57)ブランジュ <戦闘再開3>
自分の肉体の中に、死が巣食っている。
それは目には見えないが、チクチクと疼く傷の痛みで予感することが出来る。
ブランジュはゆっくりと押し寄せてくる死を前に、身体の震えを止めることが出来なかった。
(サソリの毒はどんな色をしているのだろうか。 やっぱり死をもたらすくらいなのだから、インクのような黒? あるいはサソリの身体の凶々しい赤? もしかしたらミルクのように真っ白かもしれない)
それが自分の身体の中に侵入して、血管の中を、筋肉繊維を汚染しているのだ。
(私はこんなふうに死ぬわけね。数時間かけて、ゆっくりと死の味を噛み締めなければいけないなんて。想像していた死に方の中で、これは最悪の部類だわ)
死の恐怖で頭がいっぱいになると、全ての出来事が自分とは関係のない、遠くで起きている他人の物語のように思えてくる。生々しさを失ってしまうのだ。
その戦いはまだ継続しているようだ。
いったい、いつまで続くのだろう、ブランジュはうんざりした表情で見る。
いや、もうすぐ終わるのかもしれないが。
エクリパンもブランジュとは違う死の恐怖を前にしているようだった。
あの恐るべき魔法使いは、エクリパンだけを見据えていた。
その視線はかすかに微笑んでいるように見えるが、これまでと鋭さが違うかもしれない。彼の瞳の蒼が、やけに澄んでいて、どこか天上的な雰囲気を漂わせていた。
一方、シユエトはその二人から出来るだけ距離を取り、まるで自分はこの戦いとは無関係な通行人ですと言いたげな表情で傍観している。
アンボメも相変わらずだ。
だらりと手を下げ、風に揺られている草の茎のように、フラフラとしながら壁を見つめて立っている。いや、壁のほうに視線を向けているだけで、別にそっちのほうを見てなんかいないかもしれない。彼女が見ているのは自分の中の闇だけ。
「ブランジュ、さっきの魔法をアンボメに使ってくれ」
そのとき、突然、耳元でそう呟く声が聞こえた。
え?
ブランジュはハッと驚きながら、そっちに顔を向ける。いつのまにか自分の傍にシユエトが立っていた。
アンボメに気を取られている間に近づいてきたのだろうか。彼の汗の臭いが少し遅れて、ブランジュの鼻先に届いた。
「敵の魔法使いを魔界に送り込んだ魔法、それでアンボメをここから移動させて欲しい。さあ、早く!」
シユエトの言葉に、敵の魔法使いがわずかに反応した。
何を算段しているのかとばかり、ちらりと一瞥をくれる。しかし取るに足らないと判断したのか、すぐにエクリパンのほうに視線を戻した。
「ど、どうしてよ?」
ブランジュはあからさまに煩わしげに答えた。こんなときに派手な行動を起こして、敵の魔法使いの注意を惹きたくもない。
「その牢獄の出口の暗号は、ダンテスクも知っているよな?」
ブランジュの質問に答えず、シユエトは切迫した口調で言ってくる。
「え? た、多分」
ダンテスクがガリレイだったならばだけど。
その魔法を作ったのはガリレイだ。ガリレイが複雑に仕組んだ暗号が、敵の魔法使いにほんの数分で破られたのである。
それはすなわち、あのガリレイすらも、この敵の魔法使いの力には及ばないということ。
やっぱり、私たちは負ける運命にあったのだ。ブランジュはシユエトの言葉を聞きながら、またもや自分の死について思いを馳せた。
「さあ、早く!」
更にシユエトが急かしてくる。
「だから、どうしてよ!」
どうせ負けるのに、どうしてこんなことをしなければいけないのか?
ブランジュは苛々しながら声を荒げた。
しかし負けるのは確実なのだから、もうどうにでもなれという心境でもあった。ブランジュはほとんど自棄になって、シユエトの要求通りアンボメに魔法を放った。
しかし、ブランジュのその行動がトリガーになってしまったようだ。敵の魔法使いとエクリパンの膠着していた時間も動き始めた。
ブランジュの動きにつられるように、エクリパンも何かの攻撃を仕掛けよとする素振りを見せる。
それを見るや否や、敵の魔法使いが持っているくるりと回転させた。
それと同時に、エクリパンのシールドが砕け散る音が聞こえた。敵の魔法使いの攻撃が、それを破壊したのだ。
全てがゆっくりと、丁寧に歴史の一ページに刻み込まれるような遅さで、分節化されていく。
ブランジュはそんなふうにして、目の前の光景を見ていた。
エクリパンのシールドが壊れたのとほぼ同時、ブランジュの魔法もアンボメに直撃した。強い風に吹き飛ばされるような勢いで、アンボメの姿が徐々にかき消えていく。
一方、エクリパンの表情は苦悶に歪んでいる。そして彼の首だけがふわりと、宙に浮かび上がるのが見えた。
首だけふわりと浮かぶ寸前、エクリパンの声が聞こえた。
本当にそれは苦しみに満ちた叫び声。幼い子供が親から無理やり引き離されたかのように、エクリパンは命から無理やり引き離されたよう。
首を失ったエクリパンの胴体が、溶けるように崩れ落ちていく。
彼は殺されたのだ。
(敵の魔法使いは、奥の手があるなら見てやるって言ってたのに、あれは嘘だったの?)
