マーメイルの調停官
友人に日常生活のお話をすると、いつも大げさなくらい驚かれます。
例えば、朝の過ごし方とか。
ルームメイトのシノの肩を揺さぶりベッドから引き剥がすのが一日の始まりで、いや自分でもこんなスタートはいかがなものか、とたびたび考えます。でもこればっかりは彼女の二度寝癖が治らないことには、どうしようもありませんが。
起床から十数分経っても寝ぼけたままの友人と対面しながらの朝ご飯を済ませ、さっと制服に身を通して、顔を洗って歯を磨き、水色にホワイトのラインが特徴的な学校指定のスクールバッグを背負って、アパートの一室を開け放つのです。
そして広がるは、ささやかながらも視界に広がる「シオナミ」の街。
メインストリートと交差する複数の小道、それに沿って続く白壁の建造物。岩造りで小柄ながらも堅牢なたたずまい。
静かなその場所では、耳をすませども大きな物音が聞こえることなどありません。
せいぜい魚たちの、挨拶代わりに空を舞う、ささやかな水音ぐらいでしょうか。
そうでなければ、
「くぁ~っ」
ぶかぶかの制服を着崩して玄関から出てきた、シノの大きなあくびぐらい。
「静かすぎるってのも困りものだよね~」
「いい加減この環境下でも自力で起きられるよう努力されてはどうですかっ!」
「やだ」
わたしはジトリとシノをねめつけます。怒っているわけではありませんが……彼女には能動的な私生活の改善を遂行してもらいたいものです。
朝焼けのシオナミは、その街並みを満遍なく一望できるぐらいに明るくて、透き通ったエメラルドグリーンを背景に映し出される全景は、やはり何度見ても筆舌に尽くしがたい絶佳の代物。陸の友人たちにも見せてあげたいぐらいですが、あいにくここは水深五十メートル、絶景を見せつつ昇天させることになってしまいそうです。
シオナミは所詮、世帯数が百にも届かないような街ですから、少し泳げばすぐに外れ、薄暗い海中へと出てしまいます。今日は陸上の天気も芳しいようで、シオナミ外の海中地点もそこそこの明るさが保たれているようです。
光の帯が真っすぐ突き刺さってくる海面へ向けて、わたしたちは一気に浮上しました。
*
アルチペラ分校は、わずか五十キロメートル四方の孤島、アルチペラ島の南方に位置するユウナギ丘のふもとにありました。
どこぞのヘンテコ設計士さんが組み立てたのか存じ上げませんが、その校舎のヘンテコ具合と言ったらアルチペラいちばんでした。あるところは瓦屋根かと思えば、その向こうは豪奢なレンガ造りだったり。かのイスラーム建設で多用されたドーム式屋根を取り入れてみたり、何を思ったのか壁という壁をパステルカラーで塗りたくってみたり。いや綺麗なことは綺麗なのですが、いくぶん落ち着かない代物です。
この学校に通うのは、四歳から二十二歳までと幅広い年代にわたります。それでも全校生徒は二百と少しに留まっていて、少子社会からの脱却はまだまだ難しいと痛感するばかりであります。
わたしとシノはと言えば、この学校の高等部二回生なのでありました。
「ねぇねぇ委員長、エラで呼吸するってどんな感じなの?」
講義が終わり休み時間になると、毎度のように、クラスメートの何人かがわたしの元へ集まってきます。
彼女たち陸の人間からすると、わたしたちはちょっぴり特別な存在に映るようです。
「やっぱり、陸に上がってるときとは違うのですよね?」
「ええ。肺呼吸とは色々と勝手が違いますよ」
「私、不思議でたまらないのよね! 水を吸って酸素を補給してるなんてさ」
「違うよー、エラ呼吸は水吸ってるわけじゃないもん。だよね、委員長?」
クラスメートのE氏が今にも首肯を得んとして、わたしに詰め寄りました。
「そ、そうですね。確かに吸っているというわけではないです。一方通行と表現した方が妥当でしょうか」
「へぇー。肺呼吸も一方通行だったらなー」
「吸った空気をお尻から……?」
「もー、やだぁー!」
という具合に、講義の開始を告げる予鈴が鳴るまで、こうしたやり取りが続くのでした。
ちょっぴりお下品な言葉が飛び交う会話のはずれで、せっせと次の講義の準備をしている最中、
