2.リビングにて
気が付くと、昼過ぎになっていた。慌てて起きて、そうだ今日は休みじゃないかと考えて、またベッドに腰を下ろして、あっ今日は卓の誕生日だとまた慌てて起きて、今日の朝を思い出して、また腰を下ろして、ため息を吐くと同時にベッドから飛び起きた。
頭が痛かった。最近眠りにつくと、ときどき頭が痛くなる。別に頭を抱えるほどの激痛ではなかった。頭の一番隅っこで小人が精一杯暴れている、例えるならば、それ位の小さな痛みだった。でも、だからといって気にならないわけでもない。俺は痛さにしかめっ面を浮かべながら、リビングへと向かった。
リビングでは、卓が炒飯を食べていた。
いつものメニューだ。土曜の昼は炒飯で、日曜の昼は焼そば。誕生日なのにいつもと一緒のメニューなんだな。俺はそっとため息を吐いた。
「毎週、毎週、同じメニューじゃ卓だって飽きるだろう。」
一度、真里に冗談めかしでさらっと聞いてみたことがある。
「卓が好きなのよ。炒飯と焼そば。」
真里のその返事には冗談は感じなかった。
家族にまで気を遣う小学生か。
思わず苦笑いを浮かべてしまった。最近、笑うことが増えた。でも、その三分の一は愛想笑いで、その三分の一は苦笑いで、残った三分の一を半分にしたくらいが鼻で笑うことで、残りが本当に心の底から笑うことで、それを卓に対してどれくらい使っているかと問われれば、多分父親として赤点の回数程なのだろう。
また、苦笑いを浮かべちゃったな。改めて思うと恥ずかしくなった。その恥ずかしさを拭おうと、視線を卓から逃げるように上げると、皿洗いをしている真里と目が合った。
真里はじっとこっちを見つめた。真里が言いたいことは何となく分かる。俺は分かってるよと、軽く頷いてみせた。俺だって父親なんだから。真里は俺から視線を外し、また炒飯の焦げがついたフライパンを洗いはじめた。横顔からは俺の気持ちを察したのかどうかは判定できない。
やれ、やれ。
また苦笑いを浮かべてしまった。目線を左に逃がして、食器棚に映った自分の顔を見てあわてて口を閉じて、顔を整えた。
へらへらしてるんじゃねぇ。情けない自分を精一杯叱った。情けない自分が情けない自分を叱っているんだから、どれくらい効果があるか、たかが知れていたんだけど。
改めて卓を見なおした。卓は相変わらず炒飯を食べていた。
卓は昔から食べるのが遅い。テレビを見ながらだとか、しゃべりながら食べているからだとか、そういった理由ではなく、ただ単に食べるのが遅い。そういったところも、赤点の父親からすれば、イライラするポイントでもある。
「卓、ちょっといいか。」
できるだけ、明るい声で話し掛けてみた。いいぞ、お前にだってできるじゃないか。そう心に言い聞かせた。
「なに、パパ?」
卓は手にしているスプーンを置いて、真っすぐと俺を見つめた。
目は真里にそっくりだね。
卓を初めて見た俺は、確か真里にこう言った気がする。
あなたにそっくりじゃない?
