07. 肉食の悪戯心
次に目を覚ました時、横には僕を包んでくれた暖かい温もりはもう存在しなかった。ポツンと一人取り残されたような気がした。それほど広くもない寝床だというのに、一人きりの寂しさが込み上げる。急にもの悲しさと不安感が心を覆い、樹洞の中から急いで飛び出した。彼女はどこに行ったのだろか…… まるで雛鳥が母親を求めるかのように、彼女の存在を探し求め、森の中をさまよった。
遠くで微かに声が聞こえた。彼女の歌声だ。それほど遠くには行っていないようだ。ひとまず彼女の存在を感じることができて、安堵している自分がいた。立ちすくみ、歌声に耳を傾ける。たった一人、この森に取り残されてしまったかのような焦燥感が心を支配する。我ながら情けない……
大きな世界樹に背を預け、歌声を聞いていると、やがて声は止み、待ちに待った思い人が上空から降りてきた。
「ルーシアおはよう!」
彼女は今日も元気だ。その笑顔に包まれ、心に募った不安は木の葉が風に舞い散るかのように遠く彼方へと消え去った。
―――
朝食を終えた後、ティアに案内されて聖域を飛ぶ。昨日も思ったが、世界樹の守護する地というだけあって、その美しさは世界樹のふもとに近いほど、ますます鮮明になっていく。
僕らは、まるで空を写し取ったような碧い一面の花畑に立ち寄り、エメラルド色に輝く神秘的な泉を訪れ、精霊が集まる広場を歩いた。そして、一角の角が生えた鬣を持つ巨大な狼に乗り、二人で森中を駆け回った。
すべてが初めての体験で、神秘的で好奇心を刺激され、我ながら年相応に楽しんだと感じる。そして、今僕たちは世界樹を見下ろしている。その巨大な姿に言葉を失う。雲をも突き抜け、星まで届くかのような高さだ。
「まるで河だな」
葉のさざめきは、壮大な黄河の流れのようだった。果てしなく広がる葉の上には、幻想的な色とりどりの花々が咲いている。それは睡蓮に似ていたが、その美しさはまるで宝石のようであり、黄河に浮かぶそれは、淡い光を放ちながら空間を彩っていた。その美しい光景は、あたかも別世界に迷い込んだような錯覚を与え、心を奪われた。
「この中に、私の花があるんだよ」
ティアが得意げに僕を見つめた。
ティアの花…… その言葉の意味は何を指すのだろうか?
世界樹の上をゆっくりと進む中、僕はその言葉の意味を考えていた。それぞれの花を注意深く観察する。花々は美しく淡い光を放っていた。
(あ…………!)
ふと、目に飛び込んできた花があった。淡い桃色を帯びた白銀色に輝く花だ。その中心にはアメジストのような色が広がり、さらに深身に染まれば瑠璃色へと変わる花だった。
「ティアみたいだ」
「アリスティアって言うの、ルゥイが一番好きな花なんだって。私の花だよ」
「ティアの名前の由来ってこの花から来たのか?」
「由来? これは私の花だから、だから私はティアになったんだってルゥイが言ってたよ」
「それを由来と言うんだよ。そうか、アリスティア……」
遠くを見渡せば、漆黒の瘴気に覆われた森と、それを隔てるかのように美しい聖域が、地平線を描くようにはっきりとその境界線を示していた。ティアが生まれた世界樹の森、聖域。中は美しい理想郷。しかし、それはまるで鳥籠の中のようで……
「ティアはここにいて、幸せか?」
「とっても幸せだよ!」
「そうか……」
―――
本日の夕食も、やはり聖果だ。その種類は豊富で、飽きることはない。しかし、ティアは他の主食を望まないのだろうか?
