【AI小説】『蛇口の奥』
最初におかしいと思ったのは、朝の歯磨きのときだった。
水を出すと、じゃり……と、妙な音がした。
歯ブラシを口に入れたまま、僕は蛇口の方を見た。水は透明だった。流れも普通。だけど確かに、石が転がるような、微細なノイズが混じっていた。
気のせいか、と流し、出勤の準備を続けた。でも、風呂場でも、キッチンでも、水を出すたびに同じ音がした。
会社では特に何もなかった。いつも通りの会議、クレーム対応、昼飯はコンビニの冷やし中華。帰ってきたのは夜八時過ぎで、スーツは湿った汗の臭いを吸っていた。風呂を沸かすため、また蛇口をひねる。
また、じゃり……。
水が、微かに濁っていた。
風呂場の照明を見上げる。黄ばんだ光の中、湯船に落ちる水流の中に、何か――小さな白いものが混じっていた。
骨、だった。いや、骨のように見える“何か”。爪ほどのサイズの白い破片。指でつまんでみると、それはぬめっとしていた。触れた瞬間、心臓がぎゅっと萎んだ気がした。
次の日、水道局に電話した。「水が濁っているんですが」「異物が混じってるかもしれない」と。
対応した男の声は眠たそうで、しかもやけに事務的だった。
「他にそのような報告はありませんが……念のため、近隣の水道点検を行います」
終わりだった。
その日から、うちの水は変わっていった。
朝、目を覚ますと、キッチンのシンクから水が出しっぱなしになっていた。家に一人暮らしだし、寝る前に蛇口を閉めたのは間違いない。
水道代が跳ね上がるのを恐れて、僕はすぐに閉めた。でも次の夜、また風呂場のシャワーがポタポタと水を垂らしていた。三日目には、蛇口の下に髪の毛が落ちていた。長い、女の髪だ。
僕の髪は短い。こんな長さじゃない。
一週間後、僕は風呂に入るのをやめた。洗面所で体を拭き、ミネラルウォーターで口をゆすぎ、ペットボトルの水でインスタントラーメンを作った。
蛇口の水が、もう水じゃなかった。
触れると、温かいのだ。湯ではない、生温い、ぬるりとした体温。
匂いがあった。嗅いだことのない、鉄と生臭さの混じった腐臭。
口を近づけるだけで、吐き気がした。
◇────◇
ある日――限界がきた。
夜、寝ていたら、水の音がした。
ぴちゃ……ぴちゃ……。
目を開けると、天井の隅から水滴が落ちていた。
天井?
ベッドから起き上がると、天井がうっすらと濡れていた。いや、よく見れば、その中央に、黒い“穴”のようなものがある。
そこから、水が滴っているのだ。
僕は椅子を持ってきて、その穴に手を伸ばした。柔らかい……?
その瞬間、
水が噴き出した。
顔に、肩に、全身に。腐った水。ぬるく、ねばつき、どこか甘い匂いのする“何か”が、上から降ってきた。
悲鳴を上げて飛び退くと、天井の穴は――まぶたをぱちぱちと閉じた。
“目”だった。
天井に、誰かの目があった。
◇────◇
僕はその夜、外に逃げ出した。
鍵も財布も持たず、裸足でアパートの階段を駆け下りた。だが、玄関のドアを開ける寸前、ふと振り返ってしまった。
そこには――誰もいないはずの、部屋の奥のキッチンに、“濡れた女”が立っていた。
長い黒髪。顔は見えなかった。ただ、蛇口の真下にうずくまり、何かをすすっていた。ずる、ずる、と喉を鳴らす音が、階段の踊り場まで届いてきた。
――飲んでいる。
蛇口から出てくる水を、その女は口をつけて、ずるずると、啜っているのだった。
僕は逃げた。
真夜中の街を、裸足で、息を切らして、コンビニに駆け込んだ。店員がぎょっとした顔でこちらを見る。「警察呼んでください」とだけ叫んだ。
交番で話した。が、信じてもらえるはずもなく、僕は精神科を紹介されて終わった。
家に戻ると、あの女はいなかった。だが、蛇口の下に濡れた足跡があった。
――水の中に、誰かいる。
そう確信したのは、それから三日後。
僕の携帯に、知らない番号から着信があった。
