3.玄関にて
鞄を持って玄関に行くと、卓はもう靴を履いて待っていた。別に用意するものなんて何もないもんな。そんなことに、その時になってからやっと気付いた。
「じゃあ、行くか。」
卓に話し掛けた。無理に明るくしゃべろうとして、語尾が上ずってしまったのが自分でも分かる。
卓からの返事はない。そりゃまぁそうだよなぁ、と自分を変に納得させて、卓の無言をYESと勝手に解釈して、玄関のドアを開けた。
「いってらっしゃい。」
後ろから声が聞こえた。
振り向くと、真里がエプロンの裾で手を拭きながら、こっちに向かってきていた。
「たー君、外寒いから。これもっていきなさい。」
そう言うと、英里は卓に手袋を渡した。黄色い毛糸の手袋。確か真里が卓のために、1年前に縫ったやつだ。やっぱりな。何となく納得した。
「たー君、パパにいっぱい買ってもらうんだよ。」
真里は満面の笑みを浮かべて、卓の頭をくしゃくしゃに撫でながら言っていた。卓も別にそれを嫌がらなかった。そうなんだよなぁ。また、納得した。
「卓、先に車に乗ってて。パパ忘れ物しちゃったんだ。」
俺はそう言って、車のロックを解除した。卓はしばらく俺の顔を見つめていたが、黙って外へ出て、黙って後部座席に乗り込んだ。二人なのに後部座席か。まぁ、そうなんだよな。また、納得した。
「ちょっといい?」
真里が話しかけてきた。もうその顔に卓に見せた笑顔はない。これはまずいな。俺はそんなことを思いながらドアをそっと閉めた。ママに叱られるパパなんて卓に見て欲しくない。こんなパパにだってこんなパパなりのプライドってのが存在するんだ。
「ん?どうした?」
できるだけ平常心で話した、つもりだ。
「お願いだから車の中とかで、卓を怒鳴らないであげてよね。」
平常心は思ったよりも脆かった。
「分かってるよ。でもあれは卓も悪いだろ。何だよあの態度。あんなの他の人にでもしてみろ。俺よりもっと怒るはずだぞ。」
一息で言った。何、子どもみたいなこと言ってるんだ。言った後でそう思った。
「まるで子どもみたいな言い方ね。それじゃ、卓のほうがずっと大人よ。」
真里も同じことを考えていたらしい。
「どうせ、俺は子どもだよ。」
「もう、なに拗ねてるのよ。」
俺のこと馬鹿にしてんのか?そう思ってキッと顔を上げると、真里は苦笑いみたいな、泣き顔みたいな、苦痛に堪えているというか、とにかくそんな複雑な顔をしていた。
「お願い。…ねぇ、お願いだから。」
「…分かったよ。」
そう言うしかなかった。
あんな顔で言うなんて卑怯だろ。本気でそう思った。
あんな言い方でいうなんて、俺のこと本当に子供として扱っているんじゃないか。これは半分くらい本気で思った。
「じゃあ、気を付けていってきてね。」
真里は自分の思いが俺に伝わったのを確認したように小さく頷いて、今日初めて俺に対しての笑顔を見せた。目尻には小さな皺が見えた。
「…じゃあ、行ってくるよ。」
やっと笑顔が見れたことに安心して、でもそんなことに喜んでいることを悟られたくなくて、なんだか気恥ずかしい気持ちになって、早口でそう言ってごまかして、ドアを開けた。
「あっ、ちょっと待って。」
「えっ?」
いちいち真里が言うことに敏感になってしまう。夫婦なんだけどな、といつもの苦笑いを浮かべた日がここ1ヵ月でどれくらいあっただろう。
「7時までは絶対に帰ってこないでね。」
「なんで?」
「悪いパパへのお仕置きです。」
「えぇ!?」
オーバーすぎるくらいのリアクションをしてみた。本当だったら困るから。
「冗談よ。」
「だよな。」
ほっと胸を撫で下ろしたい気持ちになったことは、真里には今後も内緒にしようと思う。
「夕飯は卓の大好きなもの、いっぱい作ってあげたいの。だから時間が掛かりそうなのよね。あっ、このことは、たー君には絶対内緒よ。」
「…分かった。じゃあ、行ってくるよ。」
やっぱりなぁ。納得というより確信した。
真里は卓の本当のママで、本当の母親なんだ。当たり前だけど、そう確信した。
じゃあ、俺は?
多分卓のパパ。父親、とは違うんだよなぁ。お菓子に付いてくるおまけのカードみたいなもので、でもキラキラしてないその他大勢のカードで、なぁーんだとがっかりされて、煎餅かなんかの缶にその他大勢と一緒に押し込まれて、日の目を見ずにいつかはポイ。そんな存在って言ったほうが正しいのかも。
いや、もしかしたら卓と一緒で真里の子供?えーん、ごめんなさい、もうわがまま言いませーん、とか言っちゃったりして。
「…ばっかじゃねぇーの。」
そう吐き捨てて、ドアを思いっきり閉めた。
勢いの言い大きな音がした。
「きゃっ。」
真里の小さな悲鳴が聞こえた。
あっ、やっちゃったな。そんなことを思う間もなく、
「ちょっとパパ!ドアが壊れちゃうでしょ!!」
という、ドアの音なんかよりもずっと大きな、俺を叱る声が聞こえた。
「ごめんごめん。行ってくるよ。」
一応、謝った。
俺が九割九分悪いのに、
「一応」ってつけちゃうところが、まだまだ子供なんだよ。自分に自分でツッコんで、それもなんだか恥ずかしくなって、俺は足早に卓の待つ車へと向かっていった。
吐く息が白い。指先も痛い。
天気予報士は、『例年並みの寒さ』だと言っていた。
そんな寒い季節に卓は生まれたんだよなぁ。
ふと、考えてみた。
まっ、俺と卓との間にもさむーい溝が生まれてるけどね。
やっぱり気恥ずかしくなって、ちょっとサブい冗談を考えてみた。こういうところからどんどん『オヤジ』になっていくんだよ。
俺は、苦笑混じりにドアを開けた。
ドアを開けると、後部座席には卓が座っていた。
猫背を余計に曲げて、握りこぶしは膝の上。目線は下を向いていて、しきりにお尻をもぞもぞさせている。そのかわりシートベルトだけは、ピンと卓の体を固定している。
なんとも卓らしい。そういうところは、俺にやっぱり似ているのかもしれない。でも、似ていない気もする。まぁ、世間的に見れば息子なんてそういうものなのだろう。
「じゃあ、卓、行こうか。」
自分のそんな気持ちを隠して、馬鹿みたいな明るい声を出してみた。予想していたとおり、卓からの返事はない。そりゃ当たり前だよな。俺は黙って車を走らせた。
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