「ティア、肉は食べないのか?」
ちょっとした疑問だった。ティアは聖域の外で、果物以外の食事を口にしていた。例えば肉やパンなどの穀物だ。彼女はそういったものを食べたいとは思わないのだろうか? 材料さえあれば、少なくとも簡単なスープくらいは作れそうなものだが。とは、思いつつも、自分も料理などしたことがないので人のことは言えないのだが。
「ルゥイの森では食べない。狩っても食べ方が分からないし、獣の友達も多いから狩りたくないの」
なるほど、友人では食べるわけにはいかないな。しかし、魚くらいは捕って食べてもよさそうなものだが……。
「友達じゃなければいいのか? なら、今度魚を捕ってみるか? と言っても、僕も料理などしたことはないが、火で炙れば食べられないことはないだろう」
「魚って、火で炙るの? 知らなかった」
「それなら、明日試してみよう。道具がなくても、魚くらいは魔力で簡単に捕まえられるはずだ」
ティアは嬉しそうに返事をした。ここに来てからずっとティアに頼りっぱなしだったけど、今度は僕が何かできることがあると思うと、少しだけ誇らしい気分になった。
彼女と夕食を終えた後、僕は意識を集中させて精神統一に励む。日々の魔力の鍛錬は、決して怠ることのできない日課だ。聖域の中であろうと、いつ王宮に帰還できるか不透明な現状でも関係ない。むしろ、その不確かさこそが、鍛錬を欠かすことの許されない理由なのだ。
僕の魔力はかなり高いが、その反面、魔力を細かく操作することに苦手意識があった。瞑想をしながら精神を統一する。マナを練る基本的な鍛錬ではあるが、この積み重ねこそが将来的に魔力を自在に操るために欠かせないものだ。これを続ければ、力の操作もより安定させることができるようになるだろう。
「何してるの? 眠いの?」
「…………」
(精神統一、気を散らしてはならない……)
「なんで動かないの? ルーシア? おーい、寝てるの?」
「…………」
「眠るなら、ちゃんと寝床で寝ないと。リョウ!」
「!!? ティア、僕は寝ていない!」
危ない…… 無理やり移動させられるところだった。
「なんだ、起きてるのに何で答えてくれなかったの?」
「マナを練っていたんだよ。そうすることで魔力を安定して使えるようになるんだ。毎日、この鍛錬を怠らないようにしているんだよ」
彼女は僕をじっと見つめた。その視線は上から下まで舐めるようだった。
「マナって力の根源だよね? エネルギーの源。そういうのって普通オーラとして見えるけど、ルーシアにはそれが見えないよ。見えないものをどうやって練るの? 練るって土を捏ねるみたいに形を変えるの? そんなことができるの? 見えないのに?」
僕のオーラが見えないだって? そんなことがあるのか? ティアは自分のオーラが見えているのか? 自問自答しながら、疑問が次々と湧き上がってきた。
「ティア、僕のオーラ見えない?」
「見えないよ」
「じゃあ、自分のオーラは?」
「見えるよ」
「なら、なんで僕のオーラが見えないんだ? ちなみに自分のオーラはどう見えているんだ?」
「陽の光がキラキラ輝いているように見えるよ。ルーシアはオーラが見えないくらいマナが少ないのかと思ってた」
僕は、目の前で話すティアの言葉がにわかには信じられなかった。僕は生まれ持った高い魔力によって、周囲にはいつも抑えがきかないようなオーラが漂っていた。みんなが僕を見るたびに、彼らの心には畏怖と期待、そして時には汚い私欲が渦巻いていることを感じていたくらいだ。
僕は彼女の前に自らの手を翳した。一度確かめてみる必要があると思った。
「ティア、僕の手に触れてみて」
彼女は言われた通り、僕の手に触れようとする。マナを練り、瞬時に性質を変えた。
「あれ、なんかルーシアの手の周りに壁みたいなものがあるよ」
「今、マナを練って身体の周りに薄い膜を張ったんだ。そのまま触れてみて」
彼女の手が膜に触れた瞬間、更にマナを返還する。取り逃がさないように。
「あれ動かない、くっ付いちゃったよ!」
「更にマナを練り直したんだよ。そのままじっとしていて」
最後の方法は、あまり気乗りがしなかった。だが、オーラが見えないという彼女がどこまでその存在を感じられるのか、ほんの少し興味があった。
(軽くなら大丈夫だろう。あまり怖がらせないようにしないと)
僕は彼女を威圧した。ほんの少し、軽くだ。
「ねぇ、この後は何があるの?」
「…………何も、感じない?」
