64)エクリパン <魔界10>
「しかしせっかく借りてくれたとしても、僕の力では気軽に本を読むことも出来ないんですよ」
図書館行きの話が固まりかけていたとき、青年は妙に明るい口調で言ってきた。「やっぱり止めましょう。その話は無しで」
彼には本を読む力がない。理解する知性はあるが、本を持つことも、ページを捲ることも出来ないのだ。
本当に無様で憐れで、不自由な存在。
エクリパンは青年の悲惨な運命を改めて認識して、むしろ大声で彼を嘲笑ってやりたくなった。
確かに青年の言うとおり。彼は気軽に本を読むことも出来ないだろう。
しかし解決策がまるでないわけではない。今でも彼の部屋には、複数の家庭教師たちが出入りしている。その中の誰かに、この専門書を読んでくれと頼めばいいのだ。
とはいえ、その方法を取ると、彼はその都度、魔界から出なければいけない。
魔界に全ての意識を没入させている状態では、外からの声はまるで聞こえないからである。そして再び魔界に戻る度に、またもや宝石が必要になってしまう。
それはとてつもなく高くつく方法なのだ。青年は当然のこと、エクリパンにもそれをサポートするだけの財力は今のところない。
それに、この難しい本を読んでくれと、いったい誰が家庭教師に頼むのか。
エクリパンでは駄目だ。家庭教師たちを納得させることは出来ないだろう。
彼の父親に言ってもらわなければいけない。しかしそうなると、全ての事情を説明する必要があるかもしれない。
息子さんはあなたの想像通り、とてつもない知性の持ち主ですよ。
彼の父はまだ、こうやってエクリパンが彼とコミュニケーションを取っていることを知らない。
その辺りのことも含めて全て伝えなければいけないだろう。しかし青年自身が、まだそれを嫌がっている。
「魔界の中で、誰かに代読してもらう方法もある。その辺りは何とか手配出来るだろう」
「そうですか、とりあえず何となるんですね?」
「ああ、大丈夫だよ、心配不用だ」
しかしその仕事をやってもらうためにも、それなりの報酬を払う必要があるだろう。
何をするにしても高くつく、この青年にとって生存するということはそういうことなのだ。あらゆることにおいて手間隙がかかり、金が必要になる。
「僕の夢を語ってもいいですか?」
そのとき青年が言った。「魔法で自分の身体を自由に動かせるようになりたいのです。自分の足で歩き、自分の手でものを食べて、自分の口で話す」
「君もやっぱり、普通の人間になりたいんだな?」
「人並みの人間になりたいだけです」
「まあしかし、それは、遥か遠き夢だな」
エクリパンは残酷に言い放つ。
「はい。今の魔法の理論では、人体などを魔法で操るのはかなり難しいみたいです」
遠くにある物体を、自由に動かすことが出来る魔法は存在する。広く一般に普及していると言ってもいいだろう。
しかしそれは今のところ、物体にだけ限られている。人間の身体を自由に操るのは難しい。それは自分の身体であっても。
筋肉や骨などの繊細で複雑な有機物で出来たものを操ることと、無機質を操るのとではレベルが違うのだ。
だから指を動かしてページを捲ったり、文字を書かせたりするのも当然のこと、両足を交互に動かして歩かせたりさせることすら不可能なはずである。
もしかしたら、そのような魔法を使う上級魔法使いがいるのかもしれない。
しかしレア過ぎる魔法だから、その魔法使いは秘匿し続けるだろう。
すなわち、そのような魔法が欲しければ、自らコードを書き上げるしかない。
「でも、僕なら作れるはずです」
青年は言った。別に虚勢を張るというわけでもなく、いつもの口調で。
「ムカつくくらいの自信だね」
そんな魔法が作れるのなら、世界だって支配出来るかもしれない。
「もちろん、今の僕の知識では絶対に無理です。だから本を読んで勉強したい。人間の身体の仕組みを完璧に把握したい。そのためには何を読めばいいのでしょうか、解剖学? 医術の本?」
「わかった。借りて来よう。だけどその魔法を書く前に、本を代読してくれる下級の魔法使いたちに報酬を払うため、手早く稼ぐ必要があるぜ」
「そうですね。売れる魔法コードもどんどん書いていきます」
普段は本当に謙虚で、裏表のない純朴な性格である。それなのに、とんでもない野望を持っている青年だ。
それはエクリパンの想像以上だったかもしれない。
そう思う一方で、この憐れな境遇の青年が、そういう野望を抱くのも当然にも思えた。
魔法を習得して、何でも生み出す可能性を得られたとしたら、彼がまずやりたいことは、この病の克服に決まっている。それが彼の最大にして、たった一つの苦しみなのだから。
人間の身体を動かす魔法。それを研究するのは無意味ではないだろう。
ただ単に、青年のパーソナルな悩みを解決するだけの狭い研究ではない。この研究の途上、様々な副産物を発見することも出来るだろう。
その魔法の開発だけで、魔法の歴史を更に進化させることも可能のはず。
しかしこの青年の知性を、手っ取り早く活用したかったエクリパンにすれば、別に喜べる話しでもない。
だってこの青年がとてつもない天才であったとしても、この魔法の研究は数年で成し遂げられるようなものではないから。
気の遠くなるよう年月を費やして、あらゆることを犠牲にして、何とか達成することが出来る遥かなる夢。
