鼎 1/3
屋根裏
「そう、そうやって、しっかりと握るんだ。力いっぱいに」
目の前にいる、キャラクターが描かれている小奇麗なパジャマを着た、まだ幼稚園も出ていないような男の子の小さい手に鋸を握らせて、椅子に縛った、彼とおそろいのパジャマを着た母親の方へと振り返る。大きなベッドのある寝室には縛られた彼女と、鋸を握らされた彼と、金槌を手に携える僕だけしかいない。声を上げることもできない彼女はがたがたと体を揺すり一生懸命にそれから逃れようとしている。肩ほどまでの髪はぼさぼさになって、粗末なビニールの荷作り紐で縛りつけられている手は鬱血して赤くなっている。その様はとても無力で、とても無様なようだったので、殺人鬼である僕は薄く笑ってみせる。背中の皮の一枚下で蠕虫が這い廻るような感覚がして、足元の床が消えてしまったようにふわふわと定まらない。手に持つ金槌を母親の前でこれ見よがしにぶらぶらと揺すってみせる。残酷な行為をする僕に彼女の顔からは血の気が引いていった。だけど、背中を這い廻る蠕虫はいなくならなくて、まだ浮いているようだった。子供に向き直り、その小さい背を優しく押した。子供はこれからのことなど分からないだろうに、何かを感じ取っているのか憐れにも泣きそうな顔をしていた。動悸が激しくなっていった。母親は恐怖にひきつった顔をこちらに向けている。彼らの苦悶のすべては僕がやったことの所為だった。せっかくの可愛らしいお揃いのパジャマも、せっかくの綺麗なシーツも、せっかくのアンティークの椅子も普段なら幸福だけを伝えるすべてのものは今や何ものにもならなかった。
男の子は鋸の重さに引っ張られてしまってよたよたと足元が定まっていない。僕は彼の手に震えを隠した自分の右手を重ねて、そっと母親の首に当てる。その小さな両手は片手の僕に簡単に覆われてしまう。猿轡の奥から母親の荒い呼吸が聞こえる。それなのに彼女は今までのように体を揺すったりはしないで、子供のことを慈しんでいる。極力怯えを隠して、優しい瞳を彼に向けて。体の奥底から赤く燃える黒い何かが昇ってくる。それは脳髄を犯していった。時間も空間も目の前の一点に集約されていった。手の力が強くなる。力強く前後に動かす。それはもうお構いなしで、僅かながらの抵抗も虚しく呑み込んでいく。
鋸の歯に引っ張られた皮膚は歪んで、耐え切れなくなって、ほんの少し削れた。それの奥から赤い血が玉のようになって現れると、自らの重さに耐えかね、その姿を維持することができずに垂れていく。母親は子供から視線を外すと哀願するように僕を見た。縛られて無力な母親の瞳の中にいたのはただの少年だった。けれど、いまさら手を止めることはできない。
壁が見える。真っ白な壁。それにベッド。可愛らしいキャラクターのお揃いのパジャマ。子供は青色で、母親はピンク色の。綺麗なシーツ、真っ白で染み一つとしてない。味わいのあるアンティークの椅子。
背中にまた蠕虫が這い廻り始める。だけど、上から握る手の力を強める。手を引っ込めようと体全部の力を出すけれど、もうどうすることもできない。彼の手を握ったままゆっくりとゆっくりと動かす。鋸の銀の刃を赤い血がツーっと滑ってきた。それは母親の着ているパジャマにも垂れて、汚していく。心臓が大きく脈打って、呼吸すらうまくできなくする。蠕虫が暴れている。息が白むほどに寒いのに額からは粘つく汗が噴き出してくる。彼女は怯えた瞳にはただの僕が映っている。背中を這う蠕虫の数が多くなって、顔が歪んでいるのがわかった。
すると、子供が泣き始めた。初めはしゃくりあげるように、そして、そのまま火をつけた様に、すさまじい勢いで泣き叫び続ける。僕は急いで彼の手を放してその口を塞いだ。ガランと鋸が落ちてしまう。彼の幼げな顔に赤い汚れが広がっていく。瞳には怯えだけが浮かぶ。母親は猿轡をされた口から怒気をはらむくぐもった叫び声をあげている。僕は彼女から顔を逸らして、押さえつけた彼の体を自らで隠し、子供の口を塞いでいる手の力をより一層強くする。それなのに泣き止んではくれない。涙が赤い汚れと混じって僕の手を熱くする。がたがたがたがた後ろの椅子を揺する音がひどくなって、目の前の子供の顔は赤く汚れて、そのくせ肌は白くなって、涙は熱くて。何が何だかわからない。こんなはずじゃないのに。力強く押さえつけたせいかいつの間にか子供はぐったりしていた。こんなはずじゃなかった。頭が散り散りに引っ張られている様で、やっぱりぐったりしていて、もうどうしようもなくて、金槌を拾い上げると彼の頭を思いきり叩いた。
