冥王からの餞(はなむけ)
穏やかな西日の差し込むとき。辺り一面に広がる草原は麗らかな光を反射して、萌黄色に輝いていた。その中に佇む影は三つ、少年少女が腰を下ろしている。そよ風が草花を揺らして走り、一人の少女の碧い髪をも揺らした。
「わぁ!」
少女は小さく悲鳴を上げ、口元に白い手を当てた。海の様に深い青色をした瞳はまん丸く見開かれ、きらきらと日光を受けている。長く伸ばされた髪は風にそよぎ、ひらひらとドレスもなびく。
「海、大丈夫?」
「うん、少しびっくりしただけ。気にしないで」
彼女に心配の眼差しを向けたのは黒髪の怜悧な少女だった。闇の色をした瞳と髪に、対照的な白い肌。短く切り揃えられた髪や色を持たない容姿は、華やかさに欠けつつどこか目を惹く美しさがあった。
「海の髪って長ぇしぼわぼわだし邪魔そうだもんなぁ」
「あら、天。そんなこと言っていいのかしら」
という鋭い言葉と視線に少年は空色の髪を弄った。そういうつもりじゃなくて、と謝罪する瞳は金色に輝き、太陽を宿しているかのよう。その笑顔は曇天さえ遠ざける輝きを抱いている。
彼らは王であり、与えられた地をおさめるための力を一つ、生まれながらに持ちあわせていた。海王である碧き少女は慈愛を。冥王である黒き少女は知を。天王の、からりと笑う少年は武勇を。
力を活かしお互い助けあうようにと、そう定められた彼らは同じときにうみだされ、同じ地に暮らしていた。
「明日から二人は夫婦になるのでしょう? 天も素直になればいいのに」
「う、うるさいなぁ……」
天王は気まずそうに眼を背けた。
彼と海王は長い間共に生活するうちに恋に落ち、互いを一生の伴侶とすることを決めていた。彼らが正式に契りを交わすのは明日。ちょうど彼らがうまれてから星が十巡った日であった。
「お、俺は触り心地が良いからいいけどよ? 別にどんな髪型だってあいつが可愛いことに変わりねぇし、……って、冥、恥ずかしいこと言わせるなよ!?」
天王は僅かに顔を赤らめた。海王もその言葉に頬を上気させ、手で顔を覆う。白かったはずの指まで赤くなっているようだ。
冥王は二人の様子を見て笑みを浮かべていたが、しばらくしてその笑みを固いものに変えた。笑顔の仮面をつけているような、何の感情も読み取れない顔に。
「二人に話さなければならないことがあるのだけれど」
彼女の異様な雰囲気に二人は慌てて振り返る。
「今日の朝、紅茶を飲んだでしょう? あれ、私が淹れたものなの」
「あら、そうだったの! おいしかったけど、何か果汁が入ってなかった?」
「えぇ、石榴を少し。天も飲んでくれたかしら」
「あぁ。けど、それがどうしたっていうんだよ」
天王は怪訝に冥王を見つめた。冥王はゆっくりと血の気の薄い唇を歪める。
茜色だったはずの空は、端から少しずつ夜の色に滲みはじめていた。すっかり傾いた陽光は、冥王の端正な横顔を照らす。
「あの紅茶には、ちょっとした秘密があるの。結ばれるあなたたちへの、最後の贈り物よ」
「な、何のはなし?」
海王の瞳にも疑問が渦巻き始める。彼女は眉間にしわを寄せ、その花のような容姿には似合わない表情をつくってみせた。
「喜んでもらえると嬉しいのだけれど、私に関するあなたたちの記憶を、すべて消し去るようにしたの。だから明日、目が覚めた頃には私と過ごした時間のことは忘れている筈よ」
冥王は紅茶について淡々と語った。今まで彼女が様々な知識を披露してきたときのように。
海王はそんな冥王を見てただ硬直していた。
「そんなの、いや!」
海王の叫び声に冥王は目を瞠る。
「どうして?」
海王の思考が解らない、とでも言いたげに彼女は首を傾げた。