表示された発信元は、「水道局調査部」。だが、前に連絡したときの番号とは違っていた。不審に思いながらも通話ボタンを押す。
「……あの、もしもし」
少しの間、沈黙が続いた。電話の向こうには、ざあ……という水音が鳴っていた。風呂場のシャワーを出しっぱなしにしたような、あの音。
そして、囁くような声がした。
「……見た?」
僕は即座に切った。心臓が冷たくなっていた。指先が震え、何度も通話履歴を確認したが、そこにその番号は残っていなかった。
証拠が、ない。
僕は引っ越しを決めた。会社も辞めた。退職届を送り、荷物をまとめ、できるだけ早くこの町を離れようとした。
だが、最後の夜――
玄関の床に、水たまりができていた。ポタ……ポタ……という音が鳴っていた。
蛇口は閉めてある。水を使っていない。だが、部屋のあちこちから、音がしていた。
キッチン、洗面所、風呂場――。
ポタ、ポタ、ポタ、ポタ、ポタ。
すべての水道が、勝手に滴を垂らしていた。しかも、同じリズムで。心臓の鼓動みたいに。
怖くて、でも確認せずにはいられなかった。僕はキッチンの蛇口に近づき、そっと、水滴の落ちる下を覗き込んだ。
――目があった。
蛇口の奥に、真っ黒な瞳があった。
人間のものじゃなかった。瞳孔が異常に大きく、瞼もまつ毛もなく、ぬめりと光っていた。
それが、にぃ、と笑った。
次の瞬間、蛇口から白い手が飛び出してきた。僕の首を掴んだ。
全身が硬直した。引き剥がそうにも、手は細いのに異様な力があった。
耳元で、あの声が囁いた。
「……のど、かわいた……」
僕の口をこじ開け、蛇口の水が、いや、“それ”が、僕の口の中に流れ込んできた。
鉄と腐臭と、そして“何かの味”。それは液体ではなく、意思を持って流れ込んでくる“存在”だった。
僕はそのまま、意識を失った。
目を覚ましたとき、僕はベッドの上にいた。
全身がびしょ濡れだった。体の中に水が残っているような違和感があった。胃のあたりが膨張していて、喉の奥にはぬるい液体の味が残っていた。
だが、最も異常だったのは、音だった。
水音が、頭の中で鳴っていた。
耳ではない。外から聞こえるわけでもない。頭蓋の中に、蛇口から水が滴るような音が、鳴り続けていた。
ぽた、ぽた、ぽた、ぽた。
そしてその音に、もう一つの声が重なっていた。
喉の奥から、小さく、小さく、囁くような声。
「……もっと、のませて……」
僕は叫んだ。吐いた。喉の奥に指を突っ込んで、すべてを出そうとした。でも出てきたのは水でも食べた物でもなかった。
それは、髪の毛だった。
口から、黒い髪が出てきた。
途切れず、どこかと繋がっているように、口内に絡みついて、喉の奥から引き出されてくる。
鏡を見た。自分の顔は青ざめていた。
口の端から垂れ下がる髪が、まるで“女”の一部のようだった。
そのとき、後ろの風呂場から、水の音がした。
じゃああああああああ。
シャワーが全開で流れていた。
開けていないはずの扉の向こうで、水が滝のように流れ出している。僕は固まったまま、呼吸を止めた。
ゆっくりと、風呂場のドアが開いた。
そこから出てきたのは、あの女だった。
濡れた髪。顔の大半を覆っていて、表情は見えない。でも、髪の隙間から、あの黒い瞳がこちらを見ていた。
女は一歩、また一歩と、近づいてくる。裸足の足音は、水音と一緒にぬめっていた。
「かわいた……」
女は、僕の目の前で立ち止まった。
蛇口の方に手を伸ばす。
そして、そのまま蛇口の先に自分の口を当てた。
ごぼ、ごぼ、ごぼ……。
水が流れていく。いや、違う。
女は逆流させていた。蛇口から、“水”ではない何かが吸い込まれていた。
その時、僕の頭の中に、もうひとつのビジョンが流れ込んだ。
――暗い水底。
――幾千もの死体。
――その口から、黒い液体が溢れていた。
そして、すべての死体が、蛇口のように口を開けていた。
“それ”は、蛇口を通して、外に出ようとしている。
