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非コミュ

作者: 叶 こうえ

 四方八方低反発な部屋に閉じ込められて、かれこれ二週間が経過した。最初の頃は歩くたびに足が沈んで、その感覚になかなか馴染めずにいたけれど、今はすっかり慣れて心地よささえ感じる。先人は上手いことを言ったものだ――住めば都。

 体育座りをして、手の甲の青筋を見つめていると、ミルが隣に擦り寄ってきた。

「なに見てんの?」

「これ」

 浮き出た静脈を指差して答えると、ミルが「何が面白いの?」と訝しげに眉をひそめて聞いてくる。

「だって静脈が浮いてるってことはさ、そんだけ肉がなくなったってことじゃん。嬉しいから見てんの!」

 喋っているうちにエキサイトしてきた。どうせ元々痩せてる人には私の気持ちなんて分らない。肥満体の人間には、手の甲にももちろん肉がついてて、静脈なんて見えないのだ。

「嫌なこと思い出させないでよね」

「ちょっと聞いてみただけじゃん、急に怒られても困る」

 ミルが不満そうな目をして応酬してくる。

 私はどうも、イライラしている。この部屋に住み始めてからずっと、食べられるものといったらSOY―JOYだけ。種類が豊富で最初はいろいろ試してみたけど、そのうちイチゴ味ばかり食べるようになった。イチゴ味が一番うまい。でもさすがに飽きてきたし、マックの復刻版クォーターバウンダーが恋しくって堪らない。食べたくて食べたくて、最近夢にも登場した。夢が覚めたときのあの切なさ。

「大体、なんでこんなところに……」

「それ、もう十回以上は聞いてるけど」

 そう、ミルと一緒にいて話すことといえば、ここはどこ? なんでこんな場所に私らはいるの? いつ出られるのかしら? これだけだ。結局話し合っても答えは見つからない。

「SOY―JOYばっかり食べてるから便秘になるし……」

 堂々巡りになりそうで話題を変える。

「カンパンやカロリーメイトよりはマシじゃない?」

「いや、カンパンの方が味がシンプルだから、飽きは来ないかもしれない」

 今や、緊急時用保存食といえば、SOY―JOYだ。カンパンやカロリーメイトはもう過去のもので、最近は全く街で見かけない。

「そういやミルって、ちゃんと三食食べてるの? SOY―JOY持ってるところ見たことないけど」

 ミルが何か食べてる場面を、一度も見たことがない。思えばこの女、謎な部分が多い。出会ったときも変だった。

 私がここで初めて目を覚ましたとき、ミルはまだいなかった。


 二週間前の朝。意識がふと戻ったものの、長時間眠っていた頭と体を動かすのは至難の業で、私は数十分ずっと瞼を閉じ、今まで起きた出来事を反芻していた。


 ――高校に入った頃から、私は自分の肥満体型と、不細工な顔に悩まされ続けていた。うちの母親は私にとても甘い人で、ハンバーグが食べたいと言えば牛肉百パーセントのジューシーなハンバーグをこしらえてくれたし、スイーツが食べたいと言えば、私の好物ばかりを買い揃えてくれた。バニラアイスが上に載ったシナモンアップルパイ(680kcal)、ニューヨークチーズケーキブルーベリーソースと生クリーム添え(578kcal)エトセトラ。わざわざネットでお取り寄せしたり、デパ地下で買ってきてくれたり。別に市販の特売スイスロールでも良かったし、ハンバーグだって、牛肉と豚肉の合挽きで十分だったのに。

とにかく、私の望みには全力で応えてくれる優しい母親だった。勉強しろ、家事手伝え、部屋の掃除をちゃんとしろ等の小言も言わない。お嬢様育ちの専業主婦だから、余裕があったのかもしれない。中学時代の数少ない友達は、親がうるさくて堪らないと、よくぶーたれていた。

 帰宅部で家事手伝いもせず、食べたいものばっかり食べまくっていたら誰でも太る。高校生になって、周りが「彼氏できた」と華やぐ中、私はぶくぶく太り、近寄ってくる男子は一人もいなくなった。男子は勿論、同性の子でさえ、肥満体の私とは友達になりたくないみたいで、話しかけてもくれないし、私から話しかけても「ふーん」とか「そうなんだー」で会話を続けてくれない。

