屍線上のアリア
朝のコンサートの前に軽く朝食を済ませようと思ったヴァイオリン奏者のディケンズは行き着けのダイニングレストランに向かう。レストラン内はクラシック音楽が流れていて、今はパッヘルベルのカノンである。パンとサラダとエッグを食べた後、 コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。近頃、人が突然悲鳴を上げながら死ぬという奇怪な現象がここピーカー街で起きているようである。原因は全く不明で未だ解決されていない。これで3人目ということなので、まったくどうにかならないも のかね、と思いながら新聞をめくる。しばらくしてなんだか気が重いなと思ってい たが、よくよく聴くと、店内BGMのパッヘルベルが終わり、バッハのG線上のアリアが流れていた。ディケンズはそれを訊いて、何かを思い出してため息をついた。 なんだか居辛いので、ディケンズは支払いとチップを弾ませた後にさっさと店を出 てしまった。
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男は朝起きて、昨夜仕上げた文章の確認をしている。念には念を押して間違いがあったら訂正をするためだ。男はライターであり、最近のファッションについてのコラムを書いていた。彼は自分の仕事にはこだわりがあり、言葉自体の一言一句のミスを許さない厳しい姿勢で臨んでいた。ほとんどは昨夜すませたのだが、あと1ページを残して就寝したので今朝になってまたチェックしているのだ。(よし・・・大丈夫だな)と男は安心した。後は編集部に原稿を届けて反応を待つのみ。これから郵便局に向かおう、と男は思って大きな封筒と切手を準備して原稿を封筒に入れて切手を貼り付け、それ を抱えて外に出る。休日とはいえ締め切りに遅れてしまったのだから呑気にしてる場合ではないがすがすがしい太陽と空気が男に囁きかけていて心地よく感じる。
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「バッハは素晴らしいね。」
マッケイはディケンズにそう語る。 「バッハは・・・200年以上経っても新しい・・・バッハは時代を超えているのだ・・・」
「そうだね、僕もバッハ好きだよ。」
ディケンズがそう言うとマッケイがキッと睨んで言う。
「お前はバッハを理解していない。時代を超えた音楽・・・それは永遠の体現だ・・・このようなものが今ここにあるのが奇跡・・・」
いちおう僕プロなんだけど、とディケンズは思ったが、マッケイは傍のケースの開いてるヴァイオリンを取り出して構えながら言う。
「特に・・・G線上のアリアは美しい・・・これに勝る永遠性は・・・他には無いのではないか・・・」
そういって彼はヴァイオリンのG線でそのメロディを弾きはじめる。素人で音程は多少合わない演奏であるが、しかし各音各音は恐ろしく強烈に響く演奏だ。本当に、このアリアが好きなんだな、と思わされる。しかし自分は無伴奏のパルティータのシャコンヌが好きなんだけどな、とディケンズは思うが、狂信的な彼の手前なかなかそれは言えない。マッケイは陶酔しながらヴァイオリンと踊っている。
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G線上のアリアはよくマッケイが聴いていたし、弾いていたな、とディケンズは思いだした。だからかあの曲を聴くといつも彼の演奏を思い出す。今となってはあれを聴くと懐かしいような、あるいはとても怖いような、奇妙な気分になる。
そんなわけでレストランから足早に抜け出したディケンズは、まあ少し早いけどコンサート会場に向かってしまおうか、と考える。知り合いのヴァイオリン奏者のエオリナがチェンバロ伴奏を交えて演奏する朝のコンサートである。ヘンデルなど を演奏するそうだ。それを楽しみにしよう、と思いつつ道を歩く。
その時背後から男がディケンズの左肘にぶつかり、ディケンズはよろめいた。男 は封筒を持って急ぐように歩いている。周りが見えてないみたいだ。もう遠くの方 にいってしまった。失礼なやっちゃなと思ったその時、男は突如立ち止まる。あれ、どうしたのだろう?と思った時に男はぐるぐる回りながら「ああああああ」と叫び、 壁にぶつかり、壁に縋り、「ヒッ」と声を上げながらそのまま前につんのめって動かなくなる。人々が倒れた彼をみてどよめきだす。
