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禁じられたアリス  作者: 右藤秕
Ep02 赤黒の月
9/26

Ep02_03 変化

20150705 2章全体を1話10000文字以内で再構成。他、細かい修正。


―――――――――――――――――――

◆アリスの帰宅

―――――――――――――――――――


 北浦上町の南西に建つ小奇麗なアパート「オーチャードスロープ」が現在のアリスの居場所だった。

 大家の桜テセラという女性は、アリスの遠い親戚で、両親をなくした彼女をアパートにタダで住まわせ、食事など色々と面倒を見ていた。

 このアパートは女性専用で、他の住人も面倒見がよく、アリスも寂しい思いをすることは少なかった。


 帰宅したアリスの目の前に、ひとつの段ボール箱があった。留守中に配達されたものらしい。差出人は国連枢機軍となっていた。彼女の亡くなった父親の遺品が、事務手続きの混乱で彼の死後数カ月を経てやっと、娘の元に届いたのだ。

 彼女の美しい長髪がすこし寂しげにゆれ、強い光を帯びた瞳に鈍い灰色の影を落とした。しばらくその箱を見つめていたアリスだったが、やがて、思い切ったようにふたを開けた。

 箱の中をかき回す。書類、筆記用具、各種メモリーカード、雑誌、ガラクタ。

 それと一枚の写真。

 幼いアリスと幼なじみの少年が二人、仲良くくっついて寝息をたてている。


「……こんなモノ、大事にしてたんだ。……父さん」


 写真を見つめる彼女の脳裏に、暖かくも懐かしい時間がよみがえる。


 3年前。

 それが当たり前だと思っていた、罪のない日々。よくかくれんぼをした裏庭。虫をつかまえた大きな木。他愛のない喧嘩。飽くことなく3人で駆けまわった、古い家の庭先。


 アリスは写真を机の上に置いた。この写真を撮った日のちょっとした出来事を、今でもよく思い出す。それは彼女の心の小さな支えであり、ぬくもりであった。

 ただ、この思い出は懐かしさとともに、胸の痛みをも呼び起こした。変わってしまった少年の事を思う。


「クロウ……」


 両親のいないアリスにとって、二人の少年は兄弟のような存在だった。出来る事なら、またあの時の三人にもどりたい。それが、今の彼女のささやかな願いだった。



―――――――――――――――――――

◆倫子

―――――――――――――――――――


 夕飯まではまだ時間があったので、アリスは飲み物でも買いに行くことにした。歩いて5分ほどのコンビニ「ヘブンレイブン」に向かう。


「ん?」


 彼女が買い物を済ませコンビニから出てくると、人ごみの中に見知った顔があった。


「よう、りんこ」

「あ、アリスちゃん」


 クラスメイトの綾村倫子(アヤムラリンコ)だった。彼女は、(シイナ)やクロウとともにアリスのおさななじみの一人だ。

 一見おとなしそうな普通の少女だが、その言動はしばしば普通ではなかった。

 特に目をひくのはその服装だ。どういうわけか彼女は、「あまり一般的ではない服装」をしていることが多かった。アリスはすっかり慣れてしまって、いちいちツッコみはしなかったが。


「ねえねえ、くろう君のこと見なかった?」

「さあ。見てないな。クロウに用なら、教室で話しかければいいんじゃないか? クラスメイトなんだし」

「でも、みんなの前じゃ恥ずかしくて」


 うつむき加減で、もじもじしながら倫子は言った。


「……一体なんの用なんだ?」

「あのね、渡したいものがあるの。くろう君に」


 倫子はそっとカバンを抱きしめた。「渡したいもの」とやらがその中に入っているらしい。その様子から、彼女にとってそれがとても大切な物なのだろう、ということがわかる。


「だったら、自宅に届ければいいだろう?」

「……じつはそれ、もうやったんだけど、ダメだったの」

「え?」

「どうしても直接渡したかったから、隠れてずっとくろう君を待ってたの。そしたら、なぜだかわからないけどおまわりさんがやってきて帰りなさいって……。なんでだろう?」


 この暑い季節にサンタ服で待ち伏せなどしていたら、危険人物だと怪しまれても仕方ない。付近の住民が通報でもしたのだろう。そう思ったアリスだったが、口には出さなかった。


