33)アルゴ <遭遇3>
「指示をくれ、ダンテスク、や、奴が現れた」
アルゴは決して慌ててはいけないと言い聞かせながら、出来る限りの早足で廊下を駈ける。
マリオンの診療所には廊下にも所狭しと薬の原材料や、その残り屑が置かれていた。それを蹴飛ばさないように気をつけて、アルゴは何とか自分の部屋にまで辿り着いた。
そしてベッドの下から革のカバンを引きずり出し、奥に押し込んでいたイヤーカフを耳に装着する。
「おい、ダンテスク、聞こえているか?」
早く応答しろ。
いや、いつだってダンテスクは忠実な召使いのように、すぐ傍で待機している。
このときもすぐに返答が来た。
――奴は?
「おお、ダンテスク!」
アルゴはダンテスクの声が聞こえて、思わず歓声に似た声を上げる。「や、奴は診察室にいる。頭痛の発作に苦しんでいるようだ。手持ちの薬が切れたのか、薬の処方を依頼してきた。幸いにも今、マリオンはいない。俺は今、奴のために薬を探している」
あまり時間もかけられない。奴を待たせ続けると、こっちの行動を怪しまれるだろう。さっさと目的のクワバミの葉を見つけなければいけない。
アルゴは部屋を出て、クワバミの葉があるはずの、奥の物置部屋に向かう。
――わかった、アルゴ。まず落ち着くんだ。君の言葉が聞き取りにくい。
恐怖と緊張で、口でガチガチになっているようだ。あの魔法使いと会話していたときと比べると、随分落ち着いたつもりであるが、まだまだのようだ。
アルゴは何度も何度も深呼吸して、高鳴る動悸を鎮めようと試みる。
「俺はどうすればいい?」
――出来るだけ、奴との会話を引き伸ばすんだ。
「わかった」
――そのとき、彼からイヤーカフが見えないよう、髪で隠しておくように。
ダンテスクに言われるまでもなく、もちろんやっている。魔法使いだとばれた瞬間に殺されるのは間違いないのだから。
「それから?」
アルゴは薬の棚を必死に漁りながらも、ダンテスクとの会話を続ける。
――上手く誘導して、こっちが指示するキーワードを奴に言わせて欲しい。
そうだ。これがこの任務の目的。もちろん忘れていたわけではない。
――その男に言わせるキーワードだが。その選択が難しい。君が上手く誘導して、その男に何か言わせることが出来ると思うか?
「無理だろう」
この前の少女のようにはいかない。いくわけがない。さっきもずっと、会話の主導権は奴に握られていた。
この言葉を言ってくれと、アルゴがその魔法使いにさりげなく頼んだとしても、奴がそれを口にするわけはないし、そもそも奴の前で怖気つくこと確実なアルゴに、そのようなことを切り出すことは不可能である。
――自然な会話の流れの中で、その男が必ず言ってくる言葉。そのような言葉があればいいのだが・・・。
「早く指示してくれ。時間がない」
アルゴは声を荒げる。
――今、考えている。
「今考えているだって?」
アルゴがここに忍び込んでから、それなりの日数が経っているというのに、ダンテスクはまだ、その肝心のキーワードを考え出してくれていなかったなんて!
アルゴは無責任なアルゴに怒りを覚えた。
この仕事は彼にとって、第一に優先すべきものではないのか? 他にも仕事があり、そっちに時間を取られているとしても、あまりに緩慢。
それとも、もしかしてダンテスクはこっちが考えているほど有能ではないのではないだろうか?
いずれにしろ、あまりに頭に血が上ったので、あの魔法使いへの恐怖や、重要な任務を前にした緊張感が、一気に吹き飛んだほどだ。
――ずっと考えていた。しかし適当な言葉が思いつかないのだ。
ダンテスクは申し訳なさそうに言ってくる。そのような態度も、ダンテスクの頼りの無さに映る。
「何でもいいのか? 奴が口にさえすれば?」
仕方ない。ダンテスクが頼りないのであれば、自分で切り抜けるだけだ。
――予め決めておけば、俺のほうでそのキーワードにターゲットを絞る。何でもかまわない。
「ならば、この言葉でどうだろうか。『君もこれを飲め』だ」
――君もこれを飲め?
「彼は必ずそう言ってくるはずだ。クワバミの薬の毒見役に、俺を選ぶに違いないのだ。しかも断ったりすれば、何度も言ってくるに違いない」
あの魔法使いは当然のこと、今日始めて顔を合わせたアルゴを信頼してはいない。その薬に毒などが入っていないか確かめるため、それを飲むように命じてくるであろう。
――わかった、君が確信しているならば、それでいこう。
クワバミの葉も見つかった。予想通り、奥の部屋の小箱の中だった。ライ麦の麦角、ケシの葉、藍の葉と共にそれがあった。鍵がかかっていたが、その鍵のありかは知っている。
あとは、それを煎ずるための各種の器具が必要だ。アルゴはそれもトレイに載せる。
――成功を祈る。
「ああ」
そう答えようとしたときだった。「おい、君は薬を見つけるのに、こんなにも時間がかかるのか?」そんな声が聞こえてきた。
あの魔法使いの声である。その反響の仕方は、扉越しではなかった。奴は奥の部屋の中にまで入ってきたようだ。
ばれたのか?
アルゴは思った。その魔法使いの能力をすれば、ダンテスクとの会話を盗み聞きすることくらい簡単なのかもしれない。
しかし本当に盗み聞きしていたのなら、こんな感じで声を掛けてくるであろうか?
もしアルゴの正体を悟ったのならば、その瞬間に命を奪っているのではないだろうか?
いや、もちろん、薬を手に入れた後に殺すつもりなのかもしれないが。
「君は無能な助手だな。薬の一つもすぐに見つけ出せないなんて」
それは心底苛立っているといった声の響きだった。
あまりに頭痛が激しくて、待っていられなくなったのかもしれない。それくらい切羽詰った感じが伺える。
(大丈夫だ、まだ、ばれていない。奴は焦っているだけ)
「み、見つけたよ。すぐに持って行く!」
アルゴも大声を出して返事する。最後の器具をトレイに載せ、部屋のほうに向かおうと振り向く。
「調合は僕の前でやれ」
そのとき魔法使いの影が、彼が進もうとした廊下の角に映った。
そのあとすぐに本人の姿が現れる。
手に何か武器を持っているのかと思ったが傘だった。それを杖代わりにして歩いているようだ。
「ああ、そうさ、そうかもしれない。どれだけ激烈な痛みなのか、君に説明するのを忘れた僕が悪いのかもしれない」
魔法使いの姿を見て、アルゴはまた恐怖の渦の中で溺れそうになる。全てを放り出して、ここから逃げ出したい。
しかし奴は先程よりも顔色が悪くなっているようだった。激烈な痛みを耐える中、口の中を切ったのか、唇の端から血が流れているのが見えた。
その赤い色が鮮烈に目に映えた。
「だ、大丈夫かい?」
アルゴは本当に心配になって尋ねた。
「ここで、すぐに調合しろ」
魔法使いは傘の柱を滑り落ちるようにして、その場に倒れ込んだ。
しかし意識などは失っていないようだ。さっきまでと同じような鋭い眼差しで、アルゴを見つめてくる。
「ここで?」
狭い廊下だ。アルゴは敵の魔法使いと膝をつき合わせるくらいに接近していた。
彼の苦しげな呼吸が、間近で聞こえる。苦痛が混じった彼の息の匂いも。
「わ、わかった。だけど調合に不馴れで、少し時間が掛かるかもしれないけど・・・」
この男は彼の敵で、下手なことをすれば自分の命も容赦なく奪ってくる男である。
いや、それどころか、この魔法使いの巨大過ぎる力はこの世界すら脅かす。
出来ることならばこの世界に存在すべきではない男。いずれ九人で力を合わせ、殺すつもりの相手。
しかし目の前で苦しむ姿は痛々しかった。出来ることならば、すぐにその痛みを取り除いてやりたい、そう思った。
アルゴはその魔法使いの苦しみに、憐れみの情を催していた。
彼はすぐに薬の調合に取り掛かった。
とにかくその葉を擂り潰せばいい。少し力が必要であるが難しいことではない。
そして水を混ぜて飲みやすくすれば、それで完成だ。
「早くするんだ」
魔法使いが容赦なく急かしてくる。
アルゴは震えそうな指を何とか抑えつけながら、葉を擂り潰す。そしてそこに水を混ぜる。更にそれをコップに移す。
「で、出来た」
何とか完成した。アルゴは男の口元にそれを差し出す。魔法使いはそれを一瞥して、苦い笑いを浮かべながら言った。
「僕を殺すつもりかい? クワバミの葉を入れ過ぎだ。もっと水を混ぜろ。これがどれだけの劇薬なのか、君は少しも理解していないようだ」
「す、すまない」
アルゴはもう一つの器に擂り潰した葉を移し、更に水を混ぜる。
「うん、それでいいよ」
魔法使いは頷きながら、アルゴの手からその器を取る。アルゴはその男に褒められて、心が浮き立つくらいに嬉しくなってしまった。
しかし男は言った。
「僕は君を信用していない。これがクワバミの葉だという確信もない。あるいは、余計な何かが混ざっているかもしれない。こんなものが飲めるほど、僕は愚かじゃない」
「い、いや、しかしこれは」
「毒見役をしろ。君が先にこれを飲め」
(言った・・・)
「な、何だって?」
アルゴは呼吸が止まりそうになるほどであったが、何とかそうつぶやいた。
(ダンテスク、聞いたか。俺は任務に目的を果たしたようだぞ・・・)
「君もこれを飲めといったんだ」
「俺も? でも、これはかなりの劇薬なんだろ。そんなことしたら」
「君の今日は台無しになるだろうな。いや、明日になっても、まっすぐに歩けないほど意識の混濁は続く。この薬に馴れていないならば確実に。それでも飲め」
「・・・わかった」
自らが飲まなければ、それは毒ということになる。アルゴはそれを一気に飲み干した。
吐き気がするような味だ。草と土を口に入れたような。
しかしアルゴにとって、勝利の味がする。
(これで目的は果たした。あとはここから生還することだけを考えればいいんだ)
「ところで」
そのとき、その魔法使いが言った。「僕は嘘をつくのは下手だけど、人の嘘を見抜くのは得意なほうだ。君は嘘をついているな」
薬を飲み干すアルゴを観察するように見ていた魔法使いが、そんなことを言ってきた。
「え?」
「しかしこれはクワバミの葉であろう。間違いない。僕の痛みは限界だ。飲むことにする」
魔法使いも薬を飲み始めた。彼の細い喉が膨らみ、そこを大量の液体が通過していくのがわかる。
「だとすれば、君の嘘は何だろうね?」
薬を飲み干した魔法使いの表情や口調から、さっきまでの焦りや切迫感が消え始めていた。これで楽になる。そんな安堵感が、彼の表情の上に、じわりと広がっている。
しかし焦りや切迫感が消えた代わりに、その魔法使いはアルゴの心臓を突き刺すような鋭い視線を送ってくる。
「う、嘘なんて」
「そもそも君の存在自体が不自然だ。何か引っ掛かるのさ」
「そ、そんなこと言われても・・・」
(ば、ばれたのか? やはり俺はここで死ぬのか? しかし、目的は遂げたのだ。誰かのためになることをした。それは想像以上に誇らしいことだ。なあ、ダンテスク。出来ることなら俺の功績を後の世に伝えてくれ)
アルゴは覚悟を決めた。恐怖も何も感じない。それどころか、とても重要なことを成し遂げたという充実感が、全身に漲っている。
彼を探るように見つめている魔法使いの顔が、ぐにゃりぐにゃりと揺れ始める。
どうやら薬が効き始めたようだ。何もかもが自分の遠くで起きている出来事のようで、全てがもうどうでもよくなってきた。
床のほうに、自分の身体が強烈な力で引っ張られるような感触がする。
彼はどうあがいても、それに抗することが出来ない。それには不思議な快感も伴っていた。アルゴはただ、その快感に身をゆだねる。
「しかし君が何か嘘をついていようが、僕に対して悪意を抱いていようが、そんなことは実際のところどうでもいい。君程度の人間に、僕が傷つけられることはありえない。君を許そう」
魔法使いがさっと立ち上がった。意識が混濁し始めたアルゴには、それが信じられないくらい巨大な姿に映った。
「それに君に助けられたことは事実だからね。痛みが消えていく。随分楽になったよ」
その言葉を聞いたのを最後に、アルゴは意識を失った。