「ねーねー、エラは見せてくれないの?」
唐突な一声に、わたしは本能的に腰まで伸ばした長髪の上から、両手で頸部を押さえました。
「ちぇー、防御本能はやはり一級品か」
「いい加減やめなって。委員長、エラは絶対に見られたくないって前々から言ってたじゃん」
わたしたちマーメイルにとって、エラは恥部にも相当するもの。俗な言い方をすれば大事なところなのです。いくら陸の人間がどうとも思わなくたって、エラを見られるということはわたしにとって、公共の場で裸のまま闊歩するのにも等しい羞恥なのです。
「ごめんね、委員長。この子諦めが悪いから」
「いいじゃんかエラぐらいみせてくれたってもー‼ うがぁーっ!」
獰猛な獣と化した同級生を引っ張っていくE氏に感謝の意を表しながら、わたしは火照ったおでこを机上の冷たい教科書に載せて、熱を冷ますのでした。
*
わたしは単なる学生であります。
しかしひとたび学校を出ますと、わたしはルームメイトのシノと共に、とある肩書きを持つ存在へと変貌するのです。
「部長さん、お疲れ様です」
学校からほど近い場所にあるWCCのアルチペラ支所、海妖監視委員会と掲げられたプレハブ小屋の一室。わたしはシノと共に、週二回のペースでここへ足を運んでいます。
「きみらもご苦労。すまないな、わざわざ下校どきに」
「全くだよ。せっかく海釣りにでも行こうと思ってたのにさ~」
不機嫌そうに吐き捨てる隣のシノに、制裁のゲンコツを食らわせてやりました。
「いてっ⁉」
「いい加減節度を弁えてください」
「むぅ……これだから真面目子ちゃんは」
上目遣いに見上げてくるシノの視線をよそに、わたしは再度部長さんの方へと体勢を向けました。
白髪の混じった癖のある毛髪に、大きな黒縁の眼鏡をかけています。部長さんは幸いにもとても温厚な方で、部下がどれほどの雑言を吐きかけたとしても、柔和な笑みを一たびとも崩したことがないらしいです。とてもわたしにできる芸当ではありません。
「いや、きみたちには本当に申し訳ないと思っている。本来ならば学業や青春に専念すべき貴重な時間を、こうして我々のために割いてもらっているのだからね」
部長さんが頭を掻きながらそんなことを言いますと、シノはすぐさま反応しました。
「杞憂だよ~、ウチらはカレシいないし。学業を理由に仕事から逃げるには、ウチは優秀すぎるもんねー」
もーっ、また余計なことを。
たしかに、わたしはともかくシノは本当に優秀です。ですが、どこかこの人には常識に欠けたところがあります。玉に瑕というやつです。
「シノくんが言うと妙に説得力があるが……本当にきみたち、ボーイフレンドはいないのかね? とてもそうは思えないがな。もちろん、良い意味でね」
まったく部長さんったら、いつもこんなおべんちゃらを。
「ぶ、部長さん! それで、その、今回の仕事というのは――?」
半ば照れ隠しのようなものです。わたしはそのように尋ねました。
「それなんだが、今回は少々手間のかかるものでな。いやなに、特にこれといって今までのものと代わり映えするわけでもないのだがね」
「ということは、海妖の監視関連とか?」
「ああ」
わたしはどこかで一安心して、ほっと溜息をつきました。
海妖さんたちの監視任務は、とりあえずはわたしたちが調停官に就いてからこれといって大きな動きはなく、比較的平穏を保っています。これでWCCが血迷って「海妖を撃滅するぞー!」なんて言い出したら、また人類と海妖さんたちの大喧嘩が勃発しかねません。ましてや、そのトリガーに自分がなってしまうことだけは死んでも避けたい所存です。
「きみたちの累積監視記録によれば、海妖たちの方も様子見を続けている状態のようだね」
「ええ。ここ半世紀におけるWCC主導の魚類等保護政策が功を奏しているものと思われます」
部長さんは上機嫌な笑みをこぼして、言いました。
「それは良かったよ。……実は今度、本部でWCC総会が開催される。アルチペラ近郊における海妖の実態とその報告は、今回の議題でも特に重要視される項目だ」
「それで、また論文に? だるっ」
