ。
不可抗力とはいえ奴に触れちまったが、命は取られなかったと信じたいがね。
さすがに日が落ちると、冷え込んできたな。
こちとら、ビールを飲みすぎちまったようだ。
さっきから小便したくてたまらない。ちょっくら席を外すが、いいかな?
◆◆◆◆◆
……お待たせ。いささか時間がかかったな。
よっこらしょ。
飲み直すとしよう。
相変わらずキンブル家じゃ、中で奴っこさんの気配がするな。
きっと夕飯とワインにしゃれ込んでいるに違いない。
さて、どこまで話したっけ?――やれやれ、年を取るとすぐこれだ。
なんだって、ハンク?
わしの顔がやけに青白いだって?
それは単に照明の織り成す綾ってもんだろう。
刺青?
さっきまであった腕の刺青が見当たらないだと?
気にしなさんな、そのくらい。
あれはあくまでロブスター漁をやっていたころの話にすぎん。引退したあと、トニーとグレッグに無用の長物だろうって焼き鏝でも当てられて消されちまったんだろう。いい年寄りが粋がってみっともないからと。
あの日、ジョーが言ったとおりかもしれん。
死を恐れるなかれ。
わしらは老いて、いずれ若い世代からさえも忘れ去られる。
時としてそれは恐ろしかった。
我が子すら、親をこの地に置き去りにし、どっかへ消えちまうんだ。
若いころ、あれほど恐れた【死霊】さえも、この年になるとどうってこともなくなるもんだ。
そうとも。折り合いをつけていくもんなんだろう。
……どうした、急に立ち上がって。えらく慌ててるじゃないか。
そうか、帰るってか。
いいさ、ハンク。あんたも結局、同じってわけだな。
だったら行くがいいさ。この老いぼれを置き去りにするがいい。ビールのお代なんか結構さ。
了