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突然その光景が来た。
男は眼を開いても閉じてもそれが見える。 さながら眼と脳との間にその光景が挟まったかのようだ。
それは大きな白い渦巻きで、あちこちに黄緑色の歯車のようなものがくるくると回っている。
鳴り響くは低音の弦をハジく音。その上を歌いだすヴァイオリンのアリア。それはバッハのG線上のアリア。
渦巻きの中央から赤いものがゆっくりとこっちに向かって来る。 右を向いても左を向いても、その光景は全く位置が変わらない。
どうしよう、それでも赤いのがどんどんこっちにくる。振りほどこうと身をよじる。肩になにかレンガのような固いものがぶつかる感触がした。これは、壁か。すると自分は盲目の暗黒の代わりにこれが見えてるのか。赤いものがどんどん大きく 見えてくる。ちくしょう、こいつが完全に近づいたらどうするんだ。今多分持っている原稿はどうなるんだ。手元が軽い。原稿が封筒からこぼれている?。さて、赤 いものは皮膚の無い人の顔と手であった。それは焼け爛れていた。もしかして僕は あの発狂しながら死ぬ怪現象に巻き込まれているのか。G線上のアリアがもう一度 繰り返される。真っ黒の乾いた瞳がこちらから眼を話さず見ている。口は笑っていて、匂わないのに腐臭が感じられる。その赤い手を前に伸ばし、男の肩をガシリとつかむ。男は思わず息を止める。
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「俺はアリアと結婚したい。」
あの日、マッケイが突然そんな事を言い出すのでディケンズは驚く。
「アリアって・・・どんな娘なんだい。」
「G線上のアリアにきまっているだろう!」
突然マッケイは怒鳴りだし手元のコップを激しく地面に投げ捨てる。ガシャンという音と共にコップは粉々に砕け散り、そしてマッケイは崩れ落ちるように咽び泣いた。
「・・・誰も理解してくれない・・・皆バカにする・・・」
ディケンズは困り果て、慎重に言葉を選びながら質問する。
「マッケイ。君がアリアが好きなのはよくわかるが、結婚って一体どうやって」
「そうだ、そこが問題だ!」マッケイは喚き散らす。「俺は人間だ。しかしアリア は永遠の世界にいるんだ。どうすればいいのか分からない・・・。」
「いやまあ音楽と結婚って詩的な表現としてはアリだけど実際には無理があるよ。 知り合いに可愛い娘さんとかいないのか?」
マッケイは突然立ち上がり、ドドドドと足音を立てながらディケンズに詰め寄って胸倉を掴む。
「二度と、そう言う事を、言うな。」
「・・・・・」 ディケンズはその気迫に何も言えない。「いいか、俺はあの永遠の中にいるアリアと結婚するんだ。誰にも止められない。今夜、してやる。」
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さて現在。ディケンズはその場をそそくさと去る。結局ディケンズにぶつかったあの男は大きな封筒から原稿をばら撒いて死んだ。また突然死事件が起きたようである。あれで4人目であった。まったく嫌な朝だと思いつつ、コンサート会場にたどり着く。
会場は美術館のギャラリーと一体になった開放的なホールで、出入りが気軽にで きるようになっている。早く着いたのであまり人がいない。一番空いている椅子に座った。しかし、それはどうも誤算で、直後に若い青年がディケンズの隣に座って きた。若い青年は馴れ馴れしく「どうも」と挨拶してきたのでとりあえずディケン ズは、「ああ」と答える。すると青年はまた口を開く。
「今朝、起きたの知ってますか?突然死。」
青年はそれをまるで楽しいことかのように訊ねるのでうんざりしたディケンズは 「ああ、そうなのか。」と嘘を答えた。
「そうなんですよ。今回は雑誌のライターでして。死んでしまった彼はライバル企業だったんですよ。そんで偶然、僕、この事件を個人的に追ってましてね」
青年はよく喋る。
「それでこれは当然スーパーナチュラルの仕業だと思うんですよ。ユーレイというか残留思念というか。だから彼らなりの目的をね、探求すると分かることもある。それで被害者3人と共通項があるんですよね。ほら、見てくださいこの写真。」