途端にシノの眉根がぎゅっと寄りました。嫌なのは分かりますけど、せめて上司の前で感情を表に出す癖をどうにかしていただきたいわたしです。
「そういうことだ。まあ、可能な範囲で構わないよ」
「ウチらの収集したデータ量から概算すれば、二百枚ぐらい?」
「……十分の一で結構」
シノはやると言ったら必ず実行するタイプです。その気になれば本当に二百枚書こうとします。シノは良くてもわたしはダメです。倒れます。
「念を押すようだが、あくまでこれまでのまとめ程度で問題ない。新規にデータを仕入れなくとも――まあ、そうしてくれた方がありがたいな。本部はそれなりの情報を欲しているようだからね」
どこか困ったように笑いながら、部長さんはわたしにいくつかの書類を差し出しました。
「今月いっぱいまでに頼むよ」
「はい、承知しました」
「助かるよ、ありがとう」
「いえ。……わたしたちにできることなら、尽力させてください」
不意に出た言葉でした。
その言葉を耳にした部長さんは何かを悟ったようで。
「――そうだな。分かった」
少しの間をおいて、わたしは不慣れなお仕事スマイルをふんだんにふりまきます。
「それでは、わたしたちは、これで」
「しつれーしまーす」
見送ろうとする部長さんを身振り手振りで制しつつ、わたしたちはぺこりと頭を下げてプレハブ小屋もとい海妖監視委員会を後にしたのでした。
*
ことの発端は、およそ三世紀前までさかのぼります。
当時の人類は、今よりももっと高度な科学力を有していたことが明らかになっています。ただ、それが裏目に出たとでも言いましょうか。核エネルギーを利用した広範囲かつ極度の殺傷性を有した大量破壊兵器の登場……一時期はそれを抑止力として均衡を保った時期もあったようですが、平和は長く続かなかったようです。
結果、全世界を巻き込む核戦争により、ありとあらゆる地上の世界は荒廃の限りを尽くしました。
都市は壊滅、それどころか人間の住まう大陸や島々のほとんどで水が涸れ、考えられるだけの食料となりうるものは、夢幻のように姿を消したのです。
戦火を生き長らえた人間たちは、果てしなく続く荒野を歩き続けたそうです。水を、あるいは食べ物を求め、どちらが北か南なのかも分からないまま、ひたすらに歩を進めて。
ほとんどが名もない荒地で命尽き果て、しかし人間というのはしぶとい生き物でした。
およそ数千人とも数万人とも推測される生存者が、わたしたち現世代人類のご先祖さまにあたります。
もちろんこのお話には裏がありまして、いくらなんでも全面核戦争では百億の人類を半減させることすら困難を極めるわけで。
つまり、人類大衰退に際し暗躍した存在がいるわけです。
それが、海底に住まう、手のひらサイズの小人たち。
まんまるな目に、色とりどりの衣装を身にこなし、まるでかわいいぬいぐるみ人形のような容貌の彼らは、のちの人類からはこう呼ばれるようになりました。
海妖。
それまでの人類史でただの一度も観測されたことのなかった、神妙不可思議なその生態は、現時点でもあまり解明されていません。
しかし、これまでの歴代調停官――人類と海妖たちの間を取り持つ任務を負ったWCC(世界市民委員会)公認役員――によって、少しずつ海妖に関する歴史の謎が解き明かされつつあるのです。
静かな海底の中で集団生活を営んでいた彼らは、人類が犯した全ての悪行のむくいとして、核戦争を機に、人間の生きるすべを奪いつくしました。
すなわち水を涸らし、食物を腐敗させ、動的エネルギーを陸上から消失せしめて。
おそらく、きっと、たぶんですが。
海妖さんたちは、一時は本気で人類を滅ぼそうと考えたのでしょう。
一度はそこまで深まった、人類と海妖さんたちの軋轢。
しかしどうにか核戦争以降、現在に至るまで――両者の溝はそれ以上に広がることはありませんでした。
現時点で海妖さんと人類、お互いが距離を保ちつつ平静を維持できているのは、残された人類たち、とりわけ調停官たちの涙ぐましい努力、ひいてはマーメイルという新人類の発生によるところが非常に大きいのは、懐疑の余地がない事実なのです。