「君がこの魔法を編み出すために、出来るだけ支援してやるよ」
しかしエクリパンは青年に言う。彼にいい顔をしたいわけではない。その場凌ぎの言葉でもない。
ドライで、功利主義的な彼だが、素直にそう思えてくるのだ。それはきっと、単純にこの青年が好きだからであろう。
「ありがとうございます。頑張って勉強して、魔法を書き上げます。僕はこのベッドから起き上がって、いつか自分の力で自由に歩き回ってみせる。そして直接、父に挨拶をしたい。その日まで父が生きてくれることを願うけど、どうかな」
「君の父はまだまだ元気そうだ。きっと大丈夫だろう」
おそらくこの青年ならば、やり遂げることが出来るはずだ。その複雑な魔法のコードを見事に書き上げることであろう。
しかしだ。
それでもまだまだなのである。この魔法を書き上げることが出来たとしても、それで彼の夢が簡単に叶うわけではないのだ。そのことにもエクリパンは気づいていた。
それが魔法の恐ろしいところでもある。
魔法というのはとてつもなく高価な代物。それを使うには代金が必要なのである。すなわち宝石が。
指を一つ動かすだけでオパール消費。口を動かすだけでダイヤモンド。声帯を震わすためにエメジスト。
きっと、そういうことになるであろう。もし彼がこの魔法のコードを書き上げたとしても、その魔法を気軽に使うことなど出来ないはず。
彼の大いなる野心に水を差すようで、そんな言葉を口にしたくはなかったが、エクリパンにはこの事実を黙っていることも出来なかった。
この青年は並の魔法使いたちより、魔法の法則について詳しいが、まだ実際には一度も魔法を使ったことはない。
だから魔法を使う度に宝石が必要だという当たり前の事実を失念している恐れがある。
「しかしこの魔法が完成したとしても、それを使うには、膨大な宝石が必要だ。気軽には使えないかもしれないぜ」
エクリパンは出来るだけ深刻にならないように、軽い口調で言った。青年の夢を挫かないように気遣ったのだ。
「そうですね。確かにとてつもなく宝石が浪費されるでしょうね。このベッドから起き上がり、自分の足で歩いて、父の前に赴き、声を掛ける。その十数秒あまりの行動のために、一人の農夫が一生かけて稼ぐ財産をはるかに越える金貨を費やさなければいけない可能性がある」
「そうだよ、わかっていたのか?」
「はい、もちろんわかっていましたよ。でもそれは実はたいした問題ではない。宝石を消費しないでも、魔法を思う存分使える場所が、この世にはある」
「な、何だって?」
「自分の塔を所有することが出来れば、自由に魔法を使うことが出来る。そうですよね?」
と、塔が、欲しいだって?
こいつはまたもや驚きだ。この身体の不自由な青年は、魔法使いの塔の主になるつもりなのか。
「本気で言っているのか?」
エクリパンはその考えに意表を突かれて、驚きのあまりにとてつもなく大きな声をあげてしまった。
しかし彼の言う通りだ。塔の中ならば、宝石を消費することなく、好きなだけ自由に魔法が使える。
そこならば、彼の夢だって実現される。
「はい、塔を買います。そして僕はそこの主になるつもりです」
「笑わしてくれるじゃないか」
この世界には、塔は三十程しかない。本当に選ばれた天才的な魔法使いのみが、それを所有することを許されている。
それ以外、多くの魔法使いたちは指を咥えてそれを見上げるだけ。
「だから僕は金儲けのことも真剣に考えなければいけない。世間で必要とされる魔法の開発も全力でやります。新しい魔法のコードを書いて、魔法使いたちに売って、お金を貯めます。それで魔法審議会から塔を買う。3万金貨ほど貯めることが出来れば、空位になった塔を購入することが出来るみたいです。もちろん、彼らの審査をパスしなければいけないけど。彼らが僕のような魔法使いに、塔を売らないというならば、どこかの塔の主を殺してでも手に入れる」
「ますますお前が気に入ったぜ」
無理だ。出来るはずがない。
彼のような青年が魔法審議会の審査をパスすることは絶対に不可能だろう。
魔法審議会の審査に通るような魔法使いは、エリートの中のエリートである。
とてつもなく強烈なガルディアンとの契約を果たして、魔法使いとして圧倒的な力を持ち、魔法審議会と何がしかのコネを持っている者。なおかつ若くて、育ちもよければ文句なし。
たとえ3万金貨を集めることが出来たとしても、寝たきりの青年からの依頼など、門前払いが当たり前。
ならば、塔の主を殺して強奪するしか他に方法はない。
しかし塔の主になるような上級の魔法使いを簡単に殺せるはずがない。
この青年はベッドに寝たきりで、一度も実戦を交えたこともないので、現実の厳しさをまるで理解していない。本当に恥ずかしい発言である。
しかしである。
「お前なら出来るかもしれないな」
エクリパンはそう思ってしまうのだ。もし人体を自由に操る魔法、そのプログラムを書き上げることが出来るのならば、塔の魔法使いを殺せるような魔法を編み出すだって出来るかもしれない。
それは同じくらいの無茶な夢想。一方が叶うのならば、もう一方だって夢ではない。
「とにかく僕は勉強するだけです。他にも様々なアイデアがあるんです。それらのコードを書き上げていけば、少しずつ事態は良くなっていくでしょう」
その青年はそんなことを言って、普段はしらけているエクリパンの魂を豪快に震わしてくれた。