65)シユエト <屋敷3>
青年がベッドに横たわっている。その青年以外、その部屋には誰もいなかった。
窓が開いていて、爽やかな風が吹き込んでいた。
窓の外には手入れの行き届いた庭園が広がっている。
シユエトは目を乾かすくらいの強い風を感じながら、その庭に目をやる。
その庭から判断する限り、ここは貴族の屋敷の一室のようだ。柱や壁など随分古ぼけているようであるが、部屋の中の調度品も高価そうなものばかりである。そこには全て統一されたエンブレムが掘り込まれているのが見て取れる。
シユエトは背後を振り返り、自分が辿り着いた魔法陣のほうを見る。
それは確かにある。エクリパンはそれを使って、この部屋を頻繁に訪れていたという魔法陣。
「だとすれば、君がダンテスクか」
シユエトはベッドの上の青年を見ながら言った。
――その通り。彼が俺だ。
ベッドの上の青年は口を開かなかったが、耳に装着している貝の形のイヤーカフに、その声が響いた。
「どういうことだ、これはいったい?」
シユエトは苦笑いしながら言う。
どのような魔法使いが自分を迎えるのかと思っていたら、このような病人の青年だとは。
その病人はまるで人形のように身動き一つせず、ただ天井を見つめているだけだ。
「客を迎えるのだから、ベッドから起き上がれよ」
そのような嫌味を言いたくなったが、シユエトは言わなかった。
一時的に、魔界に全ての意識を没入しているという感じではない。中には魔界には入り浸って、完全に肉体のことを忘れてしまう魔法使いもいるらしい。
しかし目の前の青年はそんなふうに見えない。その顔は病苦のため、わずかに歪んで見えるし、頬も不健康に痩せこけている。
「そういうことだよ。ほら、アンボメだ」
シユエトが出てきた魔法陣から、アンボメも現れた。
ブランジュの魔法で、魔界の牢獄に閉じ込められていた彼女が、ダンテスクによって解放されたのだ。
相変わらず彼女の眼は虚ろで、自分が何者であるのかまるで理解していない表情である。
しかし依然として、恐ろしい魔法の使い手であるはず。彼女の周りに漂う雰囲気は変わっていない。
「ダンテスク、それが君の謎だったのか」
シユエトはアンボメから目を逸らし、そう言った。
――君が俺に謎を感じていたとしたら、それで全ての種明しにはなったのではないだろうか。
ダンテスクが淡々と言ってきた。
(俺が彼に感じていた違和感。どうして自ら前線に立って戦わないのか、どうして我々の前に一度も姿を現さなかったのか。これだけ優れた魔法の使い手であるに関わらず、どこか常識や当たり前の経験が欠落しているように感じさせるのはなぜか。その疑問に対する回答がこれか・・・)
「病気か? それとも事故?」
――運命だと思っている。
目の前のダンテスクは一言も喋らないが、声だけが響いてくる。
この青年と、この声が同一の存在だという証しはないが、シユエトは無条件にそれを信じることにした。
「そして、君がガリレイだったんだろ?」
シユエトは更に問い掛けた。
――ああ、俺がガリレイだった。
「俺やブランジュ、エクリパンの魔法のコードを書いていたのは君だった」
――君たちのコードだけじゃない。俺はここで数々のコードを書き上げてきた。もちろん、指一つ動かすことが出来ないから、全ての作業は魔界の中でやったことだけど。多少は魔法の進化の役に立ったと自惚れている。もちろん、無償でやっていたわけではない。それで莫大な金貨も得た。塔を買えるだけの金貨も貯めていたんだ。
「本当か。それは凄まじい大金ではないか」
しかし充分に信憑性のある言葉だ。シユエトやエクリパンにさずけた魔法のコード、あれと同じくらいに独創的で珍しい魔法のコードをいくつか書き上げていたとしたら、金など簡単に稼ぐことが出来たのかもしれない。
――その金で、塔を買うつもりだったんだ。しかし審議会で落とされた。それで仕方なく、この戦いに挑むことにした。軍資金は充分にあった、塔を買うために貯めていた金貨がね。
「そうか」
とても興味深い話しだ。しかしシユエトには時間がなかった。差し迫った時間に焦りを感じ始めていた。彼の物語を聞いてやっている暇はない。
何が何でも、敵の魔法使いよりも早く薬屋に到着しなければいけないのだ。
しかもそこに先回りした上で、いくつかの準備も必要である。さもないと、シユエトの作戦は成功しないだろう。こんなところで、ダンテスクと長話しをしている時間はない。
シユエトは魔法陣から出てきたアンボメをを引き寄せて、契約の準備を進める。
「しかしどうして君は、塔の主になりたいんだ?」
とはいえ、聞きたいことはたくさんあった。
魔法使いならば、塔の主になりたがるのは当たり前の話しである。