*
学校が休みとなりますと、わたしでもそれなりに心躍るわけですが。
「ま、頑張って~」
残念ながら、今日は休日出勤デーとなりました。ちゃん。
部長さんから命じられただけの資料を作るのに、もう少しだけ海妖さんの情報を仕入れたいという謎の追究が、休日に惰眠を貪る欲求に勝ってしまったという構図です。
居間でソファーにごろりと寝そべりながら見送ってくれたシノに軽く手を振って、わたしは玄関へと続くフローリングをぱたぱたと急ぎ足で通り抜けました。
本日はお日柄もよいですが、しかし陸に上がるわけではありません。ちょっぴりいけないことを企む子供のような気持ちで、わたしは裸足のまま家を飛び出しました。
特徴的なシオナミの外観をお散歩しながら眺めるのが、わたしの日課です。
この街には雨という概念がありません。
海中にひっそりとまとまった、わたしたちの生まれ故郷。
そう多くの人々が暮らしているというわけではありませんが、だからこそ、街の人たちは仲がとてもよいのでした。古くから家族のようなコミュニティとして維持されてきただけあって、「持ちつ持たれつ」精神が徹底しているのです。
わたしはストリートの中途でひょっこり立ち止まり、大きく空を仰いでみました。
シオナミが誇る美しい景観は、青空をそのまま海に溶かし込んだような世界だ、とよく形容されることがあります。陸上で夜空をうっとり眺めるのともまた違った、爽やかでみずみずしい色合いがいつでもわたしを包んでくれるのです。
街といっても元はただの大陸棚の一部に過ぎませんから、いたるところにその名残が見て取れました。ブロック塀のすきまから鮮やかな熱帯魚が顔を出したかと思えば、頭上には灰銀色の魚群が舞い踊っていたり。あるいは、街路樹の代わりに海草がたゆたっていたり。
母の話によれば、三代前からこのシオナミの街は既にあったとのこと。海妖さんたちの全面協力を経て作られた、人工の海中都市だと聞いています。
もともとは海妖さんたちと接する機会の多い調停官とその家族のために作られた街だそうですが、今となっては一般のマーメイルも多く居住を構えているのです。
シオナミは居住を可能にするために様々なギミックが街全体に施されていて、その代表的なものが、シオナミを包む形状記憶型の「ふぃるむ」(※注:海妖さんらにより命名)。詳しい原理はわたしたちも知り得ませんが、「ふぃるむ」に内包された領域は陸上と同等の居心地が保たれています。いつも周囲を見渡せるぐらい明るいですし、寝転んだりジャンプしたりすることもできます。水の中だというのに、とても快適なものです。
そしてその「ふぃるむ」を内部から通り抜けますと、正真正銘、海の世界が眼前を埋め尽くすのです。
海というのは本当に暗いものであります。
暗澹とした青黒い色に囲まれてしまえば、自分がいったいどれくらいの地点まで視認できているのかさえ判別しかねます。困ったものです。
その場に留まりながら、はて、と首をかしげました。
海は目印がありません。長年の感覚で方角ぐらいは見当が付きますが、海妖さんたちのすみかに向かうときなんて、ほとんど勘だけが頼りなのです。
わたしたちとて延々と泳げるはずはありません。一度迷えば即座に引き返す判断力も求められます。過去の調停官で闇雲に前進したばかりに、ついにシオナミに帰り着くことのできなかった者もいると聞いています。
極端に悪い視界の中、ほとんど手探り状態で海底の深みへと、身を沈めていきました。
どれくらい泳いだでしょうか。
サンゴの死骸やら、やたらとごつごつした岩肌がむき出しになった場所を一通り眺めてから、わたしはふぅと短いため息をつきました。
調停官といえども、海妖さんとの遭遇率はそれほど高くありません。そもそも彼らは、数世紀前までの高度に発達した科学技術をもってしても発見されなかったのです。
いえ……もしかすると、海妖さんたちは意図的に、調停官の前に現れてくれているのかもしれませんが……。
「あっ、ちょーていかん、きたです」
「ふぇあっ⁉」