「そうか。どうしてだろうな」

「世の中わからないことだらけだね」


 演技などではなく、本当に何もわかっていないのが倫子のある意味スゴイところだった。


「それで、あの……。くろう君が行きそうなとこ、知らない?」

「さあな。最近は、ほとんど遊ばないし」

「そうなの? 前はあんなに仲良かったのに」

「ふん。ただの幼馴染のクサレ縁だ」

「(でも……。くろう君はアリスちゃんのこと……)」


 倫子はうつむいて黙りこくってしまった。彼女は知っていたのだ。クロウがアリスに特別な感情を抱いていることを。

 アリスはそのことに気づいていない。いや、気づきたくなかったのかもしれない。


「たく、クロウのヤツどこでなにやってんだか。ちょっと待ってろりんこ。私が呼び出してやるから」

「え?」


 アリスは携帯端末を取り出した。倫子は今どきありえない話だが、携帯を持っていなかった。


「……アリスちゃん、くろう君の番号知ってるんだ?」

「まあ、腐れ縁だから……な。」


 そのことで倫子は少なからずショックを受けた。彼女にとって携帯で連絡を取り合うということは夢物語であって、それこそ、付き合ってでもいなければそんなことはありえないと思っていたのだ。もちろん、倫子の勝手な思い込みだが。


「なあんだ。やっぱり、二人は付き合ってたのね……」

「は?」


 ここで倫子の思考は一気に飛躍した。面食らったアリスが呆れた声を出す。


「何でそうなる?」

「だって、携帯の番号知ってるなんて、付き合ってる証拠よ」


 倫子のわけのわからない理屈に、アリスは一瞬言葉を失った。


「何をバカな。いまどき携帯の番号知ってるぐらいで大げさな。番号だけなら秕のだって知ってるし」

「なんだ、そっか。秕君も」

「そうそう」

「秕くんとも付き合ってるんだ。そうよね。アリスちゃんぐらいキレイでカワイければ二人の男の子と同時に付き合ったっていいよね」

「なっ……!!」


 冷静沈着なアリスが取り乱す。


「そんなわけあるかっ!」

「ああ、ごめんなさい。まちがえちゃった。秕君は付き合ってるんじゃなくてドレイにしてるんだっけ」

「ちがう!! だ、だいたい、私にとってクロウや秕はただの幼なじみで……、兄弟みたいなもので……、そんな風に意識したことは全くない! ありえない!!」


 アリスは真っ赤になって全力で否定した。完全無欠に見えるアリスにもし弱点があるとすれば、こういう話がニガテなところかもしれなかった。


「いいの。ごまかさないで。私は平気よ。アリスちゃんとくろう君はお似合いのカップルだもの」


 努めて穏やかな表情をつくろって、倫子は言った。しかし、あふれる熱い涙を抑えようがなかった。


「2人がケッコンするときは私もよんでねっ……!! うわぁぁあああああん!!!!」

「……は!? ケ、ケッコン!!?」


 泣きながら倫子は走り去った。ここだけ見ると悲劇のラブストーリーのように見えるが、それは気のせいである。


「お、おい、りんこ!!」


 彼女の常軌を逸した性格は昔から変わっていないが、あまりの思い込み暴走ぶりに、さすがのアリスもどうしていいか分からず立ち尽くすしかなかった。



―――――――――――――――――――

◆クロウ

―――――――――――――――――――


 アリスと別れた後も、倫子は家に帰る気にならず、あちこちクロウを捜し歩いた。

 ひとしきり歩き回った倫子はいつの間にか学校にまで来ていた。これだけ捜してもいないということは、クロウはもう家に帰ったのかもしれない。

 すでに太陽は山の陰に消えている。刻々と色を変える夕空に校舎が染まる。休日の誰もいない学校は彼女にはとても冷たく感じられた。


「もう、帰ろうか……」


 あきらめかけた倫子の視界の端に、小さな人影が映って消えた。校舎の屋上だ。それは一瞬のことだったので他の人間には区別がつかなかっただろうが、彼女にははっきりとわかった。


