42)ブランジュ <魔界5>
魔界とは現実の世界とまるで異なるところ。
異なる時間が流れ、異なる季節が過ぎて、異なる距離感でつながり、異なる法則によって支配されている異界。
現実の世界とは別の、もう一つの世界。
そこには魔族たちが棲み、たとえ魔法使いであっても容易に足を踏み入れることは出来ない。
しかし魔法言語で魔族と意思疎通することが出来る魔法使いたちならば、そこを存分に利用させてもらうことが可能である。
遠く離れた場所にいる魔法使い同士で、意見の交換が出来るのも、その魔界の特質に拠る。
イヤーカフを使って、会話が出来るだけではない。
水晶玉越し、お互いの顔を合わせながら語り合うことも可能である。時差の異なる遠い場所に住む者が相手の場合は、文章だけの遣り取りが便利だろう。
ブランジュもその魔界通信を使って、多くの魔法使いたちと意見の遣り取りをしていた。
そこには自分よりもはるかに経験が豊かで、知識量も豊富で、もしかしたら自分よりもはるかに頭が切れる魔法使いが、ゴロゴロと存在している。
実際、ブランジュは彼らと語り合うようになって、すぐに大きな絶望感を覚えた。
(今更、私なんかが立ち入る隙なんて、少しもないんじゃないの? もう既に、全ての試みが試され、出来ることは何もかもやり尽くされ後のよう)
しかも彼らは一応にニヒリスティックで、新しいことに懐疑的な者たちばかりであった。これ以上、魔法の進化など望めはしない、そんな意見で一致しているのだ。
ブランジュも彼らと話し合えば会うほど、そのような意見に染まりつつあって、ときおり訪れる新参者に対して、彼女自身が諦念に満ちた意見を吐いてしまうほどであった。
(私たちの世代に出来ることは、既に存在しているアイデアを組み替えるくらい。もはや歴史に残るような仕事なんて望めないわ)
魔法の研究に、時間も情熱も注がなくなった魔法使いたちが増えているのも、それが原因のようである。
未開の荒野だった土地はほとんど開発され尽くされてしまって、新しい作物が育つ余地は、もはやない。
そもそも、新しい魔法を編み出さなくても、既に存在している魔法だけで、充分に満ち足りている。
ブランジュが暮らしているのはそんな時代。
とはいえ、世の魔法使いの全てがそのような考えに縛られているわけでもなかった。
ブランジュは例外的な人物にも出会った。ガリレイという人である。
ガリレイという名前は、当然のこと仮名である。古に存在した、とてつもなく有名なあの魔法使いの名前。
そのガリレイという人は、その他の魔法使いたちが感じているニヒリズムに、まるで犯されていないようであった。実際、その人物は次々に新しい魔法のコードを作成しているらしい。
「新しい魔法を発明する秘訣みたいなものがあるんだ」
ブランジュはガリレイと魔界を通して知り合い、いくらか意見の遣り取りをするようになった。
やがて、その人物はこんなことを書いて寄こしてくれた。
「君には才能もあり、そして何かを無邪気に信じる情熱もあるようだ。君もその秘訣を使えば、新しい魔法を作り上げることが出来るはずだ」
「そんな秘訣があるのなら、是非、教えて欲しいものです」
「とても簡単で、単純なやり方だよ。とにかく新しいコードを書くことに挑戦してみるのだ。結果的に自分の意図した魔法のコードは完成しなくても、それをきっかけに、まるで新しい魔法が誕生することがある」
「え? どういう意味ですか?」
「失敗が、思わぬ発見につながることもあるということさ。最初に意図したような魔法にならなくても、それを失敗と断ぜずに、他に生かす方法はないのか探すのだ」
「はあ・・・」
もっとスマートな方法を期待していたブランジュは、肩透かしを食らわされたような気分であった。
まるで想像していたような答えではなかったのだ。これだけ数多くの魔法のコードを書いてきた人物であるのだから、何かとてつもない方法論のようなものを編み出しているものだと思っていたのに。
