歯車のかみあうときに
.#1
初めて興味を持ったのは、叔父の家を訪ねたときだった。
叔父は小さな時計店を営んでいた。ログハウスを店舗に借りて、田舎にしては客足は多かったほうだと思う。
ぼくは叔父の店で時計を見るのが好きだった。丸いかたちをした腕時計しか見たことがなかったぼくは、三角や四角のかたちをした時計に新鮮なかっこよさを覚え、感動した。眼をつむれば、あのとき眼にした、芸術作品のような品の数々が、今でも瞼に浮かんでくる。
なぜ腕時計に惹かれたのか自分自身不思議に思う。それまで他人が腕に巻いている腕時計を眼にしても、興味を覚えることはなかった。
今思えば、それは運命だったのかもしれない。
腕時計の魅力に眼を奪われてから、ぼくはよく叔父の店に遊びに行くようになった。ガラスの枠に並べられた腕時計の秒針がカチコチ動くのを、眼で追うことだけで楽しかった。規則正しく弾かれるように行進する秒針や、それを包んで透明に輝くガラスフレーム。皮のベルトにほどこされた緻密な模様。すべてに美しさを感じた。
その頃のぼくは、熱病による後遺症が原因で周囲とうまくコミュニケーションをとることができなかった。そしてそれは両親を失望させていた。
親子の仲が悪いわけではなかった。母は、ぼくのために、健常者であれば必要のない手間を強いられたにもかかわらず、笑顔ばかりをぼくに見せていた。父も、以前よりも慎重にぼくの意見や行動を尊重してくれた。両親は、ぼくの将来を真剣に考えてくれていたし、ぼくはそんな両親に対し、罪悪感を覚えた。
きっと、お互いに憂いていたのだろうと思う。自分自身がうんざりしていたのだから、両親の気持ちも痛いほど分かった。大学受験を控えた時期に、息子が重大なアクシデントに見舞われれば、気が滅入るに違いない。我が子の将来に、突如現れた暗雲に、どうしたものかと悩むに違いない。
そして、教育熱心な親ほど、子供の将来の可能性が奪われたときの、落胆も大きいだろう。ぼくが障害を持つようになって、父も母も、ぼくの将来について語ることが極端に減った。出てくる話題も将来を期待するものから、ネガティブな一面をどうやりすごすかに変わっていった。ぼくが、両親の不幸の種のように思えた。それが苦しかった。
ぼくの身に起きた変化は、クラスメイトの態度も変えていった。はじめは友人らも心配し、気に掛けてくれていたが、受験が近まるにつれて、他人のハンディキャップを気にする余裕がなくなっていったのだろう。しだいにぼくを気にかける友人は減り、離れていった。
そうしてぼくは、徐々に、孤立していった。
叔父はぼくが店にいるあいだ、いろいろなことを教えてくれた。
叔父が時計屋を始めた理由、機械時計の構造。コーヒーや煙草の味を教えてくれたのも、たしか叔父だったように記憶している。頭がくらくらして吐き気がしたので、煙草だけは二度とやるまいと心に誓った。咳き込んで苦しむぼくを見て、叔父はなぜか得意げに声を上げて大いに笑っていた。ぼくは少しだけむっとしたが、ぼくの憤りを微塵も気にせずに豪快に笑い飛ばす、そんな叔父が大好きだった。唯一、正直に気持ちを打ち明けられる存在だった。
叔父は一度も結婚をしていなかった。それはとても不思議に思えた。面倒見が良く、外見はいかつい感じがするものの決して悪くない。実はひとなつっこくもあるその性格で五十余年も生きていれば、何度か色恋話や縁談が持ち上がってもよさそうなものだった。
一度だけその理由を尋ねてみたことがある。しかし、ヒロちゃんが結婚したら教えてやるよ、とはぐらかされた。そう答えた叔父の顔は笑っていたが、ぼくが問いを投げかけた直後に一瞬だけ見せた悲しげな顔に、ぼくは言いしれぬ罪悪感を覚えた。その表情を見て以来、ぼくはその質問を封印することにした。だからなぜ、叔父が結婚していないのか、明確な答えをぼくは手に入れることはできなかった。
独り身の叔父は、ぼくを、まるで息子のように可愛がってくれた。だからこそ、ぼくもその日に学校であった嫌なことを、叔父にだけは包み隠さずに伝えることができた。
友人からされたひどい仕打ちの数々。ぼくが声を発するだけで、周りの顔が嘲笑の色を浮かべる。ぼくが涙を流し、トイレに閉じ込もっていると、上から水を浴びせられる。ドアの上からノートの切れ端が落とされる。トイレのタイルに落ちたそれを手に取って見てみる。『猿が学校に来てんじゃねえよ』と書かれていた。