「――くろう君!!」


 屋上を目指して倫子は駆け出していた。

 開け放たれていたドアをくぐって、倫子は屋上に出る。

 校舎東棟に近い一角にクロウはいた。喜び勇んで声をかけようとした倫子だったが、振ろうとしてあげた手を弱々しく引っ込めた。壁際に立って身じろぎもしないクロウの顔には、凄まじい怒りの形相が浮かんでいたのだ。


「くそっ!!」


 クロウは、手にした木刀で打込台を思い切り打ち据えた。思わず倫子は身をすくめる。

 休む間もなく一心不乱に木刀は振り下ろされ、人型をした打込台の破片が飛び散る。

 とても声をかけられる状況ではない。かといってこのまま帰る気にもなれず、倫子は物陰から様子をうかがう事にした。


「どうしてだ!? なぜ!!?」


 木刀を振るい続けるクロウの脳裏に最近のスサノオの活躍がよぎる。同時にそのパイロットである秕の緊張感の無い笑顔が浮かんだ。


「なぜオレが秕ごときに負けなきゃならねーんだ!!?」


 クロウが直接秕と戦って負けたわけではないが、彼が手も足も出なかった敵を秕が倒したのだ。それはクロウにとって紛れも無い敗北だった。


「よりにもよって、あの秕ごときに!! しかも、あんな方法で!!」


 現在のクロウは、この学園でも一二を争うPM(プレイトメイル)のパイロットである。それは持ち前の才能と、日々の努力の結晶なのだ。

 それが、PMパイロットとして才能のカケラもない秕にあっさりと追い抜かれてしまった。陰陽道による、式神とPMの融合という非現実的な手段によって、ではあるが。

 しかしそれでも負けは負けである。どうしようもない敗北感がクロウの心を締め付ける。


「いままでのオレの努力は全部ムダだったのか!!? パイロットを目指して必死にやってきたってのに……!!」


 クロウは思い返す。枢機軍の施設に通って苛烈な特訓を繰り返した日々を。

 3年前。早くからその才能を見出された彼は、アリスの父であり枢機軍のエースと呼ばれた日宮静馬(ヒノミヤシズマ)に、特別な訓練を受けていた。

 当時10才程度の少年にとって、それは過酷なものだったはずだが、本人は全く意に介さなかった。いやむしろ、あくまでも楽しそうに、まるで遊んでいるようにコクピットに座り続けた。


「見てろよ。いつかオレが最強になってやる!!」


 その当時の彼の目には希望が満ち溢れ、自分に出来ないことはないと本気で信じていた。


 世の中には努力だけではどうしようもないことがある。かつてクロウはそんなことを秕に言った。だが今は、そのことをクロウ自身が身をもって思い知らされることになったのだ。


「……ちくしょう!!」


 最後にもう一撃を叩きこむ。手作りの打込台は、断末魔の叫びのような破壊音を響かせて砕け散った。よくみると、周りには似たような残骸が、新旧いくつも転がっていた。



―――――――――――――――――――

◆事件

―――――――――――――――――――


「……くろう君」


 物陰から見守る倫子には、どうすることも出来なかった。


「(アリスちゃんならくろう君のこと、慰めてあげられるのかな……)」


 そう考えると、なぜだか胸の奥が締めつけられるように痛んだ。

 その時、不意に倫子の肩をつかむものがあった。


「え!!?」


 振り向く間もなく、彼女はドアの内側へ引きずりこまれた。緊張感のない悲鳴を上げて、階段の下まで転げ落ちる。

 したたか腰を打ち付けた倫子が、顔をしかめながらゆっくりと半身を起こした。

 先ほどまで、この辺りに他の人間はいなかったはずだ。だが見上げると、明らかに普通ではない顔つきの男が三人、倫子のほうを眺めていた。その目はうつろで生気がなく、まるで死者のように焦点が定まっていなかった。