嘘だったのだろう。もはや、敵の魔法使いは少しも容赦することはなかったようだ。
さっきまではあえて先制攻撃することなく、こっち側の攻撃を受け、それを見極めてから反撃していたはずだが、今回は少しの隙も与えなかった。それだけエクリパンの魔法の実力を認めているということかもしれないが。
とはいえ、エクリパンの奥の手は、彼が死んでから炸裂し始めたようだった。
崩れ落ちていくエクリパンの身体が、最後の悪あがきをしたようなのだ。
彼の手は、アンボメの魔法が発動させる、あのスイッチを握っていた。
そのスイッチが床に落ちると同時、ブランジュの視界を真っ白な閃光が覆ったから、どうやら落下の衝撃で魔法は発動してしまったようだ。
とてつもない光だった。ブランジュは咄嗟に目を覆うが、光に射られた瞳は目を閉じていても、白い靄に包まる。
しかし凄まじい光に照らされて、一時的に視力を失ってしまうことなど、これから起きようとしていることに比べると、別にどうということでもなかった。
光と同時に、凄まじい熱波が押し寄せてきた。それはすなわち、ブランジュの貼っていた魔法のシールドが、破壊されてしまったことを意味する。
(死ぬわ)
ブランジュは冷静にその事実を把握した。
死はとても恐ろしい大事件であるが、どうせサソリの毒が回って死ぬのだから、ただ死に方が変わるだけで、もはやそれほど恐れることでもないのかもしれない。
そんなことよりも、恐ろしいのはアンボメの魔法の力。
エクリパンはこの魔法の威力は調節が可能だと言っていた。「広く浅く」か、もしくは「深く狭く」かに。
先程、デボシュを殺したときは「深く狭く」だったようで、その威力は凄まじかったが、離れて立っていたブランジュとは無関係に爆発しただけだった。
しかし今回の爆破はどうやら、「広く浅く」に設定されていたようだ。
爆破物の近くに居るわけではないのに、ブランジュのシールドが一瞬で破壊されてしまった。
浅いはずの爆発であっても、その威力は凄まじい。ブランジュ程度のレベルのシールドでは、その威力を弱める力もない。
シールドが破壊されてしまえば、ブランジュは丸裸も同然。
爆発の威力はそのままブランジュの肉体にも届くはず。きっと焼かれるか、蒸発するか。
(いずれにしろ、私は死ぬわ。さよなら、お母さん。出来れば死に際くらい、誰か愛する人の名前を呼びたかったけど、私にはそんな人も居ないから・・・)
死は怖くもなかったが、そんな自分の境遇が悲し過ぎて、ブランジュは泣きたくなった。
魔法使いなんて志すのではなくて、もっと普通の平凡な人生を生きるべきであったと、今更ながらに後悔しそうになる。
(そっちのほうが私には似合っていた。誰かを殺したり殺されたりなんて最悪な世界。でも少し私に誇られることがあるとすれば、まだ誰一人殺していないという事実)
ブランジュは死を受け入れ、目を閉じる。
しかしそのとき、ブランジュの身体を焼き尽くそうと押し寄せてくる圧倒的な熱波の予感が、ふっと遠ざかっていった。
何かが自分の傍に立ったようなのだ。
その熱波を遮るようにして、ブランジュの身体をそっと抱くように守ってくれている者がいる。
さっきまでの凄まじい熱波の代わりに、その傍に立っている者の温かい体温をブランジュは感じた。
(シユエト?)
そう思ったが違う。その熱い身体から漂ってくる香りをブランジュは知っている。さっき、とてつもない恐怖と共にを彼女はそれを嗅いだ。
(え? どうして?)
ブランジュは混乱しながら傍に立っている者の顔を覗き込もうとした。しかし爆発の閃光はまだ強烈に瞬いていて、ブランジュの視力はまるで役に立たない。
しかしその香りで、ブランジュは自分を助けてくれた者の正体が誰なのかわかった。
やがて少しずつ閃光は弱まっていく。光の中に、その姿が黒く浮かび上がってきた。
「残ったのは君だけのようだ。君を殺すわけにはいかないからね。聞きたいことがたくさんあるのさ」
傍にいる男がそう囁いた。この声を聞いて、ブランジュの予感は確信に変わった。ブランジュは救ったのは敵の魔法使いだ。