ぱきりっと、乾いた音がして、彼の頭がぽこりとへこんだ。耳から薄赤い泡が溢れてくる。後ろでは母親のくぐもった悲鳴。がたがたがたがたと音も止まない。僕は決して彼女からは見えないように、巧妙に体で隠して、何度も何度も力いっぱいに金槌を振り下ろした。支えを失って、柔らかなそのものだけとなった皮膚が伸び切り裂けていく。納められていたものがその姿を露にする。愛らしい顔を形作る頭蓋の白に覆われていたものは恐ろしいまでに肉だった。ただただ味気なく、虚しくなるほど肉だった。それ以外には何もなかった。喉の奥には血の匂いが充満し、金槌にへばりついた彼だったはずのただの赤い肉の破片が辺りに飛んでいく。白い壁にも、僕の顔にも。きっと母親にも。へこんだ頭に引っ張られたせいか、耳の形がとても歪だった。眼窩と瞳のほんの少しの隙間からも血が溢れて垂れている。床に敷いてある絨毯に染みがどんどん広がっていく。きっともう取れない。台無しになってしまった。がたがたという音がしなくなった。悲鳴はもう嗚咽に変わってしまった。もう何も戻らない。
息も上がっていて、嗚咽もずっと聞こえてくるのに、なんだか全てがゆっくりだった。金槌を持つ手は自分のものではないようで、飛び散る頭だったただの肉片も、もう善いものも悪いものも、美しいものも醜いものも何も映すことのなくなった大きな瞳も、広がっていくもう取れないであろう染みも、立ち上る赤い血の匂いのする白い湯気も全部ゆっくりだったのに、僕は今ここで起こっていること全てに何もできないで、ずっとそれを眺めている。僕のであってもう僕のではなくなってしまった腕は止まらない。金槌にこびりついた皮膚だったか脳髄だったか、どこの部分だったかもう混じりあって分からなくなってしまった肉が舞い上がって口の中に入ってきても機械の様に振り下ろし続ける。しばらくすると、叩きつける金槌の感触が変わって、そのすっかり意味を持たない肉になってしまった皮の先に、真っ赤に染まった絨毯が見えた。頭の中に詰まっていたものがどろどろと液状になって床に溢れていた。細かくなった白く硬いものも散乱している。もう何も元には戻らない。腕が痺れて、金槌も重くなって、どちらのせいなのだろうか、勢いを支えきれずに体が振り回されて、倒れてしまう。倒れた先の肉が体に引っ付く。肺が焼き付くようで、呼気とともにはいる血の匂いは何度もむなしく肺の中を往復する。何度も何度も深呼吸をしてから後ろを振り返る。すさまじい形相の母親もいつの間に倒れていたのか、椅子に縛り付けられたまま床に横たわって、まだ体をがたがたと震わせている。でも、アンティークの椅子はさすがに頑丈で歪みもしていない。血走る瞳には僕の顔が映っている。ふと気が付いて顔をぬぐうと、きっと初めの方に着いたのだろうまだ形のしっかりとした毛がついたままの肉がずるりと落ちていった。母親は崩れてしまって、肉でしかなかった子供に対してだろう、涙を零す。床に落ちていた鋸を手に取る。どろどろに混ざりあって、元が何だったのかわからない肉でべたべたとぬるつくそれを母親の首筋にあてると、ゆっくりと前後に動かしていく。母親はまばたきをすることもなく、顔にかかった子供だった肉を拭うことも出来ずにずっと涙を流している。手が痺れて、そのせいで何度も握りなおして、時には服で肉をぬぐったりした。息は深く、ゆっくりになっていく。母親はもう肉にすぎなかった子供を思うことも、哀しむことも、それから憎むことも、何もかもに倦んでしまったのだろう、うなだれたまま動かない。鼓動が落ち着いていくのにしたがって、体の先まで温かいものが流れていくのがわかる。一度息を大きく吸うと、ぐっともう一度手に力を入れて、前後に何度も動かして肉を削っていく。やっぱりもう動かない。ただ涙だけが堪え切れずに落ちていって、肉と混じるだけだった。少しすると途中でいきなり血がまき散らされた。それは部屋に飛び散った彼だったただの肉と、延々と流し続けていた涙と混じる。それでも手を止めなかった。母親の瞳から涙が零れることはなくなった。なんだかすべてがとても重くなってしまって、肉で汚れた床にどっかりと腰を落とした。