31)アルゴ <薬屋2>
マリオンの部屋には凄まじい匂いが立ち込めていた。
例えるならばそれは苦い匂いである。苦くて、どこか教条的。
口の中がざらざらして、食欲は失せる。
もちろん薬草の匂いだ。その中にマリオンの老いた体臭も含まれているかもしれないが、薬草の放つ匂いはそれをかき消すほどの凄まじさ。
薬草だけではなく、蝙蝠や蛙、蛇にサソリの干した物なども、薬として使っているようである。
どれが強烈な匂いの元になっているのかわからないが、全てが渾然として、アルゴの鼻に襲い掛かってくる。
最初はその匂いから、どうすれば逃げることが出来るかばかり考えていた。しかし三日ほど経てば馴れた。
まるでその匂いが気にならなくなった。街を歩くとき、すれ違った人たちが顔をしかめるので、その匂いは消えたわけではなく、アルゴ自身がその匂いそのものになったようだ。
抜け目のないその魔法使いが信頼を寄せているだけはあり、マリオンは仕事にはかなり熱心なようであった。
小さな戸棚や瓶が立ち並ぶ診察室の光景は壮観で、ここには世界中の良薬が集められていると言ってもいいくらいである。
数え切れないくらいたくさんの引き出しのついた整理戸棚には、全て律儀にラベルがつていて、「当帰」「熟地」「大黄」「芒硝」などと丁寧な文字で書かれてある。
マリオンはその戸棚を開け閉めして、常に各種の薬のストックが足りているかどうかチェックしているし、在庫が少なくなっていることに気づけば、すぐに手紙を認めて、原料を取り寄せるようにしている。
診察室の隣には作業場がある。そこで薬の調合をしたり、取り寄せた原料から薬のエキスを抽出したりしているようだ。
その為の器具も各種揃っている。三角形や丸型などのガラス製の容器、秤、薬をするための乳鉢や乳棒、石臼。大きな竈には火が焚かれていて、今まさに鍋がグツグツと煮えている。
どれもが使い古されていているが、清潔さは保たれているようだ。
マリオンの患者に対する態度も誠実であった。居丈高で、支配者のように傲慢であるが、その腕は確かなようで、彼の診察に苦情を言ってくる患者は、今のところ皆無。
アルゴのことを自分の甥だと思い込んでいるマリオンは、熱心に薬のことを教えてくれた。
しかし初歩の初歩からだ。もちろん、それが重要であることは理解しているが、このように基本から勉強している時間はなかった。彼はただ、あの魔法使いに対して処方している薬についてだけ知りたかった。
「ダンテスク、彼の頑固さをどうにかしてくれないか。これでは時間がいくらあっても足りない」
――わかった。マリオンの茶色の感性を、もっと薄い色に変えてやる。しかしその先、彼を説得するのは君の役目だ。
「ああ、努力してみるよ」
「誰と話してるんだ、アルゴ」
隣の診察室にいるアルゴが声を上げる。
「別に。ところでおじさん、俺も頭痛が酷いんだ。その薬には何がいいんだろうか?」
「どのようなときに頭が痛くなるんだ?」
マリオンは医者らしく、アルゴの診察を始めた。
真剣な眼差しのマリオンを見て、アルゴは自分のついた嘘に少し心を痛めたが、今更退くわけにはいかない。
「そうだね、やっぱり疲れたとき、寝不足のとき、何か心配事があるとき、強い光を見たとき」
アルゴは一般的な原因を並べてみる。
「医療には二種類ある。病や痛みを、元から断つための医療と、症状を緩和するための医療だ。頭痛には後者しか効果がない場合が多い」
「すなわち決して完治はしないということ?」
「一生その痛みと付き合うか、何も出来ないまま、あっという間に死に至るか。知らぬ間に治る場合もあるが、いずれにしろ今の医療では歯が立たない病気の一つであろう」
「なるほど。早速、薬を処方して欲しいのだけど」