はしたない声を出してしまいました。慌てて口元を押さえます。
目を落としますと、鮮やかな黄色い帽子をかぶった海妖さんの姿がありました。びっくり仰天、驚き桃の木さんしょの木です。
「きょうはなにようで?」
「かんし?」
「うまいみやげあるです?」
ぞろぞろと足元に、海妖さんたちの群れが形成されていきます。その数は十、二十……正確には分かりませんが、そこそこの個体が確認できます。
「お、お土産を持ってきた方がよかったですか?」
「むろん」
「しかしわれらとてもてなしはないです」
「おあいこですな」
「うむ」
どうにかお咎めなしのようです。よそにお邪魔するときは、つまらないものでも持ってくるに越したことはないということですね。
「あの、ちょっとみなさんに聞きたいことがありましてですね」
「なんですかー」
「れんあいばなし?」
「おとめのこころをさぐるです」
「そんなんじゃありませんって」
ちょっとお年頃の男の子みたいな感じでしょうか。わたしは半ば無意識に、スカートがたくしあがらないようにしっかりと押さえつつ、海妖さんたちのそばでしゃがみました。
「わたしはですね、マーメイルのルーツを知りたいのです」
長年の謎と言われているのが、わたしたちの成り立ちでした
外見は普通の人間ですが、後頭部をさらに下った場所、首筋に沿うようにしてエラがあります。わたしたちマーメイルの最大の特徴といえるでしょう。
どう考えても遺伝子レベルで確変が起こったとしか考えられないマーメイルの人体構造ですが、どのようにして旧人類と分化したのか、いやそもそも人類の進化に相当するのか、極端な例になると、マーメイルは人間に扮した宇宙人だと主張した方もいたようです。
「わたしたちのご先祖様は、どうして生まれたのでしょうか」
「それをなぜわれわれにきくです?」
「あなたたちなら、知っていると思うからです」
どうして、エラを持った人間が突如として現れたのか。
進化とは、適応の行き着く先にある変化です。無意味に起こるものであるはずがなく、それは逆説的にわたしたちの存在に何らかの意義があることの証左になっているのです。
「マーメイルが誕生した当初は、酷い差別もあったと聞いています。エラは外見でも醜さの象徴になっていたと。それでマーメイルは、男女関わりなく髪を伸ばして、恥部としてエラを隠していた、と」
海中でも生存できる能力を得た代わり、マーメイルたちは人類としての位置を失った過去がある――このような話を、幼いころから耳にたこができるほど聞かされたものです。
「こんなことなら、エラなどいらない。エラを得た先祖が憎い。そういったことを絶えず漏らしていた方々も、いたそうです」
「そのようですな」
「わたしたちは、そういう風に、蔑視されるために生まれたのでしょうか」
「そうおもうです?」
海妖さんの可愛らしい、甲高い声が、わたしの心をさらりと撫でました。
ひやりと冷たい氷片が地肌に触れたような、おぞけだつような感覚。
「――いえ」
「このせかいのしんらばんしょうは、すべていみありありです」
「どうい」
「人間が海底で生活できるようになる意味も、ですか?」
「とーぜん」
「ありありですよー」
「陸上の生物なのに、ですか?」
海の生活を手に入れるメリットが、人類のどこにあるというのでしょう。そもそも陸上生物である人と海は相容れないものだという事実こそが、自然が定めた摂理のはずでした。
「よくかんがえてみるです」
「考える……?」
それで分からないから聞きにきたのですが、そう答えるのも野暮ったいでしょうか。
「ちょーてーかんは、だれがなるですか?」
「それは、マーメイルですね。あなたたちと接触できる唯一の人種ですし」
「ちょーてーかんはなにするですか?」
「あなたたちと、陸の人間の間を取り持つ役……ですか」
「それだけではふじゅうぶん?」
「……え?」
とある海妖さんの返答を理解するのに、しばらくの間を要しました。
「そういうやくまわりをおまかせするために、われわれがつくったですよ」
唖然としました。
いえ、それは考えうる限りで最も現実的な答えに過ぎなかったはずですが。