ぼくの熱病の後遺症は、クラスメイトによる悪戯の実行を容易いものにしていた。受験勉強でストレスが溜まっていたのかもしれない。きっと、自分よりも基礎的な能力が劣るものを見つけて、いじめてみたい気持ちになったのだろうと思う。
――ヒロちゃんは彼らに何も悪さをしていないんだろう? やられっぱなしが嫌になったら、いつでもわしに言いなさい。わしがぶん殴ってやる。
叔父は、ことあるごとにそう励ましてくれた。そして、帰宅途中の寄り道もよくないぞ、とぼくの頭をくしゃくしゃと撫でるのだった。決して叔父は怒らなかった。
図太い腕の叔父が袖をまくり上げ、周囲とうまく接することのできないぼくを、何ひとつたしなめることなく、味方をしてくれる。叔父を連れて彼らに仕返しに行くつもりはなかったため、実際にクラスメイトが叔父に殴られることはなかった。しかし、助けてくれるひとがいるだけで、ぼくの心は救われた。
叔父と一緒にいるとき、ぼくはひとりぼっちではないと確信することができた。
夏の草いきれの匂いが、秋の寒風にとって代わられる頃。
その日は高校最後の三学期の中間テストの初日だった。
午前のうちに学校が終わり、昼過ぎには<CLOSED>の掛札が吊るされたドアのその内側、叔父の店の奥にあるリビングに、ぼくはいた。おじの家は、店の奥が住居になっていた。コンビニで買った唐揚げ弁当を口に押し込みながら、ぼくは叔父がこれから行なう時計修理の準備作業に眼を向ける。
その日、叔父の家を訪ねたのは、腕時計の修理作業を見学するためだった。腕時計の内部構造を見てみたかったのだ。雑誌やインターネット上の写真では見たことがあったが、それだけでは物足りなかった。自分の眼で見て触ってみたかった。叔父はそれを、快く承諾してくれた。
店の定休日である月曜に、叔父は請け負った修理作業をこなしていた。普段は学校の授業があるため、ぼくが修理作業を見学することはできなかった。しかし、定期テストで学校が午前で終わるその日、やっと叔父の傍らで、機械時計が分解される様を眼にするチャンスが巡ってきたのだ。
修理作業を行なう部屋は、住居と店のあいだにあった。僕が昼食を急いで済ませてその部屋へと向かうと、叔父がまさに作業を始めようとしていた。
ぼくは部屋の隅にあったパイプ椅子を手に取り、叔父のほうへ向かった。古い木の匂いが充満していて、パイプ椅子の脚が床板と擦れ合い、むず痒い振動が手に伝わってくる。叔父がこちらに気づき、胸の前で下を指差した。隣に椅子を並べて見ていなさい、という指示だとぼくは受け取った。
叔父の作業は手慣れたものだった。平べったい金属板を腕時計の裏側のプレートに噛ませ、ぱかっと手際よく取り外す。文字盤とともにムーブメントと呼ばれる部分がゆっくりと取り出される。分厚い十円玉に文字盤をくっつけたような、機械仕掛け時計の心臓部だ。それから叔父は手際よくネジを回し、心臓を覆っている金属板を剥がしていく。いよいよ時を刻む仕組みが顕わになった。高速で回転する輪っかや歯車、秒針と同じようなタイミングで揺れる金属片。たくさんの歯車や針が忙しなく動き回っていて、小さな機関車のようだった。
――くるくる回っとるのが「テンプ」だ。こいつが、下のギザギザした「ガンギ」という輪っかと、噛み合うときに、時計がチクタクと鳴る。
身振り手振りを加えて丁寧に説明してくれたが、ぼくの眼球を通り抜けて脳までたどりついた叔父の言葉は少なかった。それよりも時計内部の精巧な複雑さに、ぼくは圧倒されていた。
――歯車がいくつも噛みあい連動し、初めて秒針と短針が動くようになっている。
歯と歯がすれ違うときに時間をバトンタッチし、受け継いだ輪っかがまた次の輪っかにバトンを渡して……それが秒針の動きまで滞りなくつながっている。すべてのかみ合わせが必然であり、その必然が、ある偶然によって噛み合わなくなってしまった箇所に、叔父が手を加えて正常なつながりを復活させる――。そう思うと、叔父がいつも以上に奥深く、優しいひとに感じられた。
蛙の解剖をするように、輪っかやゼンマイ、歯車がひとつひとつ丁寧に取り外され、台の上に几帳面に並べられていく。ピンやネジもところどころに施されており、それらは米粒のように小さいものもあった。標本のように几帳面に整列した部品たち。その一部を虫眼鏡で覗き込みながら、さらにそのうちのいくつかを叔父の指がつまみ上げた。修復できない箇所を新品のものへと取り替えるのだろう。部品の数の多さとその構成の複雑さに、それが人間の手によるものであることがにわかに信じがたいほどだった。そしてぼくは素朴な疑問を抱いた。
――おじさんは時計を作ったことある?
