海の獣
〈大嘔吐〉以前の時代、霧深い狂気と混沌の海から一匹の獣が浮上し、海面へ頭を出した。サーチライトの様な鋭い輝きを放ち、貪婪な光を瞳の奥に湛えたふたつの馬鹿でかい目は、毛の無い巨大な頭部の真中で異様な存在感を誇示しており、長い剛毛と海水とに隠された口は、その陰で薄らと喘ぐ様に半ば開かれ、唇の端から細長い牙がその時の訪れを待ち切れずにガチガチと震えていた。獣が欲していたのは獲物ではなく惨劇、血の祝祭そのものだった。獣の飢えは既にもうずっと前から限界に達しており、追い詰められ混迷の直中に置き去りにされた独りぼっちの意識が、この激しく抑えの効かない兇暴な衝動の暗闇の中で、半ば憤激し、半ばパニック寸前の恐怖と不安に怯え乍ら、徒らに蓄積して行く力を持て余して戦いていた。古い恐怖が狂騒の臭いに釣られて目を覚まそうとしており、獣はそのことに気付いていた。今よりも更に深く暗い闇があることを獣は賢い頭脳の本能的な嗅覚によって悟ってはいたが、自分が未だその領域に足を踏み入れたことが無いと云うことがどう云うことなのかを理解するだけの成熟は持ち合わせてはおらず、また仮令如何に目の前の戦慄が何れは相対化出来るものだとは解ってはいても、今この瞬間のそれは確かに底無しの深淵を孕んでいる様にしか感じられず、獣の若さ、と言うよりも幼さを考えれば、それもまた道理なのかも知れなかった。
獣は、時空連続体が歪み、世界が綻びを見せ、天空の新たなる相貌が開示される瞬間を待ち乍ら、幾つもの細かい時間の間で跳躍を繰り返していたのだが、夜が、あらゆる風景に恐るべき沈黙と、そして絶対の静寂とを強いる強大な夜が、獣の中でもまだうろうろと去就を決め難ねていた伸ばされるべき手と、向けられるべき眼差しに発破を掛け、これと云った契機も無い儘に、獣自身でさえ驚くような残忍さをするすると引き出して見せたのだった。海の中では求められた惨劇の予感に連鎖反応を起こした鬼火共が荒々しく吠え猛っていたが、亡霊共の呼び声に応えるのは空ろな長く尾を引く谺だけで、それが却って、猶予された答えの残骸が雪かプランクトンの様に降り積もる海中の不気味さを一層際立たせていた。
大気を震わす大音声も、海面を波立たせる騒乱も無かったが、辺り一面はまるで火山の噴火現場の様な騒々しさに満ち、過剰なまでの不穏さが捌け口を求めて暴れ回り、破壊と崩落を繰り返していた。未だはっきりとした形を与えられない、言葉以前の情念が、これまでに獣が獲得していた様々な関係性の図の中で手当たり次第に番いを求め、猛り狂い、己は己だと叫ぼうとしていたが、それらの試みのどれひとつとして叶うことは無く、結ばれようとして空しく砕け散ったばらばらの概念の欠片屑が、行き場も無くゆらゆらと波間に浮かんでいた。
と、獣の本体は海面から顔を覗かせた儘、一切をまるで呼吸を求めて水面へ急上昇する魚の様な目付きで眺めていたのだが、もうひとりの獣が、待っているのに耐え切れずに、乱暴に海面の下へと急速潜行して行った。獣の全身の筋肉がきゅっと引き締まり、眼球は今にも握り潰されそうになっている茹で卵の様にぐにゃりと撓み、深く行くに従ってどんどん痛みが増して行ったが、獣はその痛みさえをも楽しんでいた。肉体に感じられるこの抵抗、この拒絶、この否定が、急く様に潜り、体を捻り、ぐるぐると回り、狂乱の舞踏を続ける獣に、生の実感を、凍え付く様な痛みの快楽を、世界と自分とが切り揉みし乍ら縺れ合い、がっぷりと組み付き合い、互いの形を押し退けようとしている確かな感触の大いなる恩寵を与えていた。獣の身ぬちを狂おしい歓喜が駆け抜け、一瞬本体さえをも一個の小さなボールか何かの様にくるりと翻弄し、周囲の無数の爆発の中に参加して実に美事な、だがこの騒ぎの中ではやはり多数の中の一でしかない爆発を披露した。
