39)ブランジュ <生家>
十二歳のときに、ブランジュの実の父が死んだ。屋敷の真ん中に、ぽっかりと大きな穴が開いてしまったような喪失感を、彼女は覚えた。他の親子に比べて特別絆が深いわけではなかったが、肉親の死はとても大きな出来事だった。
(そんなのは当たり前だ。言うまでもない)
ブランジュの母はその空白を埋めるために、新しい父を見つけてきた。
貴族階級ではないが、裕福な商人の男性だ。その男は商売のために、彼女の家の家名を欲しがったのだ。
成り上がりの商人にとって信用は重要である。貴族階級相手に商売するときには、家名は大きな武器になる。貴族階級に属しているというだけで大きな信用になるのだ。
(私たちの家名は役に立ったようだ。その男の商売は更に繁盛して、街でも一、二を争うくらいの商会に成長した)
彼が求めたものがそれだけであれば、ブランジュの少女時代はあんなにも早く終焉を迎えることはなかったかもしれない。
最初から、その新しい父がブランジュに向ける眼差しは奇妙なものだった。
見てはいけないものを見るような視線。しかし見たくて堪らないという欲望。彼のその眼差しには、それらが混ざり合い、そこには独特な暗さと罪の意識と暴力性が漂っていた。
(そして何より、その男は私を見るときに、本当に恥ずかしそうにしていた)
丁度その時期、ブランジュの身体は変化の途上にあった。足や腰が柔らか味を帯び始め、胸が少しずつ膨らみを増そうとしている。
その男の視線の中で、ブランジュの身体は成長していく。その男は、ブランジュの花の咲き始めようとしている時間に、立ち会おうとしていたのだ。
彼女はその事実に、何とも言えない嫌悪感を覚えた。ブランジュは新しい父の視線から逃げるため、自分の部屋に籠もるようになった。
しかし、それだけでは心の平安を得ることは出来なかった。扉に鍵をかけ、バリケードを作り、辺境の要塞のように堅固にする。
「あんた、頭がおかしくなったの?」
そんなブランジュを見て、母が呆れたように言う。
「別に。そんなんじゃないわ」
(母もわかってくれない。それとも、わかっていながらも、それを見過ごすつもりなのだろうか?)
自分の新しい夫が、娘に欲望を抱いているという事実。
母にとって、というよりも妻として、それは屈辱的な何かなので、見ない振りをしてやり過ごすつもりなんじゃないの?
いつ、そのバリケードが破られ、夜中、その男が部屋に侵入してくるかわかったものではない。ブランジュはその恐怖で夜も眠れなくなった。
自然と彼女の生活は夜を中心に周り始める。
新しい父が仕事のため、家を空けている朝から昼にかけての時間、彼女はようやく眠りにつく。
そして眠ることが出来ない長い夜、彼女は本を読んだり、幾何学の勉強をして過ごした。彼女はどうやら先天的に、数学的な才能を有して生まれたようである。
読書の習慣と幾何学的思考に親しむこと。それはブランジュが魔法使いとなるための大切な素地となったと言えるだろうが、当初、それは深い夜の闇から目を逸らすための暇潰しの手段に過ぎなかった。
(いつまで、こんな生活を続ければいいの? 嫌だ、あんな男の視線にビクビクしたくない。私は強くなりたい)
いや、強くならなければいけないのだ。自分の尊厳を守る抜くために。
新しい父から逃げるだけの人生は嫌だ。いつしかブランジュはそんなことを考えるようになった。
(でもどうすれば強くなれるのだろうか?)
「ブランジュ、あんた、頭は良いんだから、法律家にでもなれば?」
ブランジュのたった一人の友達のキミーが、そんなアドバイスをくれた。「非力なあんたでも、法律を使えば、どんな悪人でも罰することが出来るわよ」
「駄目、法律では人を殺すことが出来ない」
ブランジュは言った。
「人が殺したいの?」
「場合によれば、それが必要になるかもしれないんだよね」
(だけどあの男は死に値する罪を犯したのだろうか?)
新しい父が本当にその気になれば、ブランジュが自分の純潔を守りきるのは難しいのかもしれない。何と言っても、同じ屋敷で生活しているのだ。
しかしまだあの男は、その最終ラインを突破しようとはしていない。ただ、あの気持ちの悪い視線を投げかけてくるだけ。
(それだけで、あの男を殺していいの?)
「法律でも人を殺せるはずよ。週末になると、広場で犯罪者たちが磔にされているじゃない」
「でも法律の場合、罪を犯した人間しか殺せない。私は罪を犯すかもしれない人間を殺したいの」
(そうなのだ。あの男が行動を起こしてからでは遅い。情けは無用よね)
「だったら、騎士か傭兵のお嫁さんになれば? あんたみたいなチビに、剣を扱うのは無理でしょ。だけど将来の旦那様にお願いすれば、誰でも殺してくれる」
「嫌だ、売春婦にはなりたくない」
「どうしてお嫁さんが売春婦なのよ?」
「私からすれば同じ生き物よ。どんな男にも頼らないで生きていきたいの」
「うーん、それじゃあ魔法使いは?」
キミーは少し迷ったあと、そう言った。「魔法だったら、非力なあんたでも、その気になれば誰だって殺すことが出来る」
「魔法使い・・・。暗くて嫌だわ」
「あんた、暗いから、けっこう似合っていると思うけど」
ああ、もうわかったわ、ブランジュ。
否定ばかりを繰り返すブランジュに呆れてしまったのか、たった一人の友達のキミーは投げやりな口調で言った。「もうさっさと家を出て、働きに出るか、寄宿舎のある学校に行くとかすればいいんじゃないのかしら」
「そこにはまた別の敵がいるのよ。厳しい規則とか、集団生活とか・・・」
「はあ? もうそれって、ただの我儘なんじゃないの!」
魔法使いか。私でもなれるのかしら?
キミーが本気で怒り出したようなので、ブランジュは慌てて彼女の意見の一つに興味がある振りをしてみた。
法律家、騎士の嫁、魔法使い、その中で魔法使いが最もましな提案だったので、それを選んだだけだ。まさか、いつの日か、自分が魔法使いになるなど予想もせずに。
「あんたが本気なら、うちの魔法使いを紹介してあげるけど」
キミーはブランジュよりもずっと家格の高い貴族だった。地方には広大な所領も有している。魔法使いの一人くらい、雇っていても不思議ではない。
「とりあえず、会うだけは会ってみたい」
この軽く飛び出た言葉が、彼女のこのあとの人生を大きく変えたのだった。