誰かの口を通して。僕の口を通して。世界にあふれ出そうとしている。
女が僕の方に顔を向けた。
その顔には、まぶたがなかった。
黒い、真っ黒な、あの“目”が、むき出しになっていた。
僕は叫びながら逃げた。部屋を飛び出し、廊下を駆けた。
エレベーターは使えなかった。水が、階段にも染み出していた。どこまでも、濡れていた。
建物ごと、あの“存在”に飲み込まれかけていた。
◇────◇
そして、今。
僕は、違う町にいる。
小さな賃貸アパート、風呂も台所も水道も古いが、何もおかしなところはない。蛇口をひねっても、ただの水が出る。
――だったはずだ。
昨日、気づいた。
朝起きると、喉が異常に渇いていた。
冷蔵庫の水を飲んでも、まったく潤わない。ペットボトルの水をがぶ飲みしても、渇きは消えなかった。
夜になり、蛇口の水を飲んでみた。
喉が……潤った。
それだけじゃない。
僕の中に、満たされる感覚があった。
心の奥底に、静かに“何か”が座り込むような感覚。
僕は今、毎日蛇口の水を飲んでいる。
それだけが、僕を満たしてくれる。
口の中でぬるりとするあの液体が、僕の体を作り変えている。
そして気づいた。
――僕も、誰かに“のませたく”なってきた。
だから今夜、訪ねることにした。
前に住んでたアパートの、隣の部屋に。
あそこには、やさしそうな女の人が住んでいたから。
きっと、いい口をしている。
かわいている、かもしれない。
◇────◇
それから僕は、“それ”の言うことを聞くようになった。
最初のうちは抵抗があった。だが、喉の奥から滲み出すように、乾きと欲求が湧いてくるのだ。
水じゃない。
“水のふりをしたもの”を誰かに飲ませたくなる。口移しでもいい。蛇口越しでもいい。
ある夜、僕は隣人の部屋の前に立っていた。ペットボトルを一本、持っていた。
中には、自分の口から吐き出した“それ”を詰めておいた。色は無色透明。けれど、ふたを開けるとわずかに生臭い匂いがする。
インターホンを押す。
「はい?」
彼女がドアを開けた瞬間、僕は笑った。自分でも知らない表情だった。口角が不自然に吊り上がっていた。
「これ、もらったミネラルウォーターなんですけど、飲みきれなくて……」
彼女は最初、少し警戒した顔をしたが、「ありがとう」と受け取ってくれた。
その夜、僕は眠れなかった。彼女の部屋の蛇口が、夜通しポタ……ポタ……と音を立てていた。
そして朝。
彼女がインターホンを鳴らしてきた。
「昨日の水、ちょっと変な味したかも……」
そう言いながらも、手には空になったペットボトルを持っていた。全部、飲んだのだ。
僕は微笑んだ。
「そうですか?でも、喉、潤いましたよね」
彼女は曖昧に笑って、「そういえば、少し」と言った。
◇────◇
それが始まりだった。
僕はもう、人間のふりをしているだけだ。喉の奥には、もう僕の声帯はない。かわりに、細くてぬるぬるした“何か”が、奥に蠢いている。
水を媒介に、“それ”は他者へ広がる。蛇口から。口から。夢の中から。
“それ”は、もともと水に棲んでいたのだ。
水道管の中に。下水に。雨水に。
どこにでもいる。
そして乾いた人間に取り憑く。
僕の部屋では、毎晩“あの音”がする。
ぽた、ぽた、ぽた……。
合図だ。
そしてその音が止むと、誰かの家の蛇口から、ぬるりとした“それ”が出る。
今夜も、僕は見届けるつもりだ。
誰かの部屋のシャワーが勝手に動き、誰かが喉の奥に“それ”を迎え入れる、その瞬間を。
誰かが言っていた。
人は、水がなければ生きられない。
だから“それ”は、水になった。
――君の家の蛇口から、今夜、誰かが覗いているかもしれない。
君が喉の渇きを覚えたとき、蛇口をひねったら、
その水に、なにかが混じっていないか、よく見てから飲むといい。
じゃないと、
次に誰かの喉を潤すのは、画面の前のお前かもしれない。
ー完ー
作者も水が欲しいです。