真里も確かこう言ってくれた。それが、『口は』だったのか『鼻は』だったのか、それとも『輪郭は』だったのか、もうそんなことは忘れてしまった。『あなたにそっくりじゃない?』ではなく、『あなたにそっくりじゃない!』。今になって考えてみればそれが答えなんじゃないかと感じてしまう。『あなたにそっくりなはずないじゃない!』のほうが楽なのに、そう思ってしまったことも実はある。
馬鹿な考えはやめろ。俺はそんな考えを吐き出すように、ため息を吐いた。
卓の肩がビクッと跳ねる。
バカヤロウ、卓に気を遣わせてどうするんだ。自分を叱り付けて、またできるだけ明るい声で話し掛けてみた。
「なぁ、卓。やっぱりショッピングモールに行かないか?今日は卓の誕生日なんだ。パパ、何でも買ってやるぞ。なぁ行こう。」
「僕、森田のおばちゃんのお店でいいよ。」
か細い声で、卓は答えた。ここで引き下がっちゃいけない。卓はきっとショッピングモールに行きたがっているに決まっている。俺だってお前の父親なんだ。
「なんだ、パパに気を遣ってるのか?いいんだよ、気にしなくて。パパ、さっきまで寝てて疲れなんて吹っ飛んじゃったんだ。なぁ、ショッピングモールに行きたいだろ。遠慮なんてしなくていいんだよ。なぁ行こう。」
「…いいよ。」
「そうか、よし。じゃあ行こう。待ってろ。パパ、すぐ支度してくるからな。」
「…いいよ、森田のおばちゃんのお店で。」
なんて、強情張りなんだ。俺は多少イライラし始めた。馬鹿だなぁ、押し返してくる相手に力任せに押したって駄目なんだよ。今になって、そう思う。
「…そうか。森田のおばちゃんのお店だな。卓は森田のおばちゃんのお店がいいんだな。そうだよな。なぁんだ。だったら初めからそう言えばいいんだよ。よし、じゃあパパと今から森田のおばちゃんのお店に行こう。今、支度してくるから、卓も準備しておけよ。」
一気に早口でしゃべった。そうしないと、空回りしている自分に嫌気がさしてしまいそうだったからだ。
「でも…。」
卓はそう言うと、目の前の炒飯に視線を戻す。
「お昼ご飯か?」
俺がそう聞くと、卓は小さく頷いた。皿を見ると炒飯がまだ半分くらい残っていた。
「大丈夫。残したって構わないんだから。卓だって毎週、毎週、炒飯ばっかりじゃ飽きるだろ。そうだ。確か商店街にハンバーガー屋さんがあっただろ?そこでハンバーガーでも食べよう。うん、それがいい。卓、ハンバーガー好きだろ。うん。それがいいよ。」
「…でも、ママがご飯は残しちゃいけないって。」
「ん?大丈夫だよ。今日は特別なんだ。残してもママは怒らないよ。なぁ、ママそうだろ?」
自分の空回りから避けるように、俺は真里を見た。
真里はただ笑っていた。いや、泣き顔にも見えた。いや、よく見れば怒っていたようにも、呆れていたようにも見えた。とにかく真里は、俺に何も言ってはくれなかった。
「ほ、ほら。ママだっていいって言ってるだろ。誕生日なんだから。今日は卓の誕生日なんだから。な、なぁ、早く行こう。今、パパ用意してくるから。それまでに、卓も準備しておけよ。」
声が裏返った。汗も吹き出た。家族に対してなに焦ってんだよ。そんなことを考える余裕すらなかった。
「でも、パパだってご飯食べてないし…。」
卓は優しい子だ。でも、優しさは時に苦痛に変わるんだぞ。卓よりも何倍も年を取った俺だからこそ、卓にそう伝えたい。でも、分かるわけないよなぁ。そう思って、ぐっと堪える。堪えた代わりにイライラが前へと押し出された。
「いいんだ。パパはお腹へってないんだ。なぁ、早く行こうぜ。」
「…じゃあ、ハンバーガー屋さんには行かなくていいよ。」
「いや、そうじゃなくて…。本当はパパもお腹減ってるんだ。なぁ、卓も食べたいだろ、ハンバーガー。なぁ、早く行こうぜ。なぁ。」
「炒飯、パパの分もあるよ、多分。」
「違うだろ。今日はお前の誕生日なんだ。炒飯はいいんだ。なぁ、行かないのか?」
卓のことを初めて『お前』と呼んだ。
「でも、ママがご飯は残しちゃいけないって。」
「だから、さっきママがいいって言ってくれただろ。お前は聞いてなかったのか?」
また、卓のことを『お前』と呼んだ。
「でも…。」
「なぁ、行きたくないのか?行きたいだろ?早く行こうぜ。」
「でも…。」
「いいんだよ。行こうぜ。早く。」
「でも…。」
「いいから、早く行くんだ!!」
卓の肩がビクッと跳ねた。卓に対して初めて理不尽なことで怒鳴った。
「俺も用意してくるから、卓も用意しとけよ。」
早口でそう言って卓から離れた。卓の目に光るものが見えた気もするが、俺はそれを見なかったことにした。
リビングを出るとき、真里と目が合った。
怒っていたように見えた。今回は他の顔のには見えなかった。
「ごめん。」
一言だけそう言って、俺はリビングを出た。
ため息が聞こえた。皿に乗った、多分俺のであったであろう炒飯を、三角コーナーに乱暴に投げ入れたのは、幻覚だと自分に言い聞かせた。
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