真っ赤になったまま白く濁った瞳をこちらに向けている、だらりと力なく垂れ下がった母親の頭をぼんやりと眺める。まだまだかかりそうだった。それはもう肉だった。彼と同じでただの肉に過ぎなかった。全部が何でもなくなってしまっていた。僕は重たい体で立ち上がると、なおさらに力を込めて鋸を前後に動かし続けた。手ごたえが変わって、うまく動かせなくなっても続けた。ぬぐったはずの手がまたぬるぬるとして、ざりざりという音がして、視界が赤かった。そこを過ぎて、だらりとした頭を何度か整えて、それをすっかり体から離した。僕はそれを拾い上げると、ただの肉となった子供の横に、向かい合わせにおいてあげて、その家から出て行った。外はべたべたで赤くなった僕とは違って、張り詰めるほどに澄み切っていた。吐き出す白い息も、体から立ち上る匂いも、情けなくなるほどあっさりと掻き消えてしまった。
ばしゃばしゃと赤く染まった水が白いタイルの上をするすると流れて排水溝へと吸い込まれていく。湯は冷え切った体をゆっくりと温めていって、じんわりと手足に感覚が戻ってくる。震える手を押さえつけて、何度も体をこすった。
風呂場から出て、誰もいないのを確認すると、真っ暗な階段を、足音を忍ばせて上がっていく。そして、また音のしないように気を付けて扉を開けて、屋根裏の自室に入る。ぱちりと電気をつける。ベッドとその真上に天井の屋根の形の通りに傾斜している天窓。机と、その隣に、幼いころに日曜大工で作った本棚。それに床にじかに置いたテレビ、それから服の散乱したクローゼット。そんな屋根裏部屋が僕の部屋だ。僕は布にくるんだ金槌と鋸、それからビニール袋に入れた、後で燃やしてしまうつもりの血と肉のついた服をクローゼットの散乱した服の奥のほうに追いやると、ほっと一息ついて、ごそごそとベッドにもぐりこむ。そして、そのままぼんやりと斜めになった天井に沿った窓を眺めた。
まんじりともせずにベッドの真上にある天窓を見詰めていると、そこから鮮烈な朝日が差し込んでくる。それを一身に浴びるとなんだかとても暖かかった。伸び切った時間に圧迫されるようにぐったりとした手足は重くなる。瞼も同じに重くて、ただそれだけになって、鼻の奥からも血の匂いが消えてきて、今日の出来事はどこか遠い昔のことの様だった。それなのに物音が階下からしてくる。どうやら両親が目覚めたようだった。僕は急いで天窓にカーテンを下ろすと、布団をひっかぶって硬く目を閉じた。ベッドに横たわっていると、物音とともに、朝の挨拶をする微かな声が聞こえてくる。早く眠ってしまいたかった。
天窓からまっすぐに太陽の光が降りている。焼けそうなほど熱いそれから逃げて、直に床に腰を下ろし、ベッドから少し離れたつけっぱなしのテレビをぼんやりと眺めていた。それからは歌が聞こえてくる。僕と同じ年頃の、十代半ばの少女たちが踊っている。夢と恋を歌う彼女たちは、そうすることを強要されたにこやかさと無暗に溌溂とした声を以て、とても魅力的だという印象を押し付ける。だから、彼女たちを見ている人々は熱狂の幸福の中で称賛を浴びせる。
「はいっ。私たちはファンの皆さんの笑顔の為にこれからも頑張っていきたいです」
踊ったばかりのせいで、うっすらとかいた汗に照明が反射してきらきらと肌が輝いているようで、少し上がった呼吸は言葉を途切れ途切れにする。パチパチと見えないところから拍手が聞こえてきた。なんだか気持ち悪くなってしまって、しょうがないから僕はチャンネルを変える。でも、変えた先にも笑顔の女性リポーターがいて、学生服を着た青年に何かインタビューをしていた。
「はいっ。自分の夢を叶えるためにも、これからも頑張っていきたいと思います」
彼の確固とした自信を含んだ恥じらいも、自分が認められたことの嬉しさを抑えきれない謙遜も、なんだかまた気持ちが悪くて。ぱちぱちとチャンネルを変えていく。そのうちにワイドショーにぶつかった。この町で起きている事件をおどろおどろしく、それでいて、面白おかしく放送していた。僕のことだ。さっきまでの気持ち悪さが嘘みたいに消えて、わくわくと楽しくなって、ずっとそれに見入っていた。
「ーでは、犯人は同じ町内の人間だということでしょうか?」
ぴっちりとスーツを身につけて、こざっぱりとした男性が、よれよれの格好をしてぼさぼさ頭の男に取り繕ったように真剣な面持ちで尋ねる。