 痩せれば見た目が良くなるはず……そう思い、奮起してダイエットをしたこともある。そのときも、母親は気持ちよく協力してくれた。低カロリー且つ美味しい料理を作ってくれ、いつでも運動できるようにと、室内ジョギング機を購入してくれた。その甲斐あって私は痩せ、デブ軍団から退団することができたのだ。クラスの男子が名付けたデブ派閥「デブ四天王」が、一時「デブ御三家」へと変わったこともある。でも喜んでいられるのはつかの間だった。今度は「ブス四天王」へと移籍させられたのだ。つまり私は、誰もが認めるブスだったのだ。

 もともと可愛い子もしくは普通のルックスの子が痩せれば劇的に変わるのだろうが、私の場合痩せてもブスであることに変わりはない。というか、両親の顔を見れば明らかだったのに! 私は無駄な努力をしたわけだ。

 そして、追い討ちをかけるように始まったリバウンド。痩せてもなんら変わらない境遇に、ストレスは溜まり食欲は以前よりも増え高カロリー高脂質食に逆戻り。「デブ御三家」から「デブ四天王」に出戻ったのにも関らず「ブス四天王」はそのまま。つまり私は「デブ」と「ブス」を兼任する羽目になったのだ。最悪だ。

 私は開き直った。もうルックスは絶望的。だったら、恋愛に注ぐエネルギーを全て勉強に注ごうと決意した。思えば、その頃から私の頭はおかしくなっていた。常に頭の中は受験と食べ物のことだけで占められ、話をする相手は担任の教師と母親ぐらい。父親はいつも仕事で家に帰ってくるのは深夜十二時過ぎ。ろくに顔を合わせない。よりどころは、努力の結果が見て取れるテストの答案用紙と、母親の作ってくれるスペシャルな夜食とスイーツ。だから、大学受験に失敗したとき、私の心は雪崩が起こったように、一気に壊れてしまったのだ。

 自殺未遂が発覚すると、この国では年齢問わず処罰される。最近そういう法律ができてしまって、自殺するのにも一段と注意が必要なのだ。自殺に成功すれば「殺人罪・被疑者死亡」で書類送検されるだけだが、自殺未遂となると始末が悪い。「殺人未遂」で逮捕され、刑務所行きになる。だから、私が自殺をしようと思ったときは、そりゃあ考えた。ネットで調べに調べた結果、母親が常用している鎮痛剤を大量に飲んで死ぬことに決めた。致死量を確実に飲んだ。なのに私はなかなか死ねず、トイレで嘔吐しているところを母親に発見されてしまい、そのまま病院送り。そして、多分病院にはバレたはずだ。自殺目的によるオーバードーズだって――


「ここは刑務所なのかな」

 ベッドに横たわりながら、私は独り言を言った。周りは誰一人いなく静まり返っていて、自分の声が木霊する。天井はクリーム色で、私の部屋とは全然違う。私の部屋の天井には、ハリウッド・スター「トム・クルーズ」の年季の入った特大ポスターが貼られているのだ。そのトムの顔を見ながら私は一人エッチをすることがあって、居間でテレビを見ているときにトムが出てきたりすると、ドキドキしてテレビから目を逸らしてしまったことがある……と不埒なことに思考が脱線。頭をふるふると振り、ここがどこだか考え直す。

 牢屋だったら、こんなに寝心地の良い低反発ベッドに寝かされることはないだろう。それに独房にしては部屋が広すぎる。見た感じ六畳以上はありそうだ。でも窓がないのは刑務所っぽい気がする。でも空調がちゃんと効いてる。牢屋は「夏は暑く冬は極寒」という盆地的なイメージがある。

「自分の部屋ではない、刑務所でもない、それじゃあここは……?」

 訥々と独り言を続けていると、お腹がぐーっと鳴った。右腕にはまっている腕時計を顔に近づける。

『4・20 AM8:00』

 と表示されている。

 救急車で病院に連れて行かれたのが四月十日だった。

「十日間ろくにご飯食べてないんだよなあ」

 お腹が鳴って当然なのかもしれない。病院では一切食事をせず点滴任せだった。無理やり食べさせられて吐いたのだ。胃が破壊されていたのかもしれない。

 薄い意識の中で医者の声が聞こえていた。「これで済んだのは幸運ですよ。普通はもっと重篤な状態になってますよ」

なんで重篤な状態にならなかったんだろう、死ねなかったんだろう。もしかしてこの肥満体型が、致死量のレベルを上げてしまっんだろうか。死ぬのも難しい。

 母親は常にベッドの脇にいて、私のことを心配そうな目で見ていた。たまに涙ぐんでいたりもした。私の入院している病棟は精神科だったから、近隣の部屋からはどんどん、と音がよく響いてきた。看護士曰く、「いつも壁に頭突きしてるんですよ、困りましたね」。

