06. まどろみの中で
髪や服に付着した水分が、まるで命を宿したかのように蒸気となって大気中に立ち上る。水の精霊による水力操作は完璧であり、その技の見事さに感嘆せずにはいられない。あっという間に、全身の水気は跡形もなく消え去った。
身体中が渇いたところで、ティアに再び夜の散歩に誘われた。この大自然には、人工的な明かりはない。しかし、月明かりが森を優しく照らし、周りの様子はぼんやりと見える。それでも夜なので、やはり暗いことには変わりはないのだが。
「こんな夜にどこに行くんだ?」
「見せたいものがあるの」
ティアがリョウを呼び出したので、彼女に促されるままに僕は黙ってティアの背後に腰を下ろした
「リョウ、ルゥイの太い枝までお願い。花があるところ」
大きな世界樹は、その全容を下からでは見通せないほど巨大だった。枝のある場所にたどり着くには、かなりの高さを上がらなければならない。リョウに乗り、僕たちは上へ上へと上昇していった。
目的地に到着したのだろうか。ティアが一つの枝に降り立った。その枝はとても太く、僕と彼女が両手を伸ばしても届かないほどだ。ティアは枝の先へと進んでいき、その後を追うように僕も彼女に続いた。
先へ進むにつれて、枝は次第に細く分かれていく。とはいえ、それでもまだかなりの太さがあるその枝を、ティアは器用に登り続け、ついに何かを見つけたらしく、嬉しそうに僕の方を振り返った。
「ルーシア、見つけたよ! こっちに来て!」
ティアの指し示した方を見上げ、僕も枝を登ってその場所に辿り着いた。
「花か。不思議な色だな」
枝分かれしたその枝元に、その花は咲いていた。その形は桔梗に似ているが、僕の手のひらにすっぽり収まるほど小さな花だった。しかし、その色はまるで夜空に浮かぶ黒い宝石のように濃く、深い黒が月明かりの下で輝いていた。ティアがその花を一輪摘み取り、少し明るい場所に移動して、僕の目の前で優しくかざしてみせた。
月明かりに照らされたその花は、漆黒から艶やかな淡い青紫色に変わり、ほのかに光を放ち始めた。その美しさは、まるで夜空に浮かぶ星々が花びらに宿り、神秘的な輝きを纏っているかのようだった。
「光る花か、美しいな……」
「この花、ルーシアっていうの。夜の闇に浮かび上がる黒い花びらが月光の光を浴びると、有明の色に染まるんだよ。夜が朝に代わるみたいでしょう。私、この花が一番好きなんだ。ルーシアの花だよ」
そう言って彼女はルーシアの花を僕に手渡した。こんなに美しい花が似合うとは到底思えないけれど、彼女がその花を一番好きだと告げたことが、僕にとって特別な意味を持っている。その事実が、何とも言えない気持ちのぬくもりを心にもたらした。
「ティア」
「ん?」
「ありがとう」
森の中で世界樹の枝に寄りかかり、静かな時間をともし過ごした後、眠る時間が迫ってきた。
寝所は、初めに聖域で目覚めた樹洞の中だった。しかし、それは豪華なベッドではなく、柔らかなシーツが敷かれた床の上に過ぎない。二人が寝るには少し手狭な場所だ。贅沢は言っていられないが、女の子と一緒に寝るのは失礼だと感じた。今日は床で眠ることにするが、明日以降の寝場所については改めて考える必要があるだろう。
「ルーシア、こっちに来て。そこは床だよ」
ティアが、自分の寝床を手でポンポンと叩いて手招きする。
「そこはティアの寝場所だろ、共に寝るわけにはいかないし、僕はここでも大丈夫だから気にするな。明日は別の場所を探してちゃんと眠るから」
「寝床はここだよ。布団もあるし、どうして別の場所で寝るの?」
「家族でもない男女は、寝所を共にしたりしないよ。それに、そこはティアの寝場所だろ? 僕がそこで寝たら狭くて寝づらいと思うよ」
「くっついて寝れば大丈夫だよ。布団は一つしかないし、床は固くて、そんなところで寝たら身体が痛くなっちゃうよ。私はいつも子どもたちやルゥイと一緒に寝てるよ。それに、ルーシアと初めて会った時も、王都に着くまで一緒に眠ったじゃない。それなのに、どうして今はダメなの?」
(あれは緊急事態だったんだ、仕方がないじゃないか……)
僕がじっと動かずに、どうしようかと考えあぐねていると、ティアがリョウを呼び出して強制的に彼女の元へ身体を移動させられた。
「明日も思いっきり遊ぶんだから、早く寝なくっちゃ!」
そう言って、僕に飛びつきそのままの勢いで二人でシーツに横になる。ティアがしがみついているので、身動きが取れない。こうなっては仕方がない、諦めてここで寝よう。
静かな寝息が聞こえてきたのは、それから程なくしてのことだった。
すぐそばにティアがいる。顔が近い…… 高鳴る鼓動を気づかれないように、手を胸に当てて落ち着かせる。僕もそろそろ眠りにつかなければ……
―――
混沌が敷き詰められた腐敗した荒野。僕の足元には、虚無を見つめる躯の山が転がっている。見知った顔がいるような気がするが、それを確認するのが怖い。
誰か、生きている者はいないのか? ここがどこかも分からない。ただ、前に進むしかない。どこに進めばいいのかもわからない……
足が、掬われた。地に這いつくばりながら足元を確認すると、躯が僕に手を伸ばしていた。足を、身体を掴もうと迫ってくる。逃げなくては!
必死に逃げる。後ろを振り返ると、躯は集まり一つの塊となって大きな影となった。影は一層僕を追いかけてきた。
逃げなくては! 捕まれば…… どうなるのだろうか? そう考えた瞬間、首元にあの、鉄の感触! どうして!?
逃げなくては! どこに……? 国には戻れない、僕の居場所は……?
遠くで微かに聞こえる歌声、あたたかな光が全身を包んだ。その声に導かれるまま、前へ進む。
影は光にかき消され、眩いばかりの金と銀が目の前に広がった――――――
意識が覚醒する。初めに感じたのは、身体に漂う暖かさと、夢の中で聞いた歌声の余韻だった。背中に回る腕が優しく背中を撫で、僕を包み込むように抱きしめている。その暖かな腕の主は、ティアだった。
「ティア……」
「ルーシア、大丈夫?」
彼女は心配そうな目で僕を見つめながら、背中を優しく撫でていた。
「僕は平気だ、どうしたの?」
「ルーシア、苦しそうにしてたから歌を歌ったの。そうしたら苦しいのがなくなると思って」
「…………」
あの悪夢は、今日に限ったことではなかった。夢にうなされ、夜中に何度も目覚めることも珍しくない。
(心配、してくれるんだな……)
「このまま歌ってるから、ルーシアはゆっくり休んで」
「それだと、ティアが眠れないだろ? 僕のことは気にするな。もう大丈夫だから、君こそ眠って」
「じゃあ、このまま一緒に眠ろう。私の側にいると、子どもたちは気持ちいいって言ってくれるの。ルーシアもきっと気持ちよく眠れるよ」
ティアが僕を包み込むように抱きしめ、静かに背中を撫で続けた。その腕の中は暖かく、彼女のオーラが心を穏やかにしてくれる。甘い香りが漂い、心地よい眠りへと誘う。そして、気がつけば、僕はもう一度深い眠りに落ちていった。
悪夢はもう、現れなかった。
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