マリオンはいくつかの薬を出してくれた。これは血管を収縮させる薬。これは眩暈を抑える薬。これは鎮痛剤、薬を飲むと胃が荒れるので、胃薬を同時に処方することが多いらしい。吐き気が伴うときは、それを抑える薬も。
それらの薬に関しても、彼は色々と講釈を述べてくれた。どうやらマリオンは自分の知識をひけらかすのが好きな性格のようである。
「これはシロヤナギの樹皮を細かく砕いて作った薬だ。こっちはナツシロギクで作った薬。オレガノの葉もいい。イチョウも使える」
「激烈な頭痛持ちの患者にも、このような薬を処方するのだろうか?」
アルゴは尋ねた。
「そうだな、眠れないくらいの痛みには劇薬も必要だ。その為の薬も各種取り揃えておるぞ。まずこれだ」
マリオンは部屋の奥に行って、なにやら小箱のような物を取り出した。それをアルゴの前で開ける。そこには親指くらいの小さな瓶がいくつか入っていた。
「これはライ麦に生える麦角、扱い方を間違えば猛毒になる。手が黒ずんで、幻覚に苦しみながら死ぬ。しかし上手く活用すれば頭痛に効く。麻薬の一種だが有効な薬だ。麻薬と言えば、当然ケシの葉も痛み止めに使える。藍の葉もお勧めだ。布を染める顔料にも使われるが、頭痛の薬としてもいける。まあ、しかしお前の頭痛には必要ないだろうが」
「魔法使いの客が来ると言ってたよね、とてつもない頭痛持ちの」
アルゴは本題を持ち出した。自然な流れではない気もするが、その魔法使いに興味があることをマリオンに知られても構わない。
いや、むしろ上手く誤魔化せる気がしないから、開き直ってそれを前面に出そう。頼むぞ、ダンテスク。マリオンの心を上手く操ってくれ、彼は心の中で祈る。
「言ったかな、そのような話し」
マリオンが自分の記憶を辿るように、目を宙に泳がせる。
「ああ、言ったよ、確かに」
「その魔法使いは、ここの上客だ。奴が来たときは丁寧に扱うがいい」
「ああ、もちろん。彼のような患者に出す薬は?」
「一般的な頭痛薬だけでは駄目だ。さっき説明した劇薬も処方している」
「麦角やケシの葉も?」
「うむ。しかし彼は原材料だけを取りに来る。自分で調合しているらしい。毒殺されることを恐れているのだ」
「さすが高名な魔法使い、用心深いようだね」
「なぜ、そいつに興味を持つ。危険な男だぞ。深く関わらないほうがいい、我が甥よ」
「なぜって、俺が魔法使いに憧れているのは知ってるだろ? 彼と話してみたい」
「駄目だ。失礼があってはいけない。ここの稼ぎの三分の一近く失うことになる」
「出来れば、俺に彼の対応を任せて欲しい」
「駄目だと言っているだろ」
「どんな性格の人かな?」
「さあな。若いくせに偉そうで、いけ好かない男だよ」
「ふーん」
「一見どこかの優男風だが、他の人間と種類が違うというのは誰が見てもわかるはずだ。妙な余裕を漂わせているんだよ。気に入らないことがあれば、いつでも殺せる。態度でそのようなことを匂わせてくる。魔法使いというのは異常な人間ばかりだ」
「そんなものかな」
「ああ、本当に苦手な男だよ。いずれまた、奴が来るのかと思うと気鬱になる」
マリオンの考えが急変し出した。どうやらダンテスクの魔法が利き始めてきたようだ。
突然、相手の意見がぶれ始めるというのは妙なことである。上手く表現出来ないが、何ともいえない嫌な不安感を覚えるのだ。
「だったら僕に任せて欲しい」
とはいえ、アルゴがそれに乗じないわけにはいかない。
「いや、しかし奴は上客なんだ。お前に任せるわけにはいかない。それにさっきも言ったとおり、本当に用心深い性格だ。見慣れない男から手渡された薬など、受け取るわけがない」
「その場に立ち会うだけでいい。魔法使いに会ってみたいのさ」