「え……? な、なんですか?」


 倫子の問いかけに答える者もない。無言で男達は倫子に群がってくる。昔見たB級ホラー映画のような出来事だった。彼らの手が倫子に向けて伸ばされる。


「い、いや……」


 いくら倫子でも、これが普通ではない危機的な状況であることは理解できた。体から力が抜けて、その場にへたり込む。男達は彼女の腕をつかむと、無言で引きずりはじめた。まるでモノでも扱うように。


 倫子は廊下の隅に連れてこられ、三人の男たちにとり囲まれた。これから自分の身に起こるであろうことを想像すると、恐怖で胸が押しつぶされそうになる。顔は青ざめ、全身が小刻みに震え、声を出すこともかなわない。男達は無表情に獲物を見下ろしている。そして……何の脈絡もなく一斉に倫子に飛びかかってきた。


「い、いやあっ!!!!」


 倫子は目を閉じ、気力を振り絞って叫び声を上げた。同時に、少しでも抵抗しようと体を丸めてガードする。

……だが、いつまでたっても何も起こらなかった。


「…………?」


 彼女が目を開けると、飛びかかってきたはずの男達がいつの間にか視界から消えていた。


「……あれ?」


 その代わりに、新たな人影が背中を向けて立っていた。周りには三人の男達が無様に横たわっている。その人物が三人を倒したのだろう。

 後姿だけでも倫子にはすぐにわかった。間違えるはずもない、幼馴染の少年の背中だった。最初の倫子の悲鳴を聞いて、駆けつけて来たのだ。


「くろう君!!」


 うれしそうに声をかける倫子を無視して、クロウは再び木刀を構えた。倒れていた男達が言葉もなく起き上がる。


「何なんだ、こいつら!!? りんこ、来い!!」

「う、うん!」


 クロウが倫子の手を引く。二人は出口を目指して走り出した。

 校舎の中には、先ほどの男たちのような、正体を失った人間が幾人も徘徊していた。

 襲い掛かってくる者たちを、クロウの木刀が次々と打ち払う。

 アリスや秕はクロウが「変わってしまった」というが、倫子にはそうは思えない。小さな頃の、みんなで野山を駆けまわっていた頃のクロウは、今でもここにいる。


 玄関を出るとそこには、ひときわ大柄の個体がクロウたちを待ち構えていた。

 倫子の手を放したクロウが一気に加速し、渾身の一撃を叩き込む。その時はずみで、クロウのポケットから何かが落ちた。

 男はゆっくりと崩れ落ち、動かなくなった。


「す、すご……。やっぱりくろう君て強いんだ!!」


 そう言った後、安心して気が抜けたのだろう。倫子の目に熱いものがあふれ出してくる。


「くろう君、ありがとう!!」


 涙をぽろぽろこぼしながら、倫子はクロウに駆け寄った。しかし、クロウは何も答えず不機嫌に背をむけ、戦いの途中で落とした自分の携帯を拾った。

 この携帯端末は、クロウがアリスの父ヒノミヤにもらった品で、枢機軍正式採用品の払い下げだ。大切そうにほこりを払う。

 少し古い形だが、彼はずっと愛用していた。携帯をしまうと、何も言わず、クロウはそのまま背を向けた。


「あ、あの――」


 倫子がクロウを呼び止めようとしたときだった。倒れた男を中心に、血の池が広がり始めた。

 倫子が短く驚きの声を上げ、クロウがたじろいぐ。

 男がもぞもぞとうごめいていた。いや、動いているのは男ではなく、男にまとわり付いている人の手の形をした「何か」だ。どうやらそれが今まで彼らを操っていたらしい。


「なっ!!?」


 いくらケンカ慣れしたクロウといえど、人ではないもののことまで想定していない。一瞬の戸惑い。そのスキをつくかのように、人の手の形をしたモノは伸び上がり、クロウに向かって一直線に突き進んでくる。もはや「それ」にとって、倫子のことなど眼中になかった。