どうしてマーメイルだけが、人類の中で唯一、海妖さんたちとのあいだに、関わりを持てたのか。考えてみれば単純なことでした。
「作られた、ということですか。あなたたちの都合で、あなたたちの手で」
つまりマーメイルは、本質的には人類ですらなかった、ということになります。
さすがのわたしも、そこそこショックを受けました。人間の姿かたちをしている、まったくの新種という扱いになるのでしょうか。宇宙人の方がまだ受け入れられる気がします。
あれこれ思考を巡らせていましたが、ふとわたしを見上げる海妖さんたちの顔が視界に映り、我に返ってこう言いました。
「あなたたちは人類を完全に見捨てたわけではなかったのですね」
「はいです」
「じんるいはほろぼすにはおしすぎたです」
「われわれのさいこうけっさくですし」
「しかしじんるいは、うつくしいちきゅうにはそぐわないそんざいへとなりさがった」
惑星で飛び抜けた知性と力を手にした人類は、自然とはかけ離れたものを大量に生み出していきました。他の生物と比べても、あきらかに異質な存在であったわけです。
海妖さんたちも、しばらくは様子見を続けていたのでしょう。
ですが人類は、とうとう海妖さんたちの許容範囲をはるかに超えた悪行を始めるようになりました。環境汚染はもちろん、果てには人類同士の凄惨な殺し合いまで。
「ゆえに、われわれは」
「じんるいをただしきみちへとみちびくひつようがあったです」
結果的に生じたのが、数世紀前――核戦争をきっかけにした、驚異的な人類大衰退。
「このよのすべては、われわれがうみだし」
「われわれがかんししてるです」
「われわれはじんるいのあれこれがみれます」
「でもじんるいは、われわれのことしらぬです」
「そんざいをかれらにしらしめるのは、じんるいぼうそうのよくしりょくになるです」
彼らの言い分はもっともでした。
海妖という存在が知られてから、ただの一度も大規模な環境汚染が引き起こされた試しはありません。人間たちは「二度と海妖たちを怒らせない」ための努力を、ここ数世紀のあいだに積み重ねてきたのです。
では、海底にいる海妖さんたちを、陸の人間たちはどのようにして知ったのでしょうか。
「はるかむかし、ひとりのまーめいるに、ほんとうのれきしをおしえたです」
「われわれのそんざいとちからをしめすべく、よげんをしてりくにかえした」
「予言、ですか?」
「みっかみばんのおおあめ、あるちぺらにふらせると」
ようやく合点がいきました。
陸の人間たちに自分たちの存在を知らせ、かつその力を示すために――海妖さんたちはマーメイルの一人に、天変を予言させたのですね。
「それからじんるいは、わーるど・しびりぜーしょん・こみってぃーに、われわれのかんしいいんかいをつくったです」
「ちょーてーかんができたの、そのころです」
WCCに、海妖監視委員会が。そしてそのとき、調停官という役職が。
海妖さんたちが語る、これまで知り得なかった本当の歴史を、わたしは神妙な心持ちで傾聴しました。
「ちょーてーかんができたことで、まーめいるのたちば、かわりました」
「ですな」
「うむ」
ばらばらだったはずのなにかが、今にも一つに繋がっていくような、不思議な感覚。
「……そう、だったんですね」
調停官という役職の、本当の意義まで教えてもらえるとは。
「あなたたちと人類を繋ぐ『調停官』という仕事……マーメイルたちがそれに就くことで、わたしたちはしだいに、陸の人間たちから畏敬されるように……?」
それはわたしも、陸の生活でしばしば実感したことでもあったのです。
周囲がわたしを見る目は、好奇に近しいながらも決して侮蔑的な意味合いが込められているものではありませんでした。
「おさっしのとおり」
「じじつ、ちょーてーかんはとくべつしされてるですね」
日常生活の自分を思い返してみました。
「確かに、わたしたちマーメイルは周囲の視線が少し違う気がします」
「だがそれは、たんにえらがあるからではなく」
「じんるいのためにはたらき」
「われわれというきょういのよくしりょくとなるそんざいゆえ」