「はい。そうです。最初の一件と、今回の犯行が同じ町内で起こっていることからもそれは確かではないかと・・・」
「それはどういったことでしょうか。犯人がこの町にゆかりのない人物であるということもあり得るのではないでしょうか?」
ぴっちりとしたスーツの男は視聴者を気遣ってのことだろう、自分では何とも思ってもいないだろうに職務を全うしようと質問する。
「いいえ、それはあり得ません。なぜなら、警察の捜査では不審な車両などは犯行現場近くでの目撃情報はなかったということですから。もし、犯人がこの町の人間ではないということになると、徒歩での移動ということになりますから、さすがに人目につくかと思われます」
「なるほど、そういうことですか。ですが、それだけでは犯人がこの町の人間であると断言できるとは思わないのですが・・・」
「ええ、ですが、犯行現場の状況から、この犯人は非常に強い怒りに支配されているとみられます。それに返り血を浴びているであろうはずなのにそれを始末した形跡がないものですから。その点を鑑みても・・・。何か合羽のようなものを用いたとも考えられますが、家の至る所に血痕を残していますし、それは玄関どころか、外にまで続いていますから・・・」
「なるほど、そうですか。では、動機はどうお考えでしょうか」
スーツの男はとても驚いた風な顔を見せてから、またまじめ腐って尋ねる。好奇心に自らの人生を賭して懸命に奉仕している彼は、今きっと、夕飯を何にしようかなどと考えているのだろう。それとは反対に、ぼさぼさ頭の男は何気なしにされた、会話を流し淀みなくするためだけの些細な質問に真剣に考え込んでいる。嫌な間が開いてしまったのをスーツの男が埋めようとしたときに、ぼさぼさ髪の男は口を開いた。
「いや、ちょっと断定はできません・・・」
「そうですか。では、次のー」
「ただ・・・」
スーツの男の進行を妨げて、またぼさぼさ頭の男が口を開く。カメラも男の号令で段取り通りに動いていた為に、違う場所を映そうとしていたのを慌てて戻した。最も崇高な仕事を邪魔されているスーツの男はじれったそうにしている。
「ただ、犯人の家庭環境には確かに問題があるかと・・・」
ぼさぼさ頭の男は拍子抜けのことを言ってまた真剣に考え込む。スーツの男はもっとも崇高な仕事を邪魔した結果のあまりにくだらない彼の発言に呆気に取られてしまっているようだった。
「ハイッ、皆さんこんにちは。芸能のコーナーです」
画面がパッと切り替わって、女のアナウンサーが胡散臭い朗らかな声を出している。彼女の後ろには、派手な、それでいてけばけばしくならないように少し色味を抑えたパネルがあった。それは無意味に所どころ隠されていて、好奇心をそそるように懸命な工夫が施されている。それに僕はもう嫌になってしまって、またチャンネルを回して、自分のことを探したが、僕は画面の中のどこにも見当たらなかった。だからテレビを消して、ベッドに横たわる。家はしんとして、町から聞こえてくる喧騒はとても遠くのことの様だった。窓から差し込む強烈な太陽の光だけが熱かったのに、僕は病人みたいにずっとベッドから起き上がることができない。強烈な光に眩惑されて、ぐわりぐわりと揺れる視界が吐き気を誘う。まだ、町の音は遠くにあって、四肢がぐったりと重くなって、泥のように定まらない体ではもう起き上がることなんてできなくて。僕は夢なんて見ないようにと祈って、ゆっくりと眠りに落ちていった。
目が覚めると辺りはもう暗くなっていた。闇の中でも物の輪郭がぼんやりと黒い。僕はまどろみに任せてベッドに横たわったまま目を天窓に向けて何もしないでいた。階下からぼそぼそと声が聞こえる。もう父も母も帰ってきていたようだった。
「・・・だから、男親のあなたがそんなだからあの子だってあんな風になっちゃったんでしょ・・・。大体・・・」
途切れ途切れではっきりとは聞こえてこない話声のほとんどは母親のものだ。彼女はその得意の金切り声で、今も父親のことを激しくなじっているのだろう。父親も父親で、その背を丸くして、黙って聞いているのだろう。
僕は固く目をつぶったけれども、頭は冴えるばかりで、階下の声がより大きくなるだけだった。
「はぁ、こんなことになるのならあなたみたいな人と結婚なんてするんじゃなかった。父も、それに母だって反対していたのに・・・」
