62)エクリパン <屋敷2>
その屋敷の奥の離れの一室、寝たきりの青年が空虚な瞳で、見飽きた天井を見つめている。
彼の四肢は不自由で、言葉も喋ることが出来ない。
顔の作りは端麗なほうであるが、ずっと寝たきりなので、少しだけ歪んでいるようにも見える。
生ける屍だ。自分では食べることも出来ない。
だから、生かされている屍と呼んだほうが正確かもしれない。
毎日世話人のメイドたちが彼の身体を拭いているから嫌な匂いはしないが、その代わり、彼の周囲には絶望という精神的腐敗臭が漂っていている。
その腐臭のせいで、彼の兄弟たちも、実の母すらも、彼の部屋を訪れることは滅多にない。
彼が生存しているという事実は、一家にとって、出来るだけ忘れたい現実だったのだ。
しかしこの青年の頭の中には、とてつもなく鋭敏な頭脳が宿っているのであった。
それに最初に気づいたのは彼の父である。父だけが、この憐れな青年を見捨てなかった。彼の父は普通の子供たちにするように、枕元で本を朗読してやっていた。
するとあるとき、息子の表情がいくらか紅潮していることに気づいた。
父は、青年がこの物語に興味を感じていると判断したのだ。
それからは召使たちに、代わる代わる本を朗読させた。
そんなことを日夜やらされていた召使いたちは、こう思っていたことであろう、こんなのは時間の無駄、植物に話しかけるようなものだと。
しかし父はそれだけで満足せず、正式に家庭教師を雇い、他の子供たちと同じ、いや、それ以上の教育環境をその青年に与えるようになった。
歴史、数学、詩、その他の諸々の知識を惜しみなく、その青年に注ぎ込む。その知識を青年が理解しているかどうか確かめる術はない。
講義といっても、ベッドの上の青年に向かって読み聞かせるだけ。
家庭教師たちも、物語を朗読させられていた召使いたちと同様、この時間を無駄な作業だと考えていたようであるが、きっちりと報酬を貰えるのだから、文句も言わず仕事だけは続ける。
しかしこの無意味だと思えて作業が実は、この世界にとてつもない魔法使いを誕生させることになったのである。
彼の父親が呼び寄せた家庭教師の中には魔法使いもいた。
父親自身は魔法のことなど詳しく知らず、むしろそんなものを軽蔑していたが、この世界を生きるためには必要な知の一つだという認識はあった。
彼の父親は何か深い企みや狙いがあったわけでもなく、何となくこの青年に魔法の知についても学ばせた。
家庭教師として雇われた魔法使いは、最初の頃は嫌々に、やがてはある種の予感を感じながら、そして最終的には確信を持って、その青年に魔法を教え込んでいった。
魔法の言語を習得させるのは簡単ではない。
ましてや一言も言葉を発することが出来ない者に対しては尚更。彼がそれを理解しているかどうか判断する術がないのだ。わずかに変化する瞳の輝き具合以外に。
しかし家庭教師はその瞳の輝きを信じた。彼は淡々とカリキュラムを教えていく。
それから幾月が過ぎ、ある程度の魔法言語の基本を教え終わった日、その家庭教師は必然的な成り行きで、この青年を魔界にアクセスさせてみる。
魔法使いとは、魔界という異空間と、自由にアクセスすることが出来る者のことだ。
魔界を通せば、遠く離れた者とコミュニケーションすることが可能である。魔界を通じて会話をしたり、文章の遣り取りが出来る。
そして魔界に意識の全てを転移させたならば、現実の世界では言葉を発することが出来ない者であっても、自在に言葉を発することが出来るようになる。その者の意識が明瞭でありさえすれば。
家庭教師はこの体の不自由な青年にそれを試してみようとしたのである。
家庭教師の手の中で宝石が砕ける。
すると荒涼とした魔界に、青年の姿が現れた。魔界に全ての意識を預けたときの現象だ。その人間に関するあらゆる情報が転移するのである。
その人間に関するあらゆる情報が転移する。とはいえ、青年はベッドに眠っていない。四肢も強張っていない。表情も醜く凝固していない。
魔界の中の青年の姿は、もしかしたら彼がそうありえたかもしれない健康的で健やかな姿。
――ありがとうございます。ここならば、こんな僕も自由に話すことが出来るのですね。
その青年はそんな第一声を発した。
家庭教師は当然のこと、この出来事を予想はしていたが、実際にその事実を目の当たりにすると、感動を抑えることが出来なかった。
「やっぱりそうだと思っていたよ。君は生きる屍なんかじゃなかった。全てを理解していたようだな」
家庭教師も魔界にアクセスして、返事を返す。彼は青年のように魔界に意識を全入させず、魔界の光景を水晶玉に映していて、青年との遣り取りは自らの声で行う。
むしろ、それが一般的な魔界とのアクセスの方法である。青年にはそれが不可能だから、全ての意識を魔界に転移させる必要があるだけ。
「当然です。眠っているように見えるかもしれませんが、僕はずっと世界を感じていた」
「どうだい、気分は?」
この家庭教師の魔法使いは、決して善人ではない。純朴でもなければ、親切でもなく、他人の幸せを、自分の幸せと感じることもない。シニカルで、クールで、ドライで、自己中心的な性格だ。
しかしこの青年の記念的な瞬間には、いくらか心動かされるものがあった。