青年が見せた3枚の写真をディケンズは雑に一瞥した。
「この写真、3人とも似てるでしょう?アゴのラインとか鼻とか。茶色い瞳なのも同じです。あのライターの方も似ているんです。私がなぜあなたに声かけたかと言いますとね。あなたが4人とかなり似ていて思わず声をかけたんです。もしかして、 あなたの友人で最近死んだ人がいないかどうか、って」
「君。」あまりに失礼な話だったので思わずディケンズは声を上げた。「ちょっと黙ってくれないか。」
すると青年はにんまりと笑った。「やっぱりいるんですね。」
「その話は嫌いだし興味がない。やめてくれ。」
「わかりました。わかりましたけど、もしも」青年は食いさがる。
「黙ってくれないか?」
「・・・・」
さすがの青年も黙りこくったその時、拍手が聴こえる。エオリナと伴奏者が一礼をしてチューニングをし始めていた。これからコンサートが始まる。そしてヘンデルの柔らかなヴァイオリンソナタが始まる。青年のせいで、あの記憶が蘇るではないか・・・。
*
今夜やる。確かにマッケイはそういっていた。今夜永遠の存在と結婚する。何か すごく嫌な予感がして、オーケストラの練習を終えた直後に飲み会を断って急いで マッケイの家に向かった。マッケイの部屋は電気がついていない。
「おい、マッケイ、死んでないよな?」
ディケンズは扉を叩きながら叫んだ。
「おい、マッケイ、マッケイ!」
あまりに叩いたのか扉が自然にギイと開いてしまった。中は真っ暗だ。暫くその闇を眺めながら、なんとなく、一歩二歩と中に進んでみる。
「やあ、ディケンズ。」
声が聞こえた。振り向くと、背後の窓の月光に照らされ顔が見えないマッケイが ヴァイオリンを提げて立ってた。
「マッケイ!」
「結婚式に来てくれてありがとう。僕たちは永遠に一緒になるんだ。」
マッケイは足元の石油を頭からかける。
「よせ!マッケイ!やめろ!」
「これは婚姻のためのナルドの香油だよ。神の下結ばれるための神聖な香り。」
石油の香りが立ち込めるなか、マッケイはランプを取り出す。
「いざ、さらば、ディケンズ。永遠の国より迎えにいくからな。」
「マッケイ!」
ばりん。ランプは床に投げつけられ、すでに床にまかれていたらしい石油が引火してマッケイの全身が火に包まれる。火に包まれながらマッケイはヴァイオリンを手にあのG線上のアリアを執念深く弾く。ディケンズは思わず身を翻して逃げ出した。
燃え盛るその家からはまだアリアが鳴り響いていた。
*
「ありがとうございました。」
拍手。エオリナが一礼する。拍手が長引いている。
「では、アンコールとして、バッハの管弦楽組曲2番のアリアを演奏します。これはG線上のアリアとして知られているメロディで、キーを変えればヴァイオリン の一番低い弦のG線だけで演奏できる事から名づけられたものです。ただしそれは 本来の曲よりちょっと低くて野太い音色でして、実際はヴァイオリンの雅な音色を生かしたとても煌びやかで美しいメロディなのです。では、お聴き下さい。」
また、あれか。今日はアリアばかりだな。ディケンズは少しうんざりした。マッケイがよく弾いてたのよりははるかに高い音程でアリアは奏された。マッケイの音色はしかし強烈であったな、と思い出す。G線上 アリアという編曲をバッハの至高のものとして考えるのは少々疑問があったものの、それでもマッケイのあの曲に賭ける情熱はホンモノだったに相違ない。エオリアが見えないことに気づいた。白いうずまき。黄緑色の歯車。エオリアの演奏とそれより少しだけ弾くいマッケイの演奏が重なって軋む不協和音。うずまきの間から現れる赤いそれは、焼け爛れたマッケイ。
ディケンズは笑いながら涙する。お前は私を迎えに来たのだな。そうだ・・・「永遠の国より迎えにいくからな」・・・そのために、私に似ている人々の魂を連れ去ったのだな。そして今、アリアの音に誘われて現れた。ならば、私が最後の犠牲者となろう。おいで、 マッケイ。乾いた黒い瞳は変わらずディケンズを見つめ続ける。今や本来のアリア の音は残響のごとくかすかに響き、マッケイの身体から発せられるマッケイの演奏 しか聞こえない。その身を焼き尽くす炎。マッケイはディケンズの肩に手を置く。 ディケンズは椅子から崩れ落ちる。演奏は止む。しばらくして、悲鳴が上がる。