それでも父の声は聞こえない。母親はまだしゃべり続ける。
「大体あなたは昔からそうよね。母に反対された時も黙って。それで済むと思っているのでしょうね。何一つ決断もしないで。そういうところがあの子にも・・・」
ぐっと瞼に力を籠める。それでも何にもならなくて、どうしようもなくて、ゆっくりと目を開けて、窓の外の遠い空に目を向けた。夜空は静かで、さやかな月が雲の後ろから姿を現すと僕を白い光で照らし出す。どんどん目が慣れてきて、どうしても体の感覚がはっきりして、暗い中に混じっていた影もくっきりと姿を現してしまう。クローゼットもはっきりと見えた。耳を両手でふさいでも、まだ階下からの声は聞こえてくる。
「あれだけ習い事もさせてあげたのに何にもならないし・・・。学校だって・・・。出来るはずなのに・・・。絶対にあの子はできるはずなのに・・・。なんでこんなことになったのかしら・・・。本当に母の言う通りになってしまって・・・」
母親は嘆いてばかりだった。最後まで父親の声は聞こえなかった。
人気の無い夜の町を進んでいく。手に携えた鋸と金槌は心地よく重い。青くて小さな自転車の置いてある、裕福そうな家の前で立ち止まる。月光はすとんと僕の真上から落ちている。奥まったところの台所に面しているのだろう窓に手を掛けると、馬鹿みたいにあっさりと開いてしまった。
猿轡をされ、後ろ手に縛られて寝室の床に転がされた父親が、血走った瞳で体をよじってこちらに向かおうとしている。その隣の、同じように縛り付けられた母親も懸命にくぐもった声を上げている。僕の目の前には小さな、とても小さな男の子。
「どうしてできない」
男の子は鋸を握ったまま首を横に振っている。後ろではずっとくぐもった声とずりずりと体を引きずる音がしている。それは徐々に大きくなっていく。
「どうしてできないんだ」
もう余裕のなくなっていた僕は情けなく大声を出して、顔を歪ませた彼の体を揺さぶる。すると、泣きだしてしまった。わんわんと声を上げる彼を宥めようとしても無駄で、後ろの声は大きくなって、ずりずりという音も大きくなって、吊るされた白い電灯はちかちかとしていて、背中の蠕虫が顔を擡げて。彼の手から鋸が落ちて、がらんと音が鳴って、もうどうしようもなくなって、何もわからなくなって。追い詰められた僕は振り上げた金槌を彼の頭に力いっぱい叩きつけてしまう。泣いていた男の子は衝撃でよろける。蠕虫はいよいよ背中の皮一枚下で暴れる。何もわからないようにふらふらと歩いていく。後ろからするずりずりと体を動かす音と、くぐもった叫び声が強くなる。僕はそれから逃れようと男の子を追ってもう一度その頭に金槌を叩きつける。彼は倒れて、その頭からは冗談みたいに血が噴き出す。それでも殺人鬼である僕は何度も、何度も振り下ろすしかなかった。顔の至る所から血が溢れていった。耳からも、鼻からも、目のほんの少しの隙間からも。腕が重たくなるころにはもう彼が詰まっていた頭は形を保っていなかった。中身はやっぱり肉だった。ただの肉だった。背中にいる蠕虫はその数を多くする。自分の荒い呼吸、すすり泣きの声、くぐもった怒号。わんわんと泣き叫ぶ甲高い声だけはもう聞こえなくなってしまった。
僕は振り返る。そして、男の子を叩いた金槌を振り上げて、同じように力いっぱい叩きつけた。その間中、父親はずっと僕を睨んでいた。母親はずっとすすり泣いていた。でも、腕が痛くなってもそれを止めることはできなかった。僕は自分がどんな顔をしていたのか知りたくもなかった。
赤い水が排水溝にするすると飲み込まれていった。何時もの様に音を立てないように階段を上がっていく。ビニール袋と金槌と鋸をクローゼットの奥に、だれ身も見つからないようにと慎重に隠した。窓の外では朝日が昇り始めている。僕はベッドに横になると、おそるおそる体から力を抜いていってそのまま眠りについた。