 その音でか、意識が戻ったり、薄い膜が張ったように朧になったり。その繰り返しをしているうちに、深く眠ってしまった。

そして今のこの現状に至る。

「とりあえず……お腹がすいたので」

 重だるい体を恐る恐るゆっくりと起こす。途端眩暈に襲われ、目を閉じる。目頭を押さえ、数秒の貧血を堪えていると、母親の顔が浮んで消えた。

「お母さんはどうしたんだろ」

 あの愛情過多で過保護全開の母親が、私のそばを離れるはずがないのに。なにかよっぽどのわけがあって、どこか別の場所にいるんだろうか。

 再度お腹が鳴ったので、今度こそ私はベッドから起き上がり、床に足を下ろした。

「うわっ」

 思わず悲鳴を漏らす。あるべきはずの抵抗が、その床にはなかった。いつまでも沈んでいく足の裏。低反発加工なのはベッドだけじゃないようだ。改めて部屋中を見渡すと、全てがクリーム色一色だった。壁も、床も、そして驚くべきことにドアまでも。部屋には無駄なものは勿論、必要なものさえなかった。テレビも置時計も掛け時計も、家具も本も雑誌も……何もない。

 柔らかいドアは鍵がかかっているわけでもなく、すんなりと開き、私は外へと足を踏み入れた。と、そこにはあるべき抵抗があって、私はちょっとほっとした。普通の木材加工の床だった。

 まだ病み上がりの重い体を、引きずるようにして歩く。通路はまっすぐ一本に伸びており、迷子になりようもない。

「誰かいませんか?」

 小声で前に向かって呼びかけたにも関わらず、やけに声が響いた。

 十メートルほど歩くと、キッチンスペースが見えた。

 とりあえず白い綺麗な冷蔵庫にまっすぐ向かう。急に猛烈な食欲に襲われたのだ。

「勝手に食べちゃうけど……」

 口の中で呟いて、私は冷蔵庫のドアを開けた、が何もなく、落胆する。閉じようとして違和感を覚えた。空っぽの冷蔵庫の中に手を入れて見ると、冷気が一切感じられなかった。照明も点かない。電源が入っていないのだ。

 冷蔵庫の外観を改めてよく見てみる。汚れが目立つ白なのに、取っ手には手垢が全然ついていないし、新品ならではの無機質なにおいもする。

「誰も……いないのかな」

 ごそごそとキッチンの中を見てまわる。イチゴポッキーがあったら良いな、食べたい……なんて暢気なことを考えつつ、シンク下の引き出しをくまなく開けて見るが、ポッキーどころか食べ物の一つ出てこない。がっかりして、ぼんやり部屋の中を見渡して見ると、キッチンに続く広い居間のようなスペースの床に、みかん箱サイズのダンボールが一つ、無造作に置かれていた。あまり期待せず、私はその段ボール箱の封を開けた。

 その中に、SOY―JOYはあった。

 

 SOY―JOY片手に、私は玄関を探し当てた。が、なぜか玄関のドアが開かない。普通、内側からだったら無条件にドアは開けられるものなのに。鉄製のドアにドアノブはなく、目線の位置には精密機器らしき黒いプレートが設置されていて、使い方も分からない。

 結局、少し歩いただけでどっと疲れが出、私はさっきの部屋に戻ってベッドに横たわることにした。

 この家全体の構造は少し把握できた。私の目覚めた部屋が一番端っこで、細い一直線の廊下の先に、キッチン、居間、簡易トイレ、シャワールームがあり、また狭い廊下を数メートル歩くと、玄関だ。

 そのうちこの建物から出られるだろう……そんな楽観が私にはあった。だがそれは甘い考えだった。音声認証だか、指紋認証だかの精密機器は、電源も入っていないらしく、使おうにも使えない。まったくうんともすんとも言わない玄関のドアで、毎日私は立ち往生する羽目になったのだ。ベッドで眠る以外することがないのも相当辛い。暇つぶしできるものが一つもないのだ。テレビはない、パソコンはない、DSもない……。