しかしそのようなものはなくて、とにかく書き続けること、そして失敗を採用することだなんて。
とはいえ、これまでは失敗を平気で捨てていたブランジュにとって、その考え方にはいくらか驚かされたことも事実だった。
魔法のコードを書いて、失敗するときのパターンはだいたいこの二つに大別される。
その新しい魔法のコードに、魔族が全く反応してくれないこと。ほとんどの失敗がそれに当てはまる。
しかしときおり、魔族が反応してくれるが、自分の意図したこととまるで違う反応を示すことがある。それがもう一つの失敗のパターン。
何の役にも立たない魔法というのが存在する。いわゆるジャンクのコード。
こんな物を作っても意味がない。
ブランジュも、そしてその他の多くの魔法使いたちも、ジャンクが出来てしまえば失敗だと見なす。
それが常識的な考え方。しかしガリレイという人物は、そのジャンクを生かすことを考えろと言うのだ。
魔法のコードを書くのが容易ではないというのは、どれだけ繰り返しても言い過ぎにはならないだろう。
たとえば、魔法で炎を発生させようと試みるとする。
しかしそれをそのまま魔族にオーダーしても通用しない。
魔法使いが魔法言語を使い、懇意の魔族に対して「炎を発生させてくれ」と頼んでも、奴らがそれを聞き入れることは絶対にありえなないのである。
当然のこと、その魔法使いがどれだけ優秀であって。どれだけその魔族の力が上位であっても。
魔族には、具体的で緻密な指示を下さなければ伝わらない。
すなわち、それが書かれているのが魔法のコード、プログラムである。
それは本当に具体的で、嫌になるくらい緻密な指示でなければいけない。
炎の魔法を例にすれば、例えばこんな感じである。
激しい摩擦によって火種を発生させて、そこに可燃的な気体や物質を供給して、火を発生させるという方法を取るとして、そのイチイチの手続きを全て言葉にして、魔族にオーダーする必要があるということだ。
どうやって激しい摩擦を起こすのか、そのとき魔族はどのような動きをするべきなのか、可燃的な物質や気体は、どのような物を用いるべきか、それを魔族はどこから、どうやって入手するべきか、考えられる可能性全てについて言及しなければいけない。
少しでもおかしなところがあれば、魔族に伝わることはなく、エラーが発生してしまう。
そしてそのとき、魔族が反応してくれないことがほとんどであるが、ときおり、本来の意図した目的とは違う現象が発生することがある。
それも当然、失敗である。役に立たない魔法が出来てしまうだけだから。
しかしガリレイはそれを失敗だと見なすべきではないと言うのだ。
「その失敗を捨てずに、生かす方法を考えて、そのコードを訂正していくのだ。すると思いもよらない魔法を作り出すことが出来ることがある」
「何となくわかりました。でも何て言うか、それって多くを偶然に頼ることになりますよね?」
ブランジュはガリレイにそう返事を返す。
「いや、偶然という幸運を呼び寄せるのだ。そのためには、常に考え続け、無駄だと思っても書き続けるべきだということだ。諦めてはいけない」
「とりあえず挑戦してみます」
しかしガリレイのその偶然頼りのやり方を使うならば、新しい瞬間移動の魔法は、瞬間移動の魔法を研究している限り、絶対に完成しないということだ。
(だったら彼の意見は私の夢を実現する役には立たないじゃない)
「確かにその通りかもしれない。新しい瞬間移動の魔法を完成させたいのならば、まるで別の魔法のプログラムに挑戦すべきだろう。名づけるならば私のこのやり方を、『逆説理論』とでも呼ぼうか。新しい発明は、別の発明の副産物としてのみ誕生する。もしかしたらそれは、カルノーの企画譲渡理論に匹敵する、新しい方法論かもしれない」
(どんなことでも前向きに受け取るタイプの人間ね)
呆れるというよりも、ガリレイの性格にブランジュはむしろ感心した。
魔法使いはシニカルな性格の人間ばかりだ。その中で、そのガリレイという何者かは、とても楽観的な感触がする。本当に珍しいタイプ。