空
その日、街は炎に包まれた。
「お嬢様!」
バタバタと騒々しい足音を立てながら彼女がかけてくる。
「空、そんなに足音を立てて。はしたないわよ?」
「そんなことはどうでもいいんです!」
仮にも主人(の娘)である私の言葉を『どうでもいい』の一言で彼女は切って捨てる。
「いったいどうしてこの家にいるんですか!」
「どうしてって、当然じゃない。ここが私の家だからよ」
「そうではなくて!」
「じゃあどうだっていうの?」
「疎開されたはずでしょう!」
「ああ、そのこと」
どうしたものかと、頬に手を当てて少し考える。
どうせどう話しても納得してもらえないだろうし……。
「やめたのよ」
「はぁ?!」
「なんで好き好んでこの私が田舎に行かなければならないのかしら?」
「身の安全のためでしょう」
「あ、あら」
真顔で返され、すこしたじろぐ。
いつものように怒鳴っているのならまだしも、真顔で冷静になったときは彼女が怒っているときだ。
「お嬢様」
「……はい」
「いい加減にしてください。そんなわがままで疎開をやめたのですか?馬鹿なのですか?いえ違いますね。馬鹿なのですねもう疑いの余地もなく」
「あ、あなた一応私は―」
「それとこれとは話が別です。それに、お嬢様にもしものことがあったら、どれほど多くの人が悲しむと思っているのですか」
「だって」
「だってじゃないです。とにかくもう一度私のほうから旦那様に話をいたしますので」
「え……いいわよ、そんなことしなくても」
「今度は、断らないでくださいね!」
「……。」
「お返事がないのですが」
「わかったわよ」
私の返事を聞くと、「まったく、もう」とため息を吐きながら、彼女は父の書斎へと向かった。
「……でもあなたは、こっちへ残るのでしょう?」
ぼそりと呟いた言葉には、当然返事なんて返ってこなかった。
私のお仕えする屋敷には一人の少女がいる。
そもそも私がこの屋敷に使えることになったのも、孤児だった私を彼女がここに連れてきたからだ。そのときに『空』という名前もいただいた。
しかしこんな言い方はどうかと思うのだが、彼女は馬鹿なのかもしれない。
良縁なはずのお見合いは何度も断るし、危ないからと疎開を勧められても、いつも首を縦に振らない。
見かねた私が、そんなに勝手ばかりしていると、人が離れていきますよというと、決まってこういうのだ。
「だけど、空がいるじゃない」
彼女はいつだって自分の勝手を通して、気を張って。
そのくせ私には寄り掛かるのだ。
お嬢様は馬鹿だ。
本当に。
「華代!早く逃げなさい!」
倒れた柱に挟まれた父が、呆然と立ち尽くす私に叫ぶ。
「お嬢様!」
「そ、ら……?」
不意に手をつかまれ、ものすごい力で引き寄せられる。
直後、さきほどまで私が立っていた場所に、柱が倒れてきた。
「何してるんです!早く逃げますよ!」
「で、でも!お父様が!」
「他の使用人が何とかしますから!」
まるで気休めのような言葉だが、今の私にはその言葉に頷く以外の選択肢がなかった。
燃える屋敷を飛び出すと、そこに待っていたのは地獄だった。
周囲はただただ赤く、紅く。頬を熱風が撫でる。まともに目もあけていられない。そして鼻を刺すような臭い。そう、まるで人が焼けるような……。
「お嬢様、こちらです」
空に手を引かれて、私は何とか川の向こうへとたどり着いた。
「ここならもう大丈夫です」
疲れを全く感じさせない声で、彼女が言った。
「もう爆撃機も見えませんし、ここにいれば火の手が迫ることもありません」
「ねぇ、お母様は?」
「……私が部屋を見た時には、すでにいらっしゃいませんでした」
「じゃあ生きているかもしれないのね」
「ええ。もちろんです」
「お父様は……だめでしょうね」
「そんなこと」
「いいのよ。もう。目の前で見てしまったのだから」
「……。」
「……ごめんなさい。あなたを困らせたかったわけではなくて、ただ起きたことを自分の中で整理しようと思っただけなのよ。それに父は軍人なのよ。いつだって死ぬ覚悟はできていただろうし、こちらにもそれなりの覚悟は―」
「お嬢様」
不意に彼女に抱き寄せられた。
「いまは、気を張る必要はございません。自分を偽る必要はございません。ですから、どうか……」
ぽたり、と雫がこぼれた。
「うぅ……」
あふれる涙を抑えることができなかった私は、せめてもの抵抗にと、声を押し殺して泣き続けた。
結局、お母様は亡くなっていた。
屋敷から逃げ延びたはいいものの、外に出た先で炎にのまれたようだ。
「結局、あなたと二人きりね」
「一応伯父様がいらっしゃるでしょう。そのおかげで嫌がっていた田舎に行かずに済むのですから」
「田舎?誰が嫌がってたの?」
「は……?」
私の言葉に、彼女はあんぐりと口を開けた。
「お嬢様、言いましたよね?なんで好き好んで田舎なんかにって」
「……ああ」
「はぁ、まったくもう……」
「いいのよ、別に本気で田舎が嫌だったわけではないのだから」
「じゃあなんで―」
「だって」
戸惑う彼女をそばに抱き寄せて、風にかき消されそうな声で、私は囁いた。
「だって、あなたと離ればなれになってしまうでしょう?」
一九四四年三月十日。一夜にして十万人もの命が奪われた。
後の、東京大空襲である。