1.駆け下りる水
小学校の階段で、水入りバケツを誤って蹴飛ばしてしまったことがある。雑巾の黒っぽい汚れが滲んだ水はリズムを加速させながら階段を駆け下りていった。
きれいなわけでもないのにうっとりと見てしまう。
あの落下して落下して滴っていく水に対して、きれいとかうつくしいとかではない引力を感じた。それから水が気になる。好きと呼んでも良いと思う。水が好きだ。海の塩水でもため池のドブでも泡立つ滝の水でも窓にくっついてこっちを見てくる雨粒でも。
でも涙はメッセージ性が過剰だから嫌いだ。血も汗もそう。体液は、頼んでもないのに私の状態を他人に説明する。間違って届くこともあるのに、私には制御できない方法で説明する。だから嫌い。一生泣きたくない。
同じ制服の人がわざわざ乗らないような位置の車両に乗って、降りるときにはホームと改札を繋ぐ階段までの距離を無駄に歩く。同じ制服の群れからできるだけ外れるように後ろの方を歩く。平気でみんなと同じ電車に乗れていたあのとき、しあわせだったな。
教室のドアを開けると、開ける前には外から聞こえていたおしゃべりがぴたんと停止してしずかな空間になる。ある日からずっとそうだ。
「・・・・・・あ、桃井さん来た」
「よく来れんなー」
目線を合わせないように私の方を見て、聞こえるようにそう言う人たち。それから自分たちの群れの中に目線を戻す。私の存在は再発したおしゃべりや笑い声を加速させた。
教室という狭い箱の中に三十人も人間を入れて揺さぶってみたら、いろんな反応が起こる。男と女がくっついたり、ヒエラルキーがひっくり返ったり。無視される個体が出てきたりする。私はそういう個体にされたことに耐えられないから、この教室を俯瞰して見ている。生物学の実験と同じだと思っている。みっともないけど神様になった気分だ。だってそう考えないと死んでしまう。
先生が一刻も早く教室に現れることを机の下で祈りながら、両手の人差し指だけで赤本を開いて受験勉強をしているふりをした。三年生だったのは不幸中の幸い。卒業してしまえばこの私の教室という空間は霧散するのだ。記憶の中ではこんなもの、腐らせて跡形もなくしてやる。あと六ヶ月。苦行は終わる。
朝礼では大学の入試のパンフレットが十二枚も配られた。こんな時期にこんなにたくさん配らなくても、たいていの人は志望校を決めていると思うけど、後ろの席でヒソヒソ話す声を無視するために、私はパンフレットを開いた。また、真剣に読んでいるふりをした。パンフレットの最初のページには大抵、どの大学も校舎の外観とか講義の写真が載ってあるものだ。
だが、K大学は一ページ目に螺旋階段の写真があった。その理由は一目すればすぐにわかる。
K大学四号館の螺旋階段は、このうねりは、完璧なのだ。この大学は螺旋階段のうつくしさを誇示していた。
その螺旋階段を見ると、嘔吐する寸前のような強烈な欲望がせり上がってきた。
あの螺旋階段を濡らしたい、と思う。
螺旋階段の頂点から水を流したら、水は回転しながらしたたるのだろう。
水浸しにしてやりたい。
破壊衝動だろうか。
ある日突然クラスで無視されるようになった。それまでは優しく声をかけてくれる人も、話しかけると明らかに様子がおかしくなった。理由はわからない。だから、嘘の噂を流されていると考えていた。誰も私を信じていないのだと怒っていた。でも人のことを考察するのはやめる。だって、それがもし私の妄想だったら、私は不確実なことを信じ込んで人を悪者にする卑怯者だ。
卒業までに何か言い返すべきだったかもしれない。そういう行動をすれば何か変わったかもしれない。でも私は何もできないままK大学に入学した。