「じんるいは、まーめいるをそんけいしているです」
帳尻合わせ、ということではないのかもしれませんが。
結果としてわたしたちマーメイルは、差別の対象からある種尊敬の対象へとなりかわったのでした。おそらくはそれすら海妖さんたちのシナリオに沿ったものだったのでしょう。
「そういった経緯のすえに今あるのが、わたしたちなのですね」
なんとも奇妙な話です。
事実を突き詰めていくたびに、人類がいかに未熟でちっぽけな存在なのかが嫌でも分かります。彼らが口をそろえて純然たる自立性を主張するであろう人類史さえ、本当は海妖さんたちに操られている程度のものなのです。
「ほかにききたいこと、あるです?」
大きなお星さまのバッジをつけた海妖さんが、優しくわたしに問いかけました。
きっと彼は、ここの群れのリーダーなのでしょう。ひときわ放つオーラがすごいです。
わたしはしばし考えて、
「これからも人類を、よろしくお願いいたします」
「おまかせあれ」
人類代表として、深々と頭を下げたのでした。
*
部長さんに提出する海妖さんたちの論文については、既成のもの(つまり、人類側が検証したり観測したりした、実質的に取るに足らないデータ)のみを用いて制作しています。
今回の海妖監視でわたしが耳にしたことは、今後しばらくは心のうちでとどめておくことにしたのです。当然シノにも秘密ですが、どうやら既に隠しごとがあるとバレかけているようでした。
論文の編集作業も熱が入らないからか、シノは疑り深くわたしを質問攻めにします。
内容こそ、カレシができたのかとか、ファーストキスが云々とか、ですが。
「ねぇーってばー。誰なのさ一体。隣のクラスのウスキくんとか? それともあれか、一般部生のハチノキくんとか」
「だから違いますって。はやくデータの図表化進めてください」
「ウチを出し抜いて青春とかずるい! ずるいずるいっ!」
もー。
挙げ句には居間のソファーにゴロンと横になり、わーわーとわめきながら手足をジタバタと動かし始めました。
お菓子をせがむ子供のようにだだをこねまくるシノを横目に、わたしは慣れない言葉を駆使しながら、手元の文書作成を進めていきます。
今でこそ、わたしはこの作業が何の意味もなさないことを知っています。
けれど、海妖さんたちが望む理想の生命体へと、わたしたち人類が到達するまでは――この作業は少しも無駄ではありえないことも、知っていました。
同時に、海妖さんたちを監視・研究する調停官、あるいはマーメイルにとっても――現在の特異的な位置づけを後世にわたって守り抜くために、「海妖監視」という現人類に課された使命を欠かすことはできないのです。
……まったく。
感嘆を通り越し、もはや呆れるぐらいの器量とでも言いましょうか。
デスクからうかがえる、小窓越しのエメラルドグリーンを眺めながら、わたしは苦笑して――
「もーっ、何ニヤついてんのさ! そんなに男にゾッコンですか、そーですか!」
しまった。見られてました。
「え、いや、だから違うって言ってるじゃないですかっ!」
本当に違うのですが、いや、さっきのは迂闊でした。
「知ってるもん! 初恋の女の子ってみんなそーだもんね⁉ 『ち、違います~』って何が違うんじゃい! 言ってみんかコラァ!」
完全に人が変わってしまっています。暴徒化したシノは、ガンジー主義のわたしには止められそうにもありません。
「分かりましたよっ。言います、言いますからっ!」
シノを落ち着かせるのに精いっぱいで、わたしはついついこんなことを口走ってしまったのでした。
「っ――……ふ、ふふふ。じ、じゃあ聞かせてもらおうじゃないですか」
獲物を追いつめた猛獣のようなシノの眼光が光ります。
どうしましょう。明瞭かつシノが納得できる内容を用意しているはずもありません。
「えっと、その……」
「腹を割って話せ」
そんな怖い顔をした人に腹なんか割れませんよ。
「いえ、その、簡潔明快に言えばですが……この世界は素晴らしいなーと思いまして」
「ふぇ?」
またたきほどのうちに、般若みたいだったシノの顔が、間の抜けた表情へと変わっていきます。