どす黒い、しかしあちこちから猥雑な鈍色の乱反射を煌めかせる我武者羅な流れが、獣の頭部を押さえ付け、側面を締め付け、狂った様に背後へと駆け抜けて行った。獣は切り揉みを続け乍らも溶岩の様な血流の滾る硬く盛り上がった筋肉を波打たせて激しい乱舞を続けたが、それは何等明確な針路を持って行われたものではなく、単盲滅法な突進、後先考えぬその場の衝動に任せた飽くことを知らぬ活動欲の暴走、目指すべき方向が解らず、単足掻いているだけの、野蛮で原始的な世界把握への飢渇に導かれた運動があるだけだった。その狂宴は誰か観客が居れば陶酔と戦慄とを与えたに違い無いが、恐るべき諸々の諸可能性を内に孕んだ荒々しい力がこうして荒れ狂っているのを知るのは、唯法外な沈黙を閉じ込めた黯い海ばかりだった。獣は停止するのを恐れるかの様にひたすら猛烈に泳ぎ回り、海の辺縁に何時か打ち当たることを内心秘かに期待していたのだが、幾ら巨大とは謂え獣はやはりちっぽけな獣に過ぎず、世界は今だ獣にとって余りにも広大で、無限にも等しいものに留まり続けていた。その自覚が獣を更に奮い立たせ、狂おしい興奮を掻き立てて暴れ回ったが、一向に出口の無い怒りは獣自身をも含めたあらゆるものへの否定の声と成って、急激に膨れ上がったり様々に姿を変えたりした。その暴力的な迷妄の一切が、〈退屈〉の仮面を被った、〈魔〉の到来へ向けての饗応の準備だったのだが、利口ではあるが経験に乏しい獣がその可能性を察知することは無理な話だった。獣は、自分では〈魔〉の類いの脅威を警戒し恐れていると思い込もうとしていたが、実際には〈魔〉を待望し、自らその顎へと飛び込んで行こうとする位の止み難い衝動が、既に何千回も強度を変え繰り返されて来た為に性向の一部となって自らの本質に溶け込んでしまっているのを、自ら認めたがっているのを自覚する程には、獣はまだ疲れ果ててはいなかった。不安が愚昧を煽り、迷夢がその苗床を育み、やがては大輪となって花開くことを期待されている蕾と自覚しつつも、悍ましい芽が芽吹こうとしているのを、獣は今や自分では御し難ねて、手に余るその力動に然るべきリズムと方向性を刻み付けると云う自らの責任を放棄しようとしていた。獣自身の意欲満々に満ち溢れる活動力が、皮肉なことにその悪循環を促進していたのだが、獣は自分でもそのことを理解してい乍らもどうすることも出来なかった。以前は思い込まれていただけで痛みによって思い知らされてはいなかった鎖の存在は、今や獣の体中に開いた生々しい傷口によって明瞭に証明されていたが、獣はまだその鎖が、自分が滅茶苦茶にうんと暴れてやればその内何かの弾みで引き千切られてしまうこともあるのではないかと云う根拠の無い甘い期待を、自分では淡い願望に過ぎない、疾うの昔に己の限界を弁えるだけの諦念を身に付けている、と思い込もうとし乍らも、その実実に強固に抱き続けていた。だからその茫漠たる黯黒の海の余りの手応えの無さは切迫した焦りとなって獣の心を蝕み、癒し難い慢性的な苦痛を伴う業病と化して、最早肉体的な不調にまで変容していた。希望と絶望のこの滑稽なドタバタ劇はもう随分前から獣をうんざりさせていたのだが、しかしそれはこの狂乱を疲弊で停滞または減速させる程強力なものではなく、結局獣はこの抗い得ぬ流れの中で唯々翻弄されるばかりなのだった。
魚の肋骨を思わせるぞっとする様な歪な牙を並べた巨大な口と頑丈な顎は、噛み砕くべき架空の獲物を求めてガチガチと空の歯噛みを繰り返し、鋭く長い鉤爪の付いた両手は、引き裂くべき相手を求めて空しく虚空を彷徨った。獣自身が狩り尽くしてしまった空ろな海には、最早返り血を浴びさせる何物も、はっきりとした手応えを感じさせる肉を備えた何物も生存していないのだった。獣が藻掻いて手にするのは小馬鹿にした様な水のうねりと、取るに足らない小さな虫共ばかり、それらは獣の怒りに油を注ぐだけだった。獣は破壊の限りを尽くしてはいたが、獣が求めていたのは破壊と云う行為それ自体ではなく、破壊し得ない何物かを何時か探し当てることだった。獣は度重なる失意に身を震わせ、憤懣を迸らせ、馬鹿でかい両目を使って新たなる敵を絶えず探し続けていたが、獣の望みが叶えられることは竟に無く、独り信じられぬ位の孤独のみが、今や獣を圧し潰そうと、実体のある、しかし形の無い矛盾した闇となって伸し掛かって来ていた。