「何もって?」
少し威圧が弱かったのだろうか…… もう少し強めに威圧する。
「……ルーシア眠いの?」
「…………何も感じない?」
「そろそろ手離してほしいんだけど……」
最後に強烈な、殺気を込めた威圧を送ってみたが、ティアにはまるで通じないようだった。もうこの会話に飽きてしまったのか、彼女は手を外そうとしている。どうやらティアには、オーラどころか殺気さえ感じ取ることができないらしい。しかし、これはある種、危険ではないだろうか。ここが安全な聖域の中だから良いようなものの、外の世界では命取りになりかねない。
「ティア、本当にオーラが見えないんだな。でも、僕のマナは少なくないよ。こうして君の手を引き寄せて、離れないようにできるくらいには、十分にあるんだから」
「今、手がくっ付いてるのは、ルーシアがマナで付けてるの?」
「あぁ、そうだよ。マナを練って性質を……」
そこでふと、柄にもなく悪戯心が芽生えた。このまま原理を説明することもできるが、少しからかってみるのも悪くないかもしれない……
「ティア、君は普段肉を食べないだろ?」
「食べないよ」
「僕ら聖域の外の者は、普段から肉を食べる習慣があるんだ」
「そうかもね、私も食べたよ。ねぇ、手、離して」
「肉を食べるとな、その動物たちが身体の中でマナとなって甦ることがある。そして、たまにそのマナが身体の外に出てくることがあるんだ。今、ティアの手が動かないのは、僕が食べた動物たちのマナが君の手を掴んでいるからなんだよ」
「えっ!!?」
ティアは驚いた顔をして、繋がったままの僕らの手の下に顔を覗かせたり、横から見たりして、まじまじと観察している。
「じゃあ、ルーシアの手から動物の手が出てるの?」
「そういうことになるな」
「見えないよ!」
「なぜかは分からないが、どうやらティアには僕のオーラが見えないらしいな。でも、僕のマナに還元された動物たちの手が、確かにティアの手をしっかりと掴んで離さないぞ」
面白い、彼女は繋がれた僕らの手を見つめて口を半開きにしている。
「ちなみにティア、聖域の外にいた時君の周りにいた他の人たちのオーラも見えなかったのか?」
「みんなのオーラも見えなかったよ。ねぇルーシア、食べた動物は外に出てきたら何するの?」
「それは――――」
「ティアに嘘を教えないでもらえるかい?」
振り返ると、折り重なった幹の上から、世界樹が僕らを見下ろしていた。どうやら今までの会話を聞かれていたらしい。いや、世界樹の前で話している以上、すべての会話は筒抜けなのだろうが……
「嘘なの!?」
「そうだよティア、彼はティアに嘘をついたんだ。食べた動物は身体の栄養にはなるけれど、外に飛び出てティアの手を掴んだりしないよ。彼は嘘つきな上にとても楽しそうに嘘をついていたよ。最低だね」
短い会話の中に「嘘」という言葉をふんだんに盛り込まれた。だが、それが事実である以上、仕方がない。
「ごめんティア、少しからかっただけなんだ。僕は今、マナを粘着性のある性質に変えて、君の手を覆っている。だからくっ付いて離れないんだよ」
「そうだったんだ」
「そうだよ、ティア彼は嘘つきなんだ。気を付けてね」
(世界樹、最初から感じていたけど、絶対に僕のことを嫌っているな…… まあ、いい。この際だから、気になることを聞いてみよう。答えてくれるかは分からないが……)
「世界樹、ティアはなぜ自分以外のオーラを見ることができないのですか? 先ほど彼女は威圧を感じ取ることができませんでした。それはある意味、危険ではないのですか?」
「君が送ったのは殺気だろ」
悪いことを暴かれたかのように、言葉が詰まった。興味本位とはいえ、無防備な相手に対して威圧どころか殺気まで送ったのは、まずかったかもしれない……
「オーラで物事や人の価値を判断するなど愚かなことだよ。そんな目は必要ない。
殺気、それは時に刃となって人を刺す。ティアは誰からも愛される、そうなるように生んだからね。けれど、万が一この子に刃を向ける者がいるならば、それは感じ取らないのが最も安全だと思わないかい?」
(感じ取れなければ、刺されることもないということか。確かに、その通りではあるが……)
軽くあしらわれるかと思ったが、世界樹は以外にも答えをくれた。僕を見ることなく、まっすぐティアだけを見つめながら。
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