何と言っても彼とは長い付き合いになるのだ。この青年がこうやって言葉を発しているのは、彼が魔法を教えた結果。
「教えてくれよ、今の気分を、え?」
「それはもう感激していますよ。伝えたくても伝えられない言葉があったのです。あなたにも感謝の意を捧げたい。そして父。我が父には、いくら感謝してもしきれない。これまで生かしてくれてありがとう。あなたから、そう伝えて欲しい。しかし出来れば、さっさと僕を殺して。その言葉も父に是非」
「ようやく魔法を習得して、自分の意志を伝える術が出来たのに、第一声がそれか? 君は何とも魔法使い的な性格をしているな」
(まあ、君の気持ちはよく理解出来るけれども)
俺だって、君のような人生ならば、早く殺して欲しいと願うはずだ。家庭教師の魔法使いは思った。
「生きていることは苦しいのかい?」
「苦しいというよりも、不快なんです」
「なるほど。しかし今日をきっかけに変わるかもしれない。このままいっそ、魔界に住めばいいのさ。この醜い肉体を捨てて」
「そんなことが可能なのですか?」
「ああ、少しも難しいことではないさ。むしろ君の場合、今までの生活と何も変わらないはずだ」
家庭教師の魔法使いは青年に向かって詳しい説明をした。
すなわち、魔界に意識を全入させると、現実の世界では何も出来なくなること。話すことも、動くことも出来ない。
普通の人間にとってリスクが大きく、特にこれといったリターンがないから、そんな方法で魔界にアクセスする魔法使いなど滅多にいないこと。
「しかし君はそうじゃないはずだ。どうせ現実では動くことも、話すことも出来ないのだからずっとここにいればいい」
「では、ここで暮らしましょう」
このような身体に生まれついたわりには、決断が早く、あっさりとした性格のようである。家庭教師はこの青年に好感を抱かないわけにはいかなかった。
「しかしずっと魔界にいたら、他の家庭教師たちの声は聞こえなくなる。今までどおりの勉強は出来なくなる。魔界で俺から魔法を学ぶだけ。そういうことになってしまうが、かまわないかい?」
「僕の人生に、選択の余地なんてありません。これからも、この不自由な身体で生きなければいけないのならば、魔法だけが僕の希望」
「わかった」
「しかしあんな身体の僕でも、ちゃんとした魔法使いになれるのですか? すなわち、僕の魔法が現実の世界に影響を与えたりすることが可能なのでしょうか?」
「ほう、君は魔法でそんなことがしたいのかい? まあ、覚える魔法次第さ。この魔界に住んで、多くの魔法使いたちと言葉を交わし、彼らから学んで、君にうってつけの魔法を見つければいい。そうすればこんな君でも、現実を変えることが出来るはずだ」
この青年の家庭教師に、偶然選ばれた魔法使い、彼の名前はエクリパン。
このような職に従事しているくらいなのだから、中級かそれ以下の魔法使いだ。
苦学の末、若くして魔法使いになることが出来たはいいが、魔法の世界を極め尽くしたいという野心もなかった。
魔法を使って成し遂げたいこともない。復讐したいほど憎んでいる相手もいない。心酔している伝説の魔法使いも存在しない。宿命的な瑕もない。
生まれつき頭が良くて、それなりに器用だったので、何となく魔法使いになった男。
当然のこと、何かを犠牲にして、魔族との親密性を高めたいとも思っていなかった。魔族たちのほうも、精神的に満ち足りた彼を嫌っている。
彼が契約を結んだガルディアンのレベルは低い。
彼ほどの知性と魔法の知識があれば、もう少し上位のガルディアンと契約を結べたはずなのだ。しかし彼はそこで満足して、まるでその状況を改善しようと思っていない。
そんな彼にとって教師という職は、自分で思っている以上に似合いの職だったのかもしれない。
適当に魔法で稼ぎ、適当に美味しいものを食べて、適当に美しい女性と遊んでいる、それがこれまでのエクリパンの人生。
しかしこの青年との出会いが、彼の適当な人生を激変させる出来事になったのである。まだ、このときのエクリパンはそんなことを予想すらしていなかったが。
この青年が完全に意識を魔界に預けるということは、エクリパンの存在だけが、この青年の現実との接点になってしまう。少なくとも、しばらくの間は。
本当にそれでいいのか? 家庭教師エクリパンは改めて、青年に覚悟を問うた。
すると青年は少し恥ずかしそうに言い始めた。
「マリアの声が聞こえなくなるのは、少し寂しい話しです。彼女は僕を慰めてくれていたのです。彼女がやってっくれたことは、この人生のたった一つの愉しみでした」
「マリアだって?」
「はい。僕の世話人の一人です」
青年は口篭りながら、ボツボツと話し出した。これまでマリアという少女が、彼の身体に向かって行った行為のこと。その少女は、大人の身体になりつつあった青年の身体に、その年齢に見合った喜びを教えていたようだ。
「なるほど、親切な女だったな。君はきっと、あらゆる教師に恵まれているんだ。しかし魔法を取るなら、その楽しみはしばらく諦めてもらうしかないな」
「そうですか」
青年は本当に悲しそうに言った。
「落ち込むことはない。すぐに魔法に夢中になって、それ以外のことを考えられなくなる日が来るだろう。魔法はそれくらい、凄いもんだぜ。自分の凄さに酔い痴れることが出来るんだから」