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13)語り手 <屋敷>

 その頃、激しい戦闘が行われているこの建物から少し離れた教会の路地裏で、片足の老人が声を限りに叫んでいた。


 「何と言うことだ! これはとてつもない浪費。今、この街で、巨大なエネルギーがぶつかり合っている。それは共に邪なるもの。この戦いに大義はないぞ。エゴとエゴが衝突しているだけ。俺には見えるのだ、その醜さが」


 その老人は、道行く人々を引き止めながら、その言葉をわめき散らしていた。

 まるで預言者が警告を発しているかのよう。しかし老人の言葉は聞いた者は、その老人を哀れむように見返すか、それとも煩わしそうに煙たがるかのどちらかで、足を止めるものは誰一人いない。


 それでも老人は叫び続けていた。


 「宝石が砕ける音が聞こえるだろ? 聞こえないのか? 耳を澄ませるのだ! それは我々の財産でもある。奴らが好き勝手に使っていいものではない。誰かその戦いをやめさせろ。それは二項対立ではない。同義反復に過ぎない」


 子供が数人、物珍しそうに老人に近寄っていく。


 「おお、君たち若き者よ、幼き者よ。もっと私に近寄り、その言葉に耳を傾けよ!」


 しかし、その老人のあまりに興奮した面持ちに恐れをなしたのか、近寄りかけていた子供たちも逃げていく。それでも片足の老人は声を限りに叫び続けている。


 そこから更に遠く、哀れな老人が声を限りに叫んでいるその教会の路地裏から、はるか遠く離れた郊外の森の、ある屋敷の奥の離れの一室では、寝たきりの青年が空虚な瞳で天井を見つめていた。

 その青年にはもしかしたら、老人の叫びが聞こえているのかもしれない。しかし聞こえていたとしても、彼はその警告を黙殺するだろう。


 その青年は生まれつき身体が不自由で、自分で食事することも出来なければ、寝返りを打つことも出来なかった。

 彼の身体の中で動くものは、その大きな目と、細い首だけ。声を出すことは出来るが、舌は歯先の裏でこわばっているので、意味のある言葉を喋ることは不可能だった。

 目の玉をキョロキョロさせながら、うーうーと呻く姿は、まるで傷ついた草食動物のようで、彼の姿を見た者たちは、誰もが深い憐れみの情を抱くのが常であった。このような病苦を背負う青年と、彼の面倒を見続けなければいけない家族に対して。


 その青年が生まれた家は名門貴族の端くれで、その屋敷は大きく、継承している伝統は、いたるところに痛みが目立つ屋敷と同じくらい古く、由緒正しいかった。

 貴族だからといって経済的に豊かだとは限らない時代である。彼の一族も貧しい貴族の部類に入る。

 しかしこの青年の面倒を看続けるのが不可能なくらい、余裕がないわけではない。彼がもし平民の階級に生まれてれば、生まれてすぐに捨てられるかしていたであろう。それなりの家柄に生まれたお陰で、彼は生きることが出来ている。


 しかし、その青年の存在は一家に経済的な逼迫をもたらしはしなかったが、常に一族の心を暗く曇らす原因にはなっていた。

 その青年の強張った四肢には、生々しい運命論が漂っていて、誰もが生きるということについて考えざるを得なくなる。

 それは運命だったのか、あるいはちょっとした偶然がもたらしたアクシデントだったのか。はたまた、なぜか自分ではなくて、彼だったのか? 


 彼の世話をする者たちは日中付きっ切りで、夜も目を離すことは出来ない。眠っている間に、痰を詰まらせることがあるかもしれないから。


 「そこまでして、こいつを生かし続ける理由はあるのか?」


 それは、彼の弟や妹、彼の面倒を押し付けられているメイドたち共通の思いだった。彼を産んだ母すら、彼の速やかなる死を望んでいたらしい。頭の中に廻り続ける、それらの哲学的な問いと対立することに疲れてしまったのかもしれない。