テレビをぼんやりと眺める。今日は土曜日だった様で、朝から週末の過ごし方はどうだとかいう話しかしていない。僕はチャンネルを次々と変えていく。たまに僕の事件のことをやっていたけど、もう慣れてしまっているのか、一言二言「怖いですね」「戸締りには十分気を付けてください」などと、科白のような感想を口から出すと、それはすぐに違う話題に移ってしまう。どのチャンネルでも、週末のレジャーだとか、景気がどうだとか、失業率が上がっただとか、物価がどうだとかそんな話題をそれぞれに明るい顔で、暗い顔で、苦い顔で、仮面を付け替えるようにして一応話しているという体を取っている。僕はテレビを消す。溜息を吐くとそれは白かった。もう一度布団に潜り込もうとすると、ぎしぎしと階段の軋む音がする。そして、一呼吸おいてから扉から声がした。
「幸一。ちょっといいか」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
しばらくの沈黙の後、ため息が聞こえて、またぎしぎしと階段の軋む音がする。僕は扉に鍵をかけてはいなかった。
目を刺すような電光の下で椅子に縛られた父親が体をよじっている。隣に同じように縛った母親の頭はあるべきところに無く、床に転がっていて、天井に向けられた白濁した瞳は瞬きすることはない。目の前の女の子は泣きじゃくっている。手は真っ赤だった。でも、僕がわざとらしく手に握った鋸をぶらぶらすると、必死になってそれを抑えた。僕の顔はきっと歪んでいる。頭はとても冷たくて、背中の蠕虫はいなくなってはくれない。
「もう一度、今度はお父さんを・・・」
僕は父親の目の前に立つ。筋肉を隆起させて彼は僕を睨む。そして、その後で、女の子に優しい視線を向ける。女の子も少し優しくなった。僕は薄く笑った。きっと、だいぶ様になっているだろう。そうして、僕は彼の腕に鋸を当てた。後ろで女の子の小さな悲鳴が聞こえる。僕は振り返る。くぐもっているのに怒りに満ちているのがわかる叫び声。でも、もう止めてはならない僕はそれを背にして女の子の方へと悠々と歩いていくと、彼女の小さい体を押さえつける。そして、その細い首に鋸を当てた。手が震えて、背中の蠕虫が暴れているけれども、そんなものはきっと嘘だった。だから、鋸を引いていく。耐えきれないほど伸び切った皮膚が削れて、赤い血が垂れていく。薄く、細長く延ばされた悲鳴が耳の奥まで揺り動かした。体をがくがくと揺すっている。蠕虫は内臓でも暴れているようで、喉の奥に酸っぱい味が広がっていった。でも、もう腕は止められなかった。まだまだ動かす。白い皮膚の下に赤い肉。それが押し引きする鋸の歯のほんの少しの隙間に、女の子だったはずなのに、それとは似ても似つかないただの肉となってこびりついている。赤い飛沫が飛び散っていく。後ろから椅子が壊れんばかりに軋む音が聞こえる。いつの間にか女の子は二つになっていた。
僕はまた父親の方へ向かう。彼は僕を怒りに満ちた目で睨む。そんな彼の膝に女の子頭を置いてあげる。彼は泣きだして、僕は満足したかった。でも、手は震えていて、背中では蠕虫が這い廻るばかりだった。もう耐えきれなくて、彼の首に鋸を当てる。また引く。父親はもう抵抗しない。飛沫が僕をより赤くする。そのうちに体から力が抜けて、ごとりと落ちた。僕はそれと床に転がったままの母親の頭と、女の子の頭三つを一緒に父親の膝の上におくと、見開いたままの目を閉じてあげた。そして、彼らを残して、そのまま家を出て行った。
赤い液体が排水溝に流れていく。じんわりと感覚が戻る。いつものように静かに階段を上がって、いつもの様に鋸と金槌、それから服をクローゼットの中に慎重に隠して、いつもの様に慎重に四肢から慎重に力を抜いて、夢を見ないようにと祈って眠りについた。
暗闇の中で目が覚める。少しまどろんでいると、階下から電話のコール音がした。僕は耳をそばだてる。
「もしもし・・・。ああ、お母さん。いいえ。ええ、ええ。・・・。そんなこと貴方には関係ないでしょ。・・・・・・。そんなの。それに、あの子はあの子なりに考えがあるの。貴方の考え方は古いのよ。・・・・・・。ええ、はいはい。それじゃあ」
母の声が止む。しばらくすると、階段を必要以上の力で踏みしめて昇ってくる音が聞こえる。僕は扉にいったん目を向けると鍵がかかっていることを確認して、もう一度目を閉じて布団にくるまった。
「ちょっと、幸一。いるんでしょ。何か言いなさい」
母は扉を力任せにノックする。その音はどうしても大きくて、せっかく塞いだ耳から入ってくる。
「幸一。いつまで籠っているつもりなの。貴方ね。私たちだっていつまでもいるわけじゃないのよ。それなのにこんなことしてたってしょうがないでしょう」