「私達、今までは三人で一つと言える関係だったでしょう? けれど、明日からあなた達はもっと深い仲になる。二人の世界に、私はもう不要でしょう」
幼子に道理を教える様に、静かにはっきりと説く。
「いつかはこうしなければと思っていたのだけれど、あなた達は優しいから。私に優しくさせない為には、忘れてもらうしかないのよ」
なにをいっているの、と海王は小さく呟いた。困惑を抱えた瞳を冥王に向け、服のすそを握り締めている。
対して、二人のやりとりを見ていた天王は海王よりも落ち着いているようだった。低く、けれど震えた声で疑問を投げかける。
「いつから考えてたんだ、それ」
「いつかしらね、海があなたに恋したとき? ……決断したのはあなた達が結ばれたときよ。私は要らないって理解できたから」
「うそ!」
他人事のように答える冥王に、海王の愛らしい造形は驚愕に彩られた。
「だって、わたしが冥に相談したとき、応援してくれたじゃない。両想いだったよって報告したときも笑ってお祝いしてくれたでしょ?」
だからうそ、うそに決まってるの、と彼女はただ繰り返す。
慈愛の女王として生まれた海王は哀れみ深く、寛大な心を持っていた。二人の前でさえ怒りを見せたことはなかった。彼女の荒れようは冥王にとって初めて目にするもので、けれど彼女はその彫刻に似た笑みを崩さなかった。
「祝福の気持ちは本当よ。私が嘘を吐くのが苦手だって知ってるでしょう?」
「そんな……そしたら、冥が言っていることぜんぶ、うそみたいなものじゃない!」
未だ冥王は苦しそうに微笑んだまま。天王も静観を続けている。
「海、どうして喜んでくれないの? 明日になれば、海と天は仲良く幸せに生きていけるのよ。周りの人にも伝えておいたから、必要以上に私と関わらずに生きていけるの。まぁ、今日はそろそろ意識を失ってしまうのだけれど」
「喜べるわけないでしょ! 解毒剤とかはないの!?」
幼馴染がそう吠える姿を、冥王は未知の生物を観察するように見つめた。何も映そうとしない闇色の瞳に痺れを切らしたのか、海王は立ち上がって冥王に掴みかかろうとする。
「だめだ」
少女二人のやりとりを見守っていた天王は藍色の少女の動きを優しく抑えた。彼の力に海王が適う訳もなく、
「はなして!」
少女の長く伸ばされた髪は乱れ、瞳はわずかに潤んでいる。天王は恋人の頭をそっと撫ぜた。
「なぁ。俺は、いつかこんな日が来るんじゃないかって気もしてたんだ。ずっと三人で仲良しのままじゃいられないってな」
海王の瞳を覗き込みながら、彼は続ける。
「それに、飲んじまったものは仕方ないだろ?」
「――どうして、あきらめようとするの?」
「それしかないからだよ。どうせあいつは解毒剤なんてつくってない。もう、元には戻れないんだよ」
「そんな……」
天王の言葉に憐れみが含まれていると気がつき、海王は脱力した。そっと彼に寄り縋る。
海王の感情が凪いだことを見てとると、冥王は口を開いた。
「実はね、私も紅茶を飲んだの。あなた達の記憶から消えているのに一人だけ憶えているだなんて、耐えられないから。最後だけど、三人でお揃いにしたくて」
冥王は、自分の言葉がにじんでいるのに疑問を抱きながら空を見上げた。二人の姿が視界に入り込まないように。
もう日は落ちる寸前で、世界は夜に移り変わろうとしている。
「もうあと少しかしら」
彼女は目を細めて夕暮れを眺める。
「だから、ひとつだけ。どうか、幸せに」
その言葉と日没はほぼ同時で、二人の耳に届いたかは不明だった。気を失い、崩れ落ちた二人を見て彼女はようやく安らかな笑みを浮かべる。これでよかったのだ、と。
「おやすみなさい」
そして身を横たえる。
夜闇に紛れた数輪の牡丹百合が、彼らを見守っていた。