 しかし、そんな中、彼の父親、この屋敷の主だけが、この寝たきりの青年を庇い続けるのであった。


 「この子は特別なんだ。いつか我々に、大いなる幸福を運んでくれる。きっと神の子なのだ。我々は神から、その神の子の面倒を看ることは命ぜられたんだよ」


 彼の父親が、それを本気で信じていたのかどうかわからない。他の家族を納得させるための詭弁だったのかもしれない。。あるいは、自らにそうやって言い聞かせ、逃げたくなる気持ちを抑えていたのかもしれない。

 いずれにしろ、彼の父は優しく繊細な男性であった。出来損ないだからと言って、自分の息子を始末することが出来るような性格ではなかった。


 さて、この日、その青年の世話を勤めるのは、メイドのマリアであった。

 この日と言っても、この青年の世話をするのは彼女の他にもう一人いるだけである。その女性とマリアの二人で、昼夜交代で面倒を看ているのだから、彼女がその青年の傍にいない日などないのであるが。

 しかし、それは別に辛いことでもなかった。この青年の呼吸が止まらないように見張っているだけの仕事である。ときおり、伸びてきた爪を切ってあげたり、身体を拭いてあげたりもしているが、それだってどうということもない。

 貧しい階級に産まれた彼女からすれば、この屋敷で寝起きが出来て、それなりに美味しい食事にありつけるだけでも幸せである。


 確かにずっとこの青年と二人きりでいるのは息が詰まる。退屈だって感じる。しかし逆に言えば、ずっと二人きりで、決まった時間以外は誰もやってこないので、この部屋で男と逢引することも可能だ。

 マリアはこの屋敷で働く若い園丁を部屋に連れ込み、その青年の面前で愛を交わしていた。

 自分のみだらな姿をこの青年にさらすことに、マリアはちょっとした背徳感を覚えていたのだ。それは彼女に妙な興奮をもたらすのであった。実際、この寝たきりの青年は彼女の痴態を見て、欲情している。


 あるとき、彼女は思いついて、シーツをめくってみたところ、その青年の下半身が激しく反応しているのを見つけたことがある。

 まだ髭が生える気配もない年頃のことだ。このような病気に見舞われ、人生の楽しみを何一つ味わうことなく死んでしまうなんて悲し過ぎる。だから、せめて私が、他の少年たちよりも少し早めに大人の楽しみを教えてあげよう。

 そんなことを思いながら、マリアは彼の下半身に刺激を与える。自分の乳房を口にふくませてやる。

 快楽のない人生に幸福はない。それが彼女の人生観だった。彼女はこうして青年を喜ばせることで、神に奉仕しているような気分になった。いつかその奉仕が、自分に返ってくるかもしれない。あたかも、徳を積んでいるような気持ちになるのだ。


 しかしあるときから、その反応がぴたりとなくなった。

 何か健康に異常が起きたのかと思ったが、誰にも報告出来ない。「いつもは激しく反応なされている、お坊ちゃんの下半身の一部が動かなくなりました」そんなこと言えるわけがない。

 それ以来、マリアは青年に深く関わることなくなった。淡々と身体を拭き、爪を切るだけ。園丁との仲も冷めて、時間を持て余すことが多くなった。仕方なく、彼女は本を読むことにした。貧しい家庭の出であるが、貴族の屋敷で奉公出来るほどなので、それなりの学はある。


 「行け!」


 仕事が一段落して、マリアが読みかけの本を手に取った瞬間、その青年が興奮した声でそのように叫んだ気がして、彼女は驚愕しながら青年のほうを見た。

 彼女は恐る恐るベッドの傍に行き、覗き込むようにして、青年の表情を見守る。


 「ううん、何も言ってないわ。驚かせないでよ」


 相変わらず、青年の目は死人のようにうつろである。口から垂れている涎も無様だ。


 「何か言うはずがない。だってこの人は本当に可哀想な生き物。ああ、こんなふうに生きているくらいなら、死んだほうがマシだわ」


 マリアはその瞳に同情をたっぷりと湛えつつも、吐き捨てるように言った。

 彼のような身体に産まれなくて良かった。彼女は心の底からそう思い、現在の自分のささやかな幸福に思いを馳せる。


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