母の声は止まない。僕はよりいっそう身を丸める。変な風に力を入れて布団を引っ張ったためにできた隙間から冷たい風が入ってくる。
「おい、もういいじゃないか。もうやめなさい」
父の微かな非難が聞こえる。母はそれに激高したようだった。
「いいわけないでしょ。大体男親の貴方が確りしていないからこんなことになったんじゃないの。いつまでも先送りにして、あなたは一体どうしたいのよ」
「どうしたいって・・・。それは、幸一の一番になることをだな・・・」
「ほら、そんな風に無責任なことばかり言って。どうしようもないじゃないの。大体あなたは私の両親に挨拶に来たときだってずっと押し黙ったままでー」
「わかった、わかったから。なっ、とりあえず下に降りよう。そこで話をしよう」
「うるさいわね。あたしはもう寝るわ。貴方洗い物しといてよ。私は明日も仕事なんだから。いいわね」
「おい・・・」
煩い足音の後に、静かな足音が続いて遠ざかっていった。しばらくすると水の音が聞こえてきて、僕はクローゼットに目を向けた。天窓の上では三日月がやたらと青い光を放って空に浮かんでいた。
夜の町にまた出て行った。ベビーシートがついている車のある、手ごろな家を見付けて、中に入る。畳を敷いてある寝間で母親と、幼稚園も出ていないような男の子が同じ布団で安らかな寝息を立てている。彼らの隣に敷いてある布団に父親の姿はなかった。僕はいつものように鋸と金槌をちらつかせて、母親の口を塞いで、縛り上げると、子供を起こした。そして、彼に鋸を手渡し、母親の方へと促す。
「さあ、それをお母さんの首にあてるんだ」
子供は僕の要求に首を振った。縛られ転がされた彼の母親は錯乱しているのだろう、ずっと泣き叫んでいる。男の子も僕に湿った目を向けていて、鋸を落とした。頭がバラバラに引っ張られたようになって、熱く赤く黒いものが沸き上がる。僕は彼の頬をはたいた。びっくりした様子の彼は火が付いたように泣きだした。反対に母親は僕を非難している。背中で蠕虫が這っている。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。僕は頭が痛くて仕方がなくて、落ちた鋸を拾い上げると、どこにも行かないであたりを歩き回った。ぐるぐるぐるぐると。畳の匂い、ぶら下がった電灯が揺れているせいで影がぐらぐらとしている。子供が泣いている。母親は叫んでいる。父親はどこにもいない。どうしようもない。本当にどうしようもなかった。電灯は揺れて、男の子は泣いて、母親は怒って、父親はいなくて、ぐるぐるぐるぐると。僕は泣いている子供の頭に金槌を振り下ろす。子供がよろけているのか、僕が回っているのか。母親は叫びを強くする。もう一度金槌を振り下ろす。床に落ちている鋸にも血の飛沫がかかる。それになんだか惹かれて、もう一度、もう一度と、何度もそれを繰り返していく。男の子はもうだいぶ前から動かない。鋸は血と皮膚と彼だった肉で赤黒かった。畳の匂いに血のにおいが混じった。僕は鋸を拾って立ち上がる。母親は泣きじゃくっている。熱くて、赤くて、黒いものも、頭の痛みももうどこかに行ってしまって、背中では蠕虫が這い廻っていて、それなのになんだか気怠くってしょうがなかった。ただ体が重かった。ただただ重かった。僕はいささか落ち着いた呼吸で母親の首に鋸を当てて作業をするように前後に動かしていった。彼女はあまり抵抗をしなかった。ただ泣いていた。僕も泣きたくなった。子供だった肉のこびりついた鋸に母親の赤が重なっていく。こそげるのはただ肉だけで、僕は力が抜けそうになってしまうのを耐えるのに必死だった。酸っぱい味が血の匂いを押しのけて昇ってくる。でも、もう何も背中では暴れなかった。なんだか本当に倦みきってしまった。やがて、血があたりに飛び散って、僕は染まっていく。
ごとりと頭が落ちる。僕はただの塊になったそれを頭の無い子供だったものの真正面に向かい合わせに置いてあげる。電灯がまだ揺れていたけども、もう地面は揺れていないような気がした。僕は疲れてしまって、赤い体のままで立ち去ろうとする。
