08. その日それは突然の
ここに来て7日目の正午、昼食を終えた僕らは盤上遊戯に興じていた。盤と言っても、適当な大きさの岩に線を引き、小滝から拾ってきた二色の宝石をそのまま駒代わりに使った、即席ながら何とも豪華なものだ。
今日までの7日間、僕らは森の中を探索し、彼女の毎日の恒例行事である歌を聴き、共に聖域中を飛び回った。魚を捕って火で炙り二人で食べたり、柄にもなくティアと毎日一緒に入浴を楽しんだりもした。料理をしないという彼女が振る舞ってくれた果実水はとても美味しかったし、初めは抵抗があったが、彼女に抱きしめられて眠ると、不思議と悪夢を見ることもなくなった。
世界樹は、別段僕に関心を示さず言葉を交わすこともない。ただ、ティアを見つめるその瞳は非常に優しく慈愛に満ちており、彼がティアの額に口づけを送るたびに、彼女がどれほど愛されているのかを実感させられた。
「ティアに世話になっている分、僕が助けになれる時はとても嬉しかった。彼女の知らない知識を教え、それを喜んでくれる彼女の笑顔を見る瞬間は、何よりも嬉しく愛おしい時間だった」
僕が教えた事柄の中で、盤上遊戯は特に彼女の心を掴んだらしい。今は碁打ちの勝負中だが、ティアはなかなか負けず嫌いな気質があるようだ。負けても負けても挑んできて、決して諦めない。
(集中力はあるよな…… 今度、石に文字でも刻んで別の遊びを教えてみるか)
そんなことを考えていた矢先、突如としてその声はこの安らかな空間に割り込んできた。
「リセル殿下、元帥のウィルター・ドレヴ・マグダルフです。聞こえますか?」
僕とティアは顔を見合わせた。いつ連絡が来るかわからなかったため、チェーンブローチは肌身離さず身に着けていた。今、このブローチからウィルターが連絡を入れてきたのだ。
「聞こえている。状況に何か進展があったのか?」
「王弟殿下、アルデン卿は王族の身分を剥奪されました。現在はゼレの地へ左遷され、今後は王宮において権力を行使することはできません」
この7日間でそこまで状況が好転していたとは驚きだ。それならば、王の権威はきっと保たれているのだろう。
「では、現状の問題はすべて解決したと考えてよいのだな?」
「はい、リセル殿下の御身に危険が及ぶことは決してありません。ですから殿下、急いでこちらにお戻りください」
当然言われるべき言葉だ。待ち望んでいた言葉…… ティアをチラリと見る。
「ちなみに、僕がここへきて、聖域の外ではどれくらいの時間が経過したんだ?」
「約3カ月ほど、殿下は聖域におられました。我々はすでに国境門沿いで、いつでも殿下をお迎えする準備を整えております。移動の時間も考慮して、今すぐにでもこちらに戻っていただけませんか?」
「急だな……」
「何か不都合がありますか?」
それは…… 自分の気持ちだけだった。ティアも目の前で僕らのやり取りを聞いている。彼女なら、きっと快く聖域の外まで送ってくれるだろう……
「ルーシア良かったね、帰れるって。みんな待ってるよ」
ほら、やっぱりそう言うんだ。僕は、その言葉を断わる理由を持ち合わせていない……
「あぁ、そうだな…… マグダルフ公、具体的にはどの国境門に向かえばいい?」
「リダとの国を挟む東の国境門です。そちらまで来ていただければ、我々が王宮までご案内いたします」
最後の挨拶は、なんともあっけないものだった。世界樹は最後まで僕を正面から見据えることなく、ティアの道中を気遣っていた。そして、ただ一言――――
「君の居場所はここじゃない、それは君が一番知っているはずだよ」
まるで念を押すように放たれたその言葉が重くのしかかる。初めから分かっていた、言われていたことだ。ここは僕の居場所ではないと。
世界樹が遠のき、美しい理想郷は遥か彼方に霞んでいく。精霊のリョウの背に乗って空高く飛びながら、黒い瘴気の森を見下ろす。ティアの歌声は浄化の力を持ち、その声は金銀の粒子のように地上にオーラを広げ、瘴気の森を浄化していく。彼女の歌声が暗闇に一筋の道しるべを刻み込むように輝く。遠い道のり、帰り道。僕は一言も発することなく、ただひたすらティアの歌声に身を委ねていた。
「もうすぐ外に出るよ」
こんなに近かっただろうか……?
見知った塔が前方に見えた。聖域を抜けたのだ。
「ティア、このまま国境沿いに飛んでみて、しばらく行けば国に入る門があるはずだから」
しばらく飛んでいくと、そう離れていない場所に国境門が見えた。運がいい、これならウィルターともすぐに合流できるはずだ。
(僕は、運がいいんだ……)
門の前に降り立つと、そこにはウィルターが待っていた。
「お待ちしておりました、リセル殿下。ご無事で何よりです」
ウィルターが深く一礼しながら言った。
「あぁ…………」
「ティア殿、リセル殿下を無事に送り届けてくださり、誠にありがとうございました。聖域にいる間も、殿下をずっとお守りいただいたのでしょう。もしよろしければ、これから殿下と共に王宮にお越しになりませんか? 龍王陛下も、ティア殿にぜひお礼を申し上げたいとおっしゃっていますよ」
ティアが王宮に来れば、またしばらく共に過ごせる。それは僕にとって何とも魅力的な提案だった。ぜひともティアにはこちらに留まってほしいと思った。
「そうだよティア! すぐに戻らなくても、しばらく王宮で過ごすのも悪くないんじゃないか? 僕もティアにちゃんと礼をしたいし」
ティアは少し考えを巡らせているようだった。聖域の外に留まってくれるよう願いを込めて、僕はティアの両手をぎゅっと握りしめた。
「ルゥイはルーシアを送った後、すぐに帰ってくるように言ったの。だから私、早く帰らないと……」
「……ティアは、僕と離れても平気なのか?」
それは、思わず口をついて出た言葉だった。頭の中が真っ白になり、ただティアと離れたくないという思いに突き動かされて……
「ルーシアには帰りを待っている人たちがいるよ。王はルーシアのお父さんでしょ。私も待っているひとがいるの。お母さん。だから、みんなそれぞれの待ってるひとのところに帰るんだよ」
ティアの手を強く握りしめる。この手を放したくなかった。
「ティア、また、会えるか……?」
それは、唯一絞り出た言葉だった。このまま別れたら、もう二度と会えない気がした。
「分からない、でも会いたいと思ったらきっと会えるよ。だって大地は繋がっているから」
「約束してほしい、きっとまた会いに来るって……」
「いつになるか、分からないよ?」
「それでもいい、ティアに、また会いたい」
「分かった、また会いにくるね!」
「約束だ」
離れていく手と手。ティアは最後まで笑顔を絶やさなかった。
遠ざかる小さな背中を目に焼き付けながら、僕はこの日を決して忘れないと心に誓った。
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