 こんなとき、誰かいてくれたらなあ、そう思い始めたとき、ミルが現れたのだ。


「起きて」

 覚醒したものの、掛け布団に包まれまどろんでいた私に話しかけてくる声があった。どうせ幻聴だろうと思って無視していると、数秒後に耳の中を快感が走った。たんぽぽの綿で耳掃除をされたようなこそばゆさ。

 そっと目を開けると、スッとした顔の、私と同い年ぐらいの女がベッドの脇に佇んでいた。

「誰ですか」

「ミス・ミルです」

 変な名前だと思った。


 ミス・ミルは、私の快感ポイントが耳の穴であることを知っていた。なぜだろう? 第一、同性の耳の穴に息を吹きかける人なんているもんだろうか。少なくとも私はミル以外に知らない。

 彼女のルックスは、十人中十人が文句なく「綺麗!」と言ってしまうぐらいの、美貌を兼ねそろえていた。手足はすらっと長く細く、胸はちゃんと人並み以上に膨らんでいて、お尻はきゅっと上に持ち上がっている。顔は往年の女優を思わせるほど清楚で整っていて、鼻なんかは、本当に見とれるほど上品な形をしている。高すぎず、低すぎず。

 私は高校に入った頃から、自分の顔が嫌で嫌で堪らなかったけど、とくに癌だと思ったのは鼻だった。万力で無理やり拡げられたかのような鼻の穴は、下品極まりなかった。周りの人にも不快感を与えるらしく、級友には陰で「あの子の鼻、見ていると吸い込まれそうだよね……」と言われ、男子からは「鼻掃除機」ってあだ名がつくほどだったそうだ。わざわざ、仲が良くもない女子に教えてもらった。

 そんなわけで、ミル自身はそう性格が悪いわけではなさそうなのに、彼女の鼻に嫉妬の眼差しを向けた私は、最初彼女と仲良くしようと思わなかった。でも、私が「お腹空いたなあ」と思ったときにタイミングよくSOY―JOYを持ってきてくれたり、私が気まぐれに話しかけたりしても、上の空な対応を一切せず、ちゃんと話に付き合ってくれたのだ。彼女は聞き上手で、その上合いの手も上手かった。一緒にいるうちに、空気みたいな存在になって違和感もなくなってきた。

 朝、ベッドで目が覚めたときに、ミルがそばにいないと不安になる。いつも朝起きると、ベッド脇には彼女がいて、コップに入った水と、SOY―JOYを手に、「起きるの遅いよ」だとか「おはよう」だとか言ってくる。それが案外うれしかったのかもしれない。

ただ一つ気になることがあった。

「どこから来たの? この部屋にどうやって入ったの?」

 何度もこの質問をしたけれど、彼女は一度も答えてくれない。


 回想を終えた私は、ミルに提案をした。

「あとでさ、またキッチンと居間を調べて見ない? なにか手がかりになるものが出てくるかもしれないし」

 私の体は普通の状態にまで回復していた。この部屋でミルと二人まったりしているのも良いけど、いい加減外に出たい。フレッシュな空気を吸い込みたいと思い始めていた。それに、母親の行方も気になる。

 ミルはなぜか寂しそうに笑い、曖昧に頷いた。


 二人で手分けして、キッチンと居間をくまなく探したけど、結局何も見つけることができなかった。やる気満々だった私は落胆して、ダンボール箱の中のSOY―JOYを自棄食いすることにした。箱の中には、もうイチゴ味がなく、あまり好きじゃないマスカット、プルーン味しか残っていない。つい舌打ちをして、ダンボールを逆さにしてSOY―JOYを床に落とした。