すると、玄関が開く音がした。もう倦みきったはずなのに、僕は恐る恐る部屋から顔を覗かせて確認する。そこには黒い影があった。男だった。それも僕よりもかなり大きな。彼は酒の匂いを漂わせて、上機嫌な千鳥足で、何か言いながら電気のついて明るいこちらに向かってきた。僕の手にある鋸と金槌を握りしめても、なんだかそれはいつもよりも軽くて、悲しくなるくらいに情けなく落ち着いていた鼓動は早く打った。僕はどうすればいいのか何もわからなくなってしまって、どうしようもなくなって、鋸と金槌を力いっぱいに掴んで飛び出した。男に体当たりをする。男はいきなりのことに倒れた。暗くて顔は解らない。僕はそのまま急いで玄関まで走っていった。後ろで男の叫び声が聞こえてきた。僕は構わず外に飛び出した。三日月が僕を照らしている。真っ赤に染まっているはずなのに、もう疲れ切ってしまったはずなのに、町を恐怖に陥れる殺人鬼のはずなのに必死に逃げる僕を。
全部から逃げているはずなのに、後ろからは足音が迫ってきていて、僕はがむしゃらに手をふって、足を動かして走った。地面がとても冷たくて、白い息はなすすべなく夜闇に溶けていって、肺が痛くて、でも足音は大きくなってきて。肩を掴まれる。大きな怒鳴り声が聞こえてくる。それには涙が混じっていた。僕は金槌を、鋸を振り回す。ぴちゃぴちゃと残っていた肉が撒き散らされる。手応えとともに男の悲鳴が聞こえてきて、 僕を掴む腕の力は弱くなった。それを振り払って、僕はそのまま家まで、そう、僕の屋根裏まで駆けていった。
赤いものを必死に流す。石鹸の泡は真っ赤に染まっている。鼓動は少しもゆっくりになってくれない。僕は何度も鏡を確認して、何度も、お風呂に入りなおす。階段を下りる音が聞こえてくる。
「幸一、どうした」
少しだけ嬉しそうな父の声がシャワーの合間から聞こえてきた。
「なんでもない。なんでもない」
「そうか・・・。その、幸一。せっかくだから朝ごはんでも一緒に食べないか。どうだ?」
「・・・・・・」
僕が何も言わないでいると、父はとても静かに扉を閉めて、ゆっくりと浴室から出て行った。僕はその隙になおざりに体を拭くと、急いで階段を上って、クローゼットに鋸と金槌と服を急いで隠すと、布団をひっかぶり、硬く、硬く目を閉じた。天窓からは朝日が差し込んできて、町の喧騒が大きくなっていった。
少しの間まどろみに身を任せていると、急に玄関が騒がしくなった。大勢の男たちの声とともに母親が金切り声を上げている。父親の声はまた聞こえない。ドタドタと靴が床を叩く音がして、母の金切り声すらかき消してしまう。鍵をかけていたはずの屋根裏の僕の部屋の扉があっけなく開かれる。何人かの男たち。その後ろに父と母がいた。父は心配そうに、母は怒りに満ちて。僕はベッドからゆっくりと立ち上がった。男たちが何かを怒鳴っている。けれど、恐れはなかった。彼らの言葉すら聞く必要はない。僕はもうすべて解っている。彼らに連れられるままに階段を下りていく。父は相変わらず心配そうで、母は怒ったままだった。僕は薄く笑う。初めてうまくできた。そんな僕とは違って、男たちは石で作られた兵士のようで、厳めしい表情を変えたりはしない。
玄関から出ると、久しぶりに浴びた太陽はこの世のものとは思えないほどに眩しくて、信じられないほどに暖かい。空はやけに高くて、嫌みなほどに澄み切っている。それとは違って、玄関には人だかりができていて騒がしい。太陽とは違う無機質な光が点滅する。僕は反射的に顔を伏せる。少しだけ歩いて、もう少しで白と黒の車に乗るというところで、その人だかりから一つの黒い影が現れた。それは僕の腹に体を押し付ける。体から熱いものが流れ出て行く。だから、体は冷たくなっていく。僕の周りの男たちが、その飛び出して来た男を急いで取り押さえる。光の点滅はよりひどくなる。僕は仰向けに倒れた。全てはゆっくりだった。僕の上には僕を捕まえに来た男たちと、その奥に寒々しいまでに青い空がある。声が聞こえる。金切り声が。首を動かしてそちらに目を向けると、母が涙を流している。父は怒りの表情で僕に体を圧しつけた男に向かって行って、他の何人もの男たちに止められている。また光の点滅がひどくなる。また顔を空に向ける。必死な男たちの顔。後ろからまた声が聞こえる。悲痛な金切り声と烈火のごとき怒号。また激しい光の点滅。それなのに、やはり空はやけに高くて、嫌みなほどに澄んでいて、ただ青かった。
終わり
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