叔父の肩に触れたところで、あ、と思った。修理の作業中には決して叔父の邪魔をしないようにする約束だったのだ。ぼくは無意識のうちに叔父の肩を叩き、叔父に問いかけてしまっていた。
叔父は繊細に動かしていた指先をぴくりと止めて顔をこちらに向け、ため息をつくようにして肩を落として宙を見た。叔父は何かをつぶやいたようだったが、ふとこちらに向きなおり、何かを懐かしむような顔で答えた。
――一度だけ作ったが、もう誰か知らないひとに譲ってしまった。
叔父はまた修理台へと顔を戻した。修理が終わるまで、ぼくは叔父の隣でじっとしていた。やがてその機械時計は叔父の手によって元の姿へ戻された。すべての歯車がうまく噛み合ったのだろう、正常な状態を取り戻し秒針が一定のリズムで動き出した。
.#2
翌日も学校は定期テストのために午前で放校となり、ぼくは叔父の店へと向かった。
途中、クラスメイトたちが集団で下校しているのが眼の端に映った。あちらもぼくに気づき、こちらに手を振ったが、ぼくは気づかないふりをした。ちらりと眼だけで彼らを覗くと、そのうちのひとりがぼくに向かって何かを叫び、その周りに嘲るような笑い顔が並んでいた。ぼくはそれを見なかったことにして、叔父の家へ急いだ。
その日も、ガラス越しに陳列された商品を飽きることなく眺めていた。眼の前にある腕時計の値札には二十五万円と表示されていた。つまりそれは手作りだということだ。職人が時間をかけて、叔父が眼の前で見せてくれたように、数々の部品を緻密に組み上げたものなのだ。そうして頭にあのときの内部構造がよみがえった。つるりとシンプルな面立ちをしたガラスフレームとは対照的に、その内部は小宇宙のような複雑さを備えている――。
と、想像を膨らませていたぼくは、ふと隣に気配を感じた。
――この中からひとつだけ、ヒロちゃんにあげよう。
いつのまにかぼくの横に叔父が顔を並べていた。腕時計の妄想に夢中になっていたためか、まったく気づかなかった。
肉づきのよい頬を盛り上げて叔父はぼくの眼を見ていた。近くで見る叔父の顔に、深い皺がいくつも刻まれている。深い堀のある眼や整った高い鼻に、あの有名なアメリカ州知事とが重なって見えた。
せっかくの機会を無駄にしないようにと、ぼくはすべての腕時計を見て、選ぶことにした。叔父の仕入れた時計はどれもが個性的で魅力的で、その中からひとつだけを選び出すことは、不可能にさえに思えた。
結局ぼくは、円形のフェイスに小さな扇形の窓が空いた腕時計を選ぶことにした。
それは店の端っこに位置するショーケースに納まっていた。中古品なのだろうか、とても古ぼけた雰囲気をしている。バンドはところどころ擦り切れて、表面のガラスにも小さな傷がいくつも入っていた。しかしぼくの瞳は不思議とその時計に吸い寄せられ、まるで何かに誘導されるかのようにそれを選択していた。ショーケースに人差し指をくっつけてその時計を指し示し、叔父の顔を見た。
ぼくの指さした先に叔父の双眸が向く。
叔父は一瞬眼を剥き、そして驚いたような、困ったような顔をした。まるで祭りの出店のくじで一等を引き当てた子供を見るような、そんな面持ちだった。怪訝そうにぼくと時計を交互に見やり、腰に手を当てて叔父は俯いた。まるでこの時計を手放すのが惜しいとでも言いたげに見えた。
ぼくは戸惑った。きっと、笑顔でショーケースを開けて試着させてくれるものと予想していたため、その戸惑いは大きかった。選んではいけないものだったのだろうか。よりによってぼくはそれを指さしてしまったのだろうか。困惑して視線をどこに定めたらよいのか挙動不審になっているぼくを置いて、叔父は太い腕を組み、首を傾げて何かを思案してるようだった。
得体の知れない気まずさが、ぼくの体内に充満した。学校でいつも感じる居心地の悪さ。相手が何を考えているのか分からない不安。自分だけが取り残されているような恐怖――。
寛ぎの象徴であるような叔父が、ぐっと腕を組みしめて難しい顔をしている姿は、ぼくを最大限に緊張させた。眼をつむり仁王像のように顔をしかめている叔父の姿は初めてだった。自然と鼓動が早くなっていく。違う時計に選びなおそうかと、ぼくはさっぱり怖じ気づいてしまった。
しばらくして叔父は組んでいた腕をほどき、おもむろにぼくの示した時計をガラス越しに丸まっこい指で、とんとんと叩いて、ぼくに向けて首を突き出した。
この時計がいいのかい? とでも言うような、何かを確認するような、そんな仕草だった。
