9.話が早い、早すぎる男
一度頷いてしまうと、そこからはもうあっという間だった。
わたしは婚約の予定を失ったみじめな女から、にわかに王太子殿下のお妃候補となった。
なお、「候補」というのはけして悪い意味ではない。むしろ殿下が唐突な申し出に躊躇するわたしに配慮し、このような落とし所をくださったのだ。
精査期間を過ぎてもし、お互いのどちらかに不服があれば、わたしは暮らしていく場所と、充分な退職金をもらって引退する。
その場で書面も用意してくださった。後日正式なものを作るが、まずは口約束ではないという意思表示のためとのことである。
なんという好待遇。でも好待遇過ぎて、逆にちょっと怖さもある。
隙がなさすぎると逆に警戒心を招くのだな、とわたしは殿下に学んでいる真っ最中だ。
「私の手を取ったからには損はさせないし、余計な邪魔はさせない」
殿下はそう言って笑った。彼が笑うと若干、肉食獣の威嚇を想起させる。わたしはおののきながら、(この人には逆らわず、嘘をつくのもしないでおこう……)と更に決意を固める。そしてわたしが小刻みに震えていると、殿下は更にニコニコする。なぜ!?
驚くべきことに、エリザベス=フォージュはパーティー会場から侯爵家に戻ることはなく、そのまま殿下と共に王城に滞在することとなった。
これもわたしが「ところでこのまま王太子の婚約者の称号をひっさげて華々しく帰宅すると、恥ずかしながら我が家族は快く思わない可能性の方が高く……」と相談したためだ。
「ふむ、少なくとも家族には、しばらく今まで通りの君であると見せたいと? しかしまあ、パーティー会場で、既に君との関係を発表してしまっているからなあ。遅かれ早かれ、どこからか伝わりはするだろう。ならばもういっそ、このまま城に来るのが話が早いな」
そう言われたら、「そうですね、城に参ります」以外返しようがなかった。
これが辣腕ということか、とわたしは何度目かの衝撃を味わう。
「最低限のものしかなくて、お妃候補の方には申し訳ないですが……」
部屋に案内してくれた騎士――例の女性騎士ランシア=ワイルダーだ――が恐縮してそんなことを言っていたけど、部屋は清潔でベッドと机と椅子があって、わたしには充分過ぎる所だった。
侯爵家では使用人以下の屋根裏だの倉庫だのが居場所だったし、令嬢の部屋だった頃は常にメアリーとの格差を見せつけられたのだもの。わたし一人の寝場所――しかもまともなベッドがある。本当に、これだけで充分!
侍女達も、我が家と違ってきっかりわたしの寝支度を手伝ってくれた。
周りに人がいる間は恐縮して目がさえていたけど、いざベッドに入るとあっという間。わたしはすぐ、眠りの世界に旅立った。
「おはようございます、お嬢様」
翌朝、聞き慣れたヘレンの声に、わたしは微睡みを抱えたままうっすら目を開ける。
そして何度か瞬きしてから飛び起きた。
「ヘレン!?」
「はい、お嬢様!」
周りを見回せば、みすぼらしい余り部屋ではなく、きちんとした客室。非常に快適に眠れたが、まだ馴染みのない光景だ。
だけどそこに、非常になじみ深い人物がいる。
わたしは寝起きも相まって、とても混乱した。
「あれ? えっと、昨日は舞踏会で、わたしは家に帰らなかったはずで……あれ?」
「お嬢様。ここは王城で合っています。あなたは王太子殿下の婚約者に選ばれたのです。なんて光栄なこと! 殿下がわざわざ、あたしのことを呼び寄せてくださいまして……」
ヘレンはそっとハンカチで目元を拭う。
なるほど、仕事のできる男は、昨晩わたしがぽろっと漏らした「実家に未練はないむしろ縁が切れてくれた方が歓迎するぐらいだが、唯一世話になった侍女のことは気がかり」という言葉から、当該人物を即座に城に連れてきた、ということらしい。
いや早すぎる。ありがたいけども! とても助かるけども!
しかもヘレン曰く、お迎えは侯爵家の主達にわからぬようこっそりやってきて、ヘレンの信頼を得るためには例の書面を出したらしい。
ヘレンは当然、わたしのサインを知っている。その上、着付けてもらったわたしの髪飾りの一つを見せられたらしい。いつの間に。そして抜け目がない。
「でも……その。正直、不安に思わなかった?」
「ええ、まあ……唐突でしたので、驚かなかったといえば嘘になります。ですが、サインと髪飾りとがある以上、少なくともお嬢様がそちらにいらっしゃるのは事実なのだろうな、と考えましたし。詐欺なのだとしたら、侯爵家に対してではなく、わざわざ一介の侍女であるあたし一人に話しかけてくる理由がわかりません」
「それもそうね……」
わたしがううむ、と唸ると、ヘレンと目が合った。わたし達はくすっと笑い合う。
「なんだか本当に、昨日から急に変わり始めて。夢を見ているみたいなの」
「あら、ではあたしもお嬢様の夢にお供させていただいているのでしょうか」
「わたし、侯爵家から出ることになるかもしれないけど……ついてきてくれる?」
「勿論ですとも」
手を握り合う。見知った人の温もりは、本当に心強かった。