 倫子の悲鳴がこだまする。

 咄嗟に身をひるがえそうとしたクロウだったが、彼の足元にまで達した血溜まりから別の腕が伸びて、彼の足をわしづかみにした。


「は、はなせ!!」


 渾身の力を込めてクロウは抵抗したが、人間にはありえない恐ろしい力で血溜まりの中に引きずりこまれてしまった。そこで一度、クロウの意識は途切れた。

 取り乱した倫子のクロウを呼ぶ叫び声が、学園を包む闇に吸い込まれていった。



―――――――――――――――――――

◆変化

―――――――――――――――――――


 気がつくと、クロウは真っ赤に染められた景色の中に立っていた。目の前には赤い霧がたちこめ、足元には赤黒い血のような液体で満たされた陰鬱な沼が広がっている。どうやらここは、クロウの意識の中の世界らしい。

 ふと、気配を感じて振り向くと、そこには黒いローブ姿の男が一人浮かんでいた。


「なんだテメェ!!?」


 とっさに身構えようとしたクロウの動きが、不意に止まった。彼の背筋に冷たいものが走る。


「う……!!?」


 男はそこにただ浮かんでいるだけだが、ただそれだけで、心を奈落に引きずり込むかのような恐怖をクロウに与えていた。


「(こいつ、こっちの世界の住人じゃねぇ!!)」


 直感的にクロウにはわかった。その男がヒトではないと。


「(……マガツカミか!!?)」


 全身に鳥肌が立ち、冷や汗がにじみ出る。クロウのすべての細胞が警告を発する。この世ならざるものへの、本能的、根源的な恐怖。


 ローブ姿の男がゆっくりとクロウに近づく。その、感情の全く感じられない銀色の瞳は、ただじっと彼を見下ろしていた。



**********



 冷たい夜の空気に満たされた校庭の隅に、すすり泣く少女の声が漂っていた。

 その少女の耳に、水滴の跳ねる音が届いた。音の方に目をやると、地面に広がる血溜まりに波紋が広がっている。波紋は少しずつ激しくなり、おもむろに、その中から人の上半身が這い出してきた。


「くろう君っ!!」


 血溜まりの中に引きずり込まれたはずの、クロウがそこにいた。

 何が起こっているのか、この異様な事態を何一つ理解できなかったが、そんなことは倫子にとってどうでもよいことだった。クロウが無事に戻ってきただけで、十分なのだ。


 クロウはゆっくりと立ち上がって、倫子を見下ろした。血溜まりから出てきたにも関わらず、ほとんど汚れていない。


「よ、よかった。とつぜん消えちゃったから……、どうしようかと……」


 涙のいっぱい溜まった目をこすりながら精一杯の笑顔を作って倫子が言う。それを無視してクロウは立ち去ろうとしたが、倫子が引き止めた。


「ちょっと待って! くろう君、あの、渡したいものが……」


 鞄の中にあるはずの物を、取り出そうとしてすぐに取り出せず、倫子はもたついた。焦れば焦るほど目的の物が見つからない。そんな彼女を無感動にながめながら、クロウはなにかつぶやいた。


「――――」

「え? なあに?」


 無邪気に聞き返す倫子に、クロウの返事はにべもなかった。


「消えろ!!」


 おもむろにクロウは倫子の腹を蹴りあげた。


「!!!」


 ようやく探し当てた「渡したいもの」が宙を舞い、短く悲鳴をあげて少女の身体が草の上に転がる。


「く、くろう……くん……?」


 息が詰まりそうになりながら、倫子は言った。

 理不尽な暴力を受けたにもかかわらず、それでも、彼女の目からはまだクロウに対する信頼の光が失われてはいなかった。だが、こんどこそ倫子を無視して、クロウは歩き出した。

 口の中で小さくつぶやく。


「スサノオ……。ころす……。殺してやる……!!」


 クロウの目から正気の光が消え、狂気が宿った。


 その場に取り残された倫子は事態が全くのみ込めないままだった。痛みをこらえ、不安に震えながらも、なんとか笑顔を保つ。これぐらいの事で彼女の気持ちは揺らぎもしなかったが、それでも、頬を濡らす涙が乾くことは無かった。



 【続く】



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