やはりこの時計を選んではいけなかったのだろうか。叔父の期待に反して高価すぎるもの、あるいは稀少なものを指さしてしまっただろうか。よく見ると、この時計だけ値札が付いていない。きっと、なにかしら特別な腕時計であるに違いない。
腕時計を改めて眼にして、その魅力はぼくの中でより大きくなった。叔父が何を考えているのかは分からない。しかし、どうしてもそれを自分の腕に巻きたかった。
ぼくは正直に、この時計にいちばん惹かれたのだと伝えた。
叔父は奥の椅子に腰を下ろし、太い親指を顎に当てて暫く眼を瞑った。ときおり椅子が軋み、小動物の鳴き声のような空気の振動が店の床を伝った。
しばらくして叔父はゆっくりと瞼を上げて、ペンを手に取った。そしてショーケースの前にしゃがみ込んだぼくの隣に腰を落とし、まっすぐな視線をぼくに向けた。
――ひとつだけ約束をしてくれないか。
叔父は顔の表面にいつもの笑顔を浮かべていた。しかし、その眼の奥に、重く、深いわだかまりのような、異様な熱を感じた。古い時を懐かしむような、しかしそれを悲しみで覆い隠すような。得体の知れない感情が、叔父の眼の奥に潜んでいるように見えた。
叔父はその年の冬、亡くなった。それを報されたときは、まるで鉛の塊を飲まされたような気分だった。肺癌だったらしい。しかし死因に意味はなかった。叔父がこの世からいなくなったのだという事実が重大だった。この世には解決のしようがないことがあるのだと、思い知らされた。火葬場で焼かれた叔父の骨を、骨壺に、ことりと落としてみても、叔父がもういないのだという現実を、受け入れることはできなかった。
そうして、ぼくの手許には、叔父との約束とともに、譲り受けた腕時計だけが残った。
.#3
叔父がこの世を去って四ヶ月が過ぎた。
ぼくは東京の大学をいくつか受験し、第一志望の、世間から難関と呼ばれる大学から合格通知をもらい、そこに進学を決めた。
地元の大学は受験しなかった。ひとりになりたかったからだ。父や母の曇った表情や、いつも遠くに見えるクラスメイトの無音の笑み。それらから解放されたかった。自分のことを誰も知らない土地へと移り、新たな生活を始めたかった。
叔父が死んでから、ぼくは通学以外では外出をしなかった。散髪にすら行かなかったため、耳が隠れるくらいに髪が伸びた。長髪禁止の校則から、近く解放されるのだし、ちょうどいいな、と密かに思った。
両親は、東京へひとり出発する息子を不安がってみせたが、桜が散る頃には電話やメールの回数もずいぶん減った。しんとした、殺風景な部屋の真ん中にひとりで寝ころがり、結局そういうことなのだ、と感じた。
叔父にもらった腕時計は、大学生になったぼくの腕にも当然巻かれていた。譲り受けたその日から毎日、それで時刻を確認している。
その時計のすべてが好きだった。シルバーの文字盤も、黒革が擦り切れて、赤茶けた裏地が見え隠れするバンドも、丸みを帯びたフェイスも好みだった。リューズを巻くとチリチリと小さな音がして、耳に心地よく聴こえた。時代を偲ばせるほど古ぼけているし、目立つデザインでもないのだが、あのときショーケースに飾ってあったそれに、ぼくは親しみに似た魅力を感じていた。
地元を離れて数ヶ月は、新しい暮らしに慣れるのに苦労した。料理をするにも、野菜が焦げる匂いを何度嗅いだことか。外に出ても携帯電話がなければ、自分がどこにいるのかたちどころにわからなくなる。しかし、一度その街に浸ってしまえば、喧騒も心地よい音声に感じられた。上京するまで、ひととうまく話すことができなかったぼくから、障害のひとつを消してくれた親に、少しだけ感謝した。
大学は、それまでと違って交際の自由度が高く、つまり自分からクラスメイトに話しかけなければ知り合いを増やせそうになかった。つまり、会話でのコミュニケーションを避けてきた環境が一転したわけだ。大学になじむのにそれなりの時間と努力を要したが、それでも幾人かの友人はでき、彼らと会話を楽しむという、ささやかな娯楽を得ることができた。話題は、受験勉強から解放された大学一年生らしい、単純でくだらないことだ。学内サークルのことや、好きな音楽、自分の趣味、異性のクラスメイトを話題にすることもあった。
友人と三人で近くのファストフード店に入ったときのことだ。
フライドポテトをつまみながら、友人の河合が独り言のように言った。
「杉原って無愛想だよなあ」
河合は大学に入学してから髪を明るく染めたため、入学式で出逢ったときとはだいぶ