「あれ? 底になにか入ってない?」

 ミルが横から話しかけてくる。私もそれに気がつき、急いでダンボールの底にあるA4サイズの紙を取り出した。


『4・15 午前 必着 SOY―JOY 保存食用

 4・15 午前 必着 冷蔵庫

 4・17 午前 必着 家電一式

 4・18 午前 必着 調理器具一式』


 走り書きなのか、酷く乱れた文字だった。それでも、この文字がだれのものだが私には分かった。……母親の字だ。

「十五日必着のものはちゃんと届いてるのに……どうしてそれ以降のはまだ着てないの?」

 ミルに聞いても分かるはずがないのに、私はそうせずにいられなかった。嫌な予感がして、首筋に汗が浮かぶ。

「なんとなく分かってるんでしょ? ここがどこなのか」

 ミルはぎこちない笑みを浮かべながら、私に問いかけてくる。

 そうだ、私はもう分かりかけている。……ここは、両親が前から用意していたシェルターなんだろう、多分。両親はもともと、数年後には、仕事を早々にリタイヤして、埼玉の奥地に移住する計画を立てていた。地震や洪水その他の天災に対応するために、シェルターにしようという話もしていたはずだ。ではなぜ、それが早まったのか? 分かりきっている。私が自殺未遂して、警察に逮捕されそうになったからだ。私を助けるために、母親はあらゆる手を使って、私を病院から逃がしたのだろう。病院が、自殺未遂者をそのまま見逃すわけがない。自殺未遂は「殺人未遂」。重罪なのだ。

 私の部屋だけ低反発だったのも、私の頭突き防止のためなのだろう。どこまでも過保護で心配性。

「あんたの正体も分かったよ。ミル」

 分かっていたけど、気づかない振りをしていたんだ、私は。

「私は自分のことも、良くしてくれてる母親のことも嫌いだったんだ。うっとうしかったんだ。本当にあのときは死にたくてたまらなかったんだよ」

 鼻が痛い、目が痛い、耳鳴りまでしてきた。もう、ミルの顔さえ、水の中にいるみたいに滲んで歪む。ミルの肩に顔を押し付ける。まだそこには形としてミルがいる。でもきっともう少しで……

「ちゃんとお母さんを探す気になってるんでしょ? それならまだあんたは大丈夫だよ。うん、大丈夫」

 優しく頭を撫でられる。ずっと撫でてもらいたいけどそれは叶わない。こんなに別れが辛いなら、初めから作り出さなければ良かった。

「あとね、私のことちょっとでも気にいったんだったら、あんたは自分のことも多少は好きなんだよ」

 そうだと思う。私は喉を押さえながら頷いた。

 もう体の調子は万全だ。行くなら今すぐに……だ。

「さようなら」

 あまり会話をしすぎると、名残惜しくなってしまいそうで、私はミルを一瞥して、キッチンを後にした。

「さよなら、留美」

 名前を呼ばれ、こっけいな自分のネーミングセンスに苦笑が漏れる。

 ミルとルミ。本当に私たちは真逆だった。綺麗で優しいミル。我侭で人見知りで、コミュニケーションを積極的に取ろうと努力もしないルミ。その上私はブスで……デブは脱却しかけてるけど。

 後を振り返り、遠目にキッチンの中を眺めるが、そこにミルの姿はなかった。

 さっき見つけたメモを手に、私は玄関のドアに対峙した。宅急便の予定の後に、鍵の解除方法が載っていたのだ。メモの通りに隠れていたカバーをはずし、キーロックを無効にする。


 ドアは簡単に開いた。あっけなく。風が一気に吹き込んできて、喉と鼻が詰まった感じになりクシャミの発作に襲われる。ひとしきりクシャミをし終わり、気をとりなおして玄関から外へ出る。おっかなびっくりに。

「……なにこれ」

 呟きが漏れた。

 目の前に広がるのは、テレビやネットでしか見たことがない灰色の砂丘だった。一面砂だらけ。空も灰色に塗りつぶされ、全体がどんより曇っている。ぼやけている。

 地平線が見えるほど、この建物以外、何もない。他に建物もない。まるで、本当に天変地異でも起こったかのようだ。

 目をこすったり、頭を思い切りぶんぶん振って見ても、目の前の光景は変わらない。……もしかして、まだ、私は夢を見ている最中なのかもしれない。もう少ししたら、病院で目が覚めて、母親が私の顔をのぞき込んでくるのかもしれない。それとも。実は私はすでに逮捕されいて、独房とか相部屋とかで、現実逃避の夢想にふけっているだけなのかもしれない。でもとにかく。母親の姿を見なくちゃ落ち着かない。何も始まらない。歩こう。

 とりあえず、景気づけに、

「生きてるって、すばらしーい!」

 声をヨーデルさせて叫んでみた。

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