だけどこのような身体の人間が塔を手に入れたところで、いったいどうなるというのか、シユエトにはそれが理解出来なかったのだ。
――大丈夫だ、時間なら、少しは余裕があるはずだ。
シユエトの焦りに気づいたようで、ダンテスクがそう言ってきた。
「どうしてだ?」
――ああ。敵の魔法使いが、ブランジュの肉体を慰めものにしているようなのだ。
「な、何だって?」
――もしかしたらサソリの毒で死ぬかもしれないから、最後に女の身体を味わいたい、そんなことを言っていたようだ。
「ブランジュはそんな低俗な欲望の餌食になっているのか!」
何という下劣な男だ。さすがにシユエトは怒りを覚えた。
別にブランジュに対して特別な感情はないが、彼女も生死を共にした仲間だったのだ。今、彼女が苦しめられているとしたら、それは本当に悲しいことである。
とはいえ、それが幸いするのかもしれない。ブランジュが生贄になってくれたお陰で時間稼ぎが出来る。
――いや、ブランジュに同情してやる必要はない。彼女自身、満更でもなかったようだ。喜んで、その男の欲望を受け入れたようだ。
「何だって・・・」
――彼女だってサソリの毒に侵され、死を覚悟している。死を前にすると、人はそのような欲望に屈してしまうのかもしれない。
「そんなものか」
――さあね。ブランジュが耳のガジェット外したので、今、二人の様子を把握することは出来ないが、彼女が敵の魔法使いに好感を抱き始めていたことは、そのゲシュタルトからして事実だ。ところで、さっきの君の質問への答えだけど。
ダンテスクが話しを続ける。
「ああ、なぜ塔の主になりたいのか?」
もしかしたら戦いから生還出来ないこともあるかもしれない。ダンテスクから真相を聞くことが出来るのは今しかない。こんなときに、人の肉欲について考察をしている場合ではない。
――とても単純な理由だ。俺だって人並みに歩きたい。それだけだ。
「人並みに歩きたい?」
――塔の中ならば、宝石の消費を気にすることなく魔法が使える。この不自由な身体を魔法で動かすのさ。既にその魔法のコードを完成させた。あとは塔だけだ。塔さえ手に入れば、俺は普通の人間になることが出来る。
「ああ、そうか」
シユエトはその言葉を受けて、改めてベッドの上の青年を見下ろした。
ベッドの上の青年、すなわちこれがダンテスクなわけであるが、彼はシユエトがこの部屋に踏み入れたときとまるで変わらない姿勢のまま、大きな目を見開いている。
天井を見ているのか、それとも何か違うものを見ているのかわからない。
しかしその表情は悲しいくらいに不動のまま。寸分の違いもないのだ。
そんな姿を見ていると、彼が塔を欲しがる理由が完璧にわかった気がした。それはシユエトが塔を欲する想いよりも、ずっと強烈で、ずっと切実で、ずっと正当なものであろう。
――それはエクリパンと一緒に見た夢だった。彼は俺の魔法の教師だったんだ。
「わかった。俺がエクリパンの代わりを務めるという話しも、ここに承諾しておこう」
ダンテスクはこの不自由な身体のせいで、現実の世界では何も思う通りにならなかった。それを助けていたのがエクリパンだったわけか。
――ありがたい。もう一つの懸案事項も解決したようだ。
付き合いの浅いシユエトに、エクリパンの代わりが務まるわけもない。しかしダンテスクの周りには、シユエト以外、その候補が一人も居ないことは事実のようだ。
これからの人生、ダンテスクと共に生きるのも悪くない。彼はそれだけの価値のある魔法使いだ。
ダンテスクの話しを聞きながら、一方で進めていたアンボメとの契約も終了したようだ。
思ったよりもそれは呆気なかった。アンボメがいつもの虚ろな視線でコクリと頷き、それで完了。
シユエトは先程壊れてしまった起爆装置の代わりに、テーブルの上にある木箱を手に取る。
「その蓋を開ければ、爆発とすることにする」
アンボメはその言葉に無反応だけど、これで全ての準備は整ったはずだ。
「敵の魔法使いが行くはずの、その薬屋の場所へのルートを開いてくれ。奴を始末してくる」
――アルゴのことを覚えているはずだ。この戦闘が始まる以前、彼をその薬屋に忍び込ませて、敵の魔法使いと接触させたことがある。それがここに来て、役に立ったようだ。彼はすぐに死んでしまったが、様々な貢献をしてくれた。
「アルゴか」
敵の魔法使いの最初の攻撃で死んだ仲間だ。
彼が死んだときは、あまりに呆気なくて、こんな程度の魔法使いは仲間にする価値もないと思ったが、今では生き残ったのはシユエトただ一人。
サソリに噛まれたブランジュもいずれ死ぬだろう。いや、既に敵の魔法使いに殺されているかもしれない。
シユエトはアンボメの手を引いて、魔法陣の前に立ち、宝石を取り出す。
「では、行ってくる」