「ちょっと悟ったんですよ。この世のからくりの魅力に気付いたといいますか」
「……」
「この世って、よくよく考えてみれば完成された機構だと思うんです。一見無益に見えるものや行為でさえも、世界という秩序の歯車的役割を担っているわけでして」
とんでもないことを口にしている自覚がありながらも、わたしは必死にアドリブでそれっぽい台詞を並べたてたのです。
シノは深くうつむきながら、必死に論を展開するわたしの肩に手を乗せました。その手はふるふると、小刻みに震えています。
「あ、あの……」
ふっと顔を上げたシノの瞳には、なぜかうっすらと涙さえ浮かんでいて。
「――いつの間に宗教脳になってたのさ?」
このあと誤解を解くのに数日を要し、二人そろってめでたく論文提出不履行を達成したのは、またのちのお話です。
*
ふかふかの毛布に潜り込んだら、いざ睡眠といきたいところ。ですがあいにく、わたしはすぐに眠れない性分です。
眠りに落ちるまでのあいだ、わたしはいつもちょっとした考えごとをするのが常でした。
思い返すは、小さい頃のわたし。
いつもシオナミの空を仰いで、幼心ながらこんなことを考えていました。
「どうして、世界はこんなにうまくできているのだろう」。
地球の生物は、そのどれもが個々の意思を持っています、あるいは意思とまでは言わずとも、種を残すという最低限の目的、役割を担っているはずです。
人類をはじめとして、おのおの自分勝手に生きているような節はありますが、それでも一定の秩序のもと――それぞれの認識外であるとはいえ――助け合いながら共存しているのもまた事実です。
全ての生物が思うままに過ごしたとしたら、世界はどうなるでしょうか。みんな自己中心的に生きていくわけですから、世界はすぐにばらばらになってしまいそうな気もします。
けれど、案外そうなることはありません。
朝起きて学校に通い、家に帰れば日が暮れて。
そうして眠る前に、「今日もうまくいったなぁ」と首をかしげるのです。
それだけ当時のわたしには、不思議で不思議でたまりませんでした。
初等部六年生のときひそかに立てた「世界をあやつるなにがし」仮説の真実性が増したのは、十四歳で調停官に就任したころでした。
海妖さんたちが引き起こしたという人類大衰退の歴史を知ったわたしは、「世界をあやつるなにがし」の正体が彼らであると推測しました。はがゆいことに興味のあることだけには熱心になれるわたしです、真相をぜひ海妖さんたちから聞き出したいと考えました。
本当はいけないことですが、わたしは任務外でもしばしば海妖さんを探し求めて、海の世界を泳いで回っていた記憶があります。そういった背景もあって、わたしは調停官として記録されているよりはるかに多い回数、海妖さんたちとの遭遇を果たしたのです。
自分で言うのも何ですが、わたしは歴代調停官のなかでもとびきりに、海妖さんたちとなかよしです。お互いに信頼し合った関係です。そうでなければ、彼らもあんな風にぺらぺらとおしゃべりなんてしないはずでした。あんなに可愛らしいフォルムのくせに、人類よりもよっぽど知性が高いのですから。
ふわりと夢の世界のいざないが訪れて、わたしは大きなあくびをこぼしました。
とろんとした視界に、向かいのベッドで寝息を立てるシノの姿が映りました。そういえば彼女、噂によるとお隣のウスキなんとかくんから告白されたらしいです。ついにバラ色の青春時代が到来したわけですか。そーですかそーですか。
はてさて、わたしの前にも素敵な男性は現れるのでしょうか。
きっととうぶん先の話でしょうが、それまでは……まあ、海妖さんたち一匹一匹、わたしの想い人ということにしておきましょう。
――さあ、今日の考えごとタイムもここまでとしまして。
ひと呼吸ついてから、静かにまぶたを閉じました。
それからゆっくりと、わたしはまどろみの世界へと溶け込んでいったのです。
〈了〉
※本作品は、田中ロミオ氏著作「人類は衰退しました」のオマージュとして創作されたものであることを、ここに示しておく。