00. プロローグ
目の前に倒れた重厚な鉄の板を前にして、僕は呆然と部屋の隅でその異様な光景を見つめていた。入り口を見れば、ぽっかりと空いた穴の向こうに、暗い世界が広がっている。
その入り口の前には、僕とさほど歳の変わらない少女が立っていた。部屋に侵入した少女の存在に、僕はただ怯えながら彼女の動向を窺うよりほかなかった。
「私、あなたを迎えに来たの。一緒にあなたの国に帰ろう」
少女の言葉に、僕はその不明慮な存在と自分の置かれた状況を整理しようとした。
「私、ティア。ルゥイが、人々が大地が綺麗になることを望んでるって言ったの。そのためには、まずあなたが国に戻らないといけないんだって」
意志の強そうなアメジストの瞳が僕を見つめた。肩まで伸びた白銀の髪は、僕の漆黒の髪とは対照的に、その美しさを際立たせていた。
ゼーレの民である人間の反乱は、まさに予想外の事態だった。南の国バレイスはゼーレの奇襲と圧倒的な兵力差に押され、瞬く間にゼーレの支配下に置かれた。バレイス国の王太子である僕、リセル・ウィン・ランド―ドは、4歳の時に国の人質として幽閉された。それから5年が経つ。
毎日与えられる生ごみ同然の食事、看守の機嫌次第で決まる身体の傷跡――それらはすべて日常の一部となっていた。僕の漆黒の髪と瞳は、かつて周囲から美しいと称されたものだが、この過酷な環境の中では、その美しさを意識することさえなくなっていた。そんな生活にも慣れ、自分の存在意義さえ忘れかけていたある日、突然舞い込んできた少女が、僕を迎えに来たと言う。
少女は僕に名を訪ねた。
「ノーレ。奴隷という意味だ」
僕は自嘲気味に答えた。今の僕に名前などない。「奴隷」それが僕を証明する唯一の言葉なのだ。憐れんで慰めるか? 本当の名前を呼びかけて励ますか? どんな言葉を並べても、所詮は他人事だ。同情の言葉など、うわべだけで何の意味もなさない。
「あなたの髪の色、夜空の色だね。ルーシアと同じだ」
少女がまっすぐに僕を見据えながら静かに言葉を紡ぐ。
「ルーシアはね、私の一番好きな花なの。とってもきれいな花だよ。名前、ルーシアってどうかな?」
少女は歌い始めた。その歌声は美しく、荒んだ心を癒し、陰鬱な負の感情を浄化していくようだった。彼女は、首に嵌められた錠と手かせを砕き、僕を解放した。
少女は小さな細い体で僕をおぶり、暗闇から連れ出してくれた。長い間忘れていた自由に、僕の胸は高鳴った。冷たく閉ざされた世界から抜け出す感覚は、まるで新しい命を授かったかのようだった。
肩越しに見える彼女の髪は、初めは白銀だと思っていたが、よく見ると桃色がかっていた。その色が薄暗い廊下でさえも光を反射し、希望の光のように感じられた。
まだ恐れは残っている。この先に何が待っているのか分からない不安もある。それでも、今はこの少女と共に新たな世界へ踏み出そうと決心した。そう思えたのだ。
↓リンク「大地編成、歌うたいは世界樹のいとし子だから」の続編なります。
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