獣は鉤爪の付いた両手を一杯に伸ばし、更に強引な加速を加えて、より大いなる圧力を求めて驀進して行った。それは最早泳ぐと云うよりは分厚い水の壁に体当たりして切り裂いて行く破壊行為と言って良く、その無謀に過ぎる突撃は、獣の望み通りのことでもあったのだが、徐々に獣の体の負担を増大させ、疲れとそれに倍する反発と焦りとを誘い、それに幾何級数的に比例して、加圧された爆発力の抑止力は急速に弱まって行った。事ここに至って、獣にはふたつの選択肢しか残されてはいなかった。狂うか、死ぬかである。獣は次第にきつくなって行く拘束衣の存在を感じ取り、精一杯抵抗して暴れ捲ったが、暴れれば暴れる程結び目は固く締まって戒めをきついものにして行き、残されていた僅かの余裕のお陰で得られていた自由も、気が付いてみるとどんどん無くなって来ているのだった。獣は半狂乱になって突進を続けた。体中の血が鬱血して沸騰し、全身が火に炙られているかの様な灼熱の激痛が襲って来るのと歩調を合わせて、何故か何処からともなく、氷の様な冷気が降って来るのを獣は感じたが、それは海水が冷たくなったからなのか、それとも自分の頭の中に、以前は想像も付かなかった残酷さが宿り始めている所為なのか、獣には判断が付かなかった。
突然、怜悧なギラギラした洞察が獣を捕えた。いや正確に言えば、それよりもずっと以前から徐々に徐々に、獣の成長と共に陰微に着々と結晶化を進行させて来ていた積もり積もって獣の奥深い所に大量に蓄積されて来た膨大な絶望が、取り立てて何の前触れも無く発生した獣の決断と同時に、明白な認識と成って獣の注意を惹いたのだ。それは仕組まれた予感、予想された破局、予定された破滅への呼び掛け、その影の影だった。海中全てを、いや全宇宙を、耳を聾せんばかりの空ろな大音響が満たし、谺し、作り変えるその瞬間が待ち焦がれられた。獣は自分が自分に確信させようとしているものの正体を確かめる為に、出来レースの賭け率を確認する為に、急速な上昇を行い、動と静の時間を重ね合わせ、一致させた。ほんの一時ささやかな解放の瞬間があり、そこへ獣の情容赦無い視線が周囲に向かって放たれ始めた。霧に覆われた一面霞み掛かった海原は、生贄の臓物を遠慮無く打ち撒けた様に、濃密な悪意と呪詛が漂い、獣の神憑かり的な眼力を以てしても見通すことは叶わなかった。いや寧ろ獣が周囲の大気を掻き乱したことによって、仮染めの平穏は積極的に破られ、無惨にも鎗の穂先に掛けられ、晒し物にされたかの様な感があった。だが、獣はそんなことは意にも介さず、盗んだ金で免罪符を纏め買いに来た人殺しの様な確信犯的な笑みを海面下で浮かべると、一瞬の残像を残して、再び海の底深くを目指して潜行を始めた。
まだ足りない、まだ全然足りない。獣は更に過酷な圧力を求めて、この腹立たしい不様な牢獄である肉体への追訴と求刑を行い、全身がドロドロの液体になるまで厳しい罰を与える為に、遥かなる深淵の更に奥へと下って行った。その結果、その直接的な結果がどうなるかは獣にも解ってはいたが、磨り減ってメッキの剥がれ落ちた憂鬱は、今や不思議に陰に籠った興奮と、にも関わらず通奏低音として流れる強張った無感動、そして、この愚行、喜劇にも悲劇にも成れなかった三文芝居に対して、今にも笑い出したくなる位に、一種の愉快さを感じる、全身を鈍い鋸で引き斬られる様な感興を運んで来ていた。獣はそれらの渾然一体となった猥褻な流れに抗わず、寧ろ自ら進んで身を委ね乍ら、この目に見えて狂いつつある轟然とした力の渦の中へと突入して行った。魔宴はまだ始まってはいなかったが、その下準備の下準備、予行演習の予行演習は、何時の間にか気が付けばもう遥かな昔から既に何度も繰り返され、後戻り出来ないまでに始められてしまっていた。
そして私は、それらの一部始終を冷ややかに、しかし慢性化した慚愧の念と老朽化した諦念と共に眺めていた。そして獣が既に過ぎ去ったものとして、一寸やそっとの書き換えでは最早改訂の仕様が無い、半ば確定済みの過去として、時間の頁に拭い去れぬ書き込みを嬉々として続けて行く様を見下ろし乍ら、私はひっそりと溜息を吐いた。