「わかった。それくらいは構わないだろう。しかしくれぐれも失礼なことを言うなよ」
マリオンがまだモゴモゴと何か言っているが、アルゴは意識をダンテスクのほうに移す。
――これで、何とか魔法使いと会えそうだな。マリオンも立ち会うようだが、無理に二人きりで会う必要はないだろう。このやり方で問題ない。
ダンテスクからの言葉が聞こえる。
「しかし本当にばれないだろうか? マリオンも言っていたように、魔法使いには魔法使い独特の雰囲気があるに違いない。魔法使い自身は更にそれに機敏」
街ですれ違っただけで、その者が魔法使いかどうかわかることがある。
魔法使いらしい格好をしていなくてもである。何やら他と違う感触、自分と同種の匂い、そのような気配を感じることがあるのだ。
――それと同時に、魔法使いと知らずに、すれ違っている者の数は数えられないはずだ。気にし過ぎることはないだろう。もし、そのような匂いがあるとすれば、今からそれを必死に消すんだ。アルゴ、奴が現れるまでの君の課題だ。
わかっている。ダンテスクに言われるまでもない。それを上手く隠し通さなければ、彼らの計画が失敗する以前に、アルゴが命を失うことになるのだから、彼は必死だ。
死ぬつもりはない。ダンテスクに言われるまでもなく、アルゴは自分の立ち居振る舞いから、魔法使いらしさを完全に拭い去るつもりである。
幸いにも彼の身体には欠損がない。
魔法使いの中には、魔族との契約の前に、自ら手足を切り取ったり、片目を潰したりする者がいる。
それは少しでも強い魔族と契約したいという意欲、覚悟の現れ。魔族は何か大きな代償を払った魔法使いを、契約相手に選ぶことが多いのである。
そこまでして強い魔法使いになる覚悟がなかったアルゴには、そのようなスティグマ、烙印はない。だから、「どことなく漂っている魔法使い的な雰囲気」さえ消し去ることが出来れば、医師を志している若者に見えるはずだ。
「しばらく魔法を使わないことにする。この通信も切る」
このようなやり方で、「魔法使い的雰囲気」などが拭い去られるかどうか知らないが、思いつく手段はこれくらいである。出来るだけ魔法から遠ざかる。それだけだ。
――仕方ないだろう、了承する。しかし標的の魔法使いがここに来たときには再開するんだ。さもないと、奴のゲシュタルトにチューニングを合わせることが出来ないのだ。
「もちろんわかっている」
――それでは、その日まで無事で。
耳の奥に直接響いてくるざわめきが消え、深い静寂が押し寄せてきた。
ダンテスクとの通信が切れると、異郷に一人で取り残されたような気分になった。
少しばかり、心細い感じがするのである。これまでダンテスクの便利な力にどれだけ頼ってきたのか、改めてわかった気がする。
この日を境に、アルゴはこれよりも更にナーバスになった。自分のような者が、その抜け目のない魔法使いを騙すことが本当に出来るのだろうか? そんな不安を感じて、居ても立ってもいられなくなるのである。
「アルゴ、最近、顔色が悪いぞ。眠れていないのか?」
マリオンにも心配されることが多くなった。
「な、なんでもない。大丈夫だよ」
(魔法使いだと見破られてしまえば、確実に殺されるはずだ。九人がかりで殺ろうとしている相手、俺一人の力で叶うはずもない。何の抵抗も出来ずに終わるだろう)
この任務を放棄して、ここから逃げようか?
アルゴは不安のあまり、このようなことも考えるようになった。
自分には大き過ぎる仕事だ。別に逃げることは恥ではない。それで生き延びることが出来るのならば。
むしろ、背伸びして死に急ぐほうが愚かな行為。
アルゴは逃走を本気で考え始めた。しかしその決断を決する前に、そのときが突然やってきた。魔法使いが何の前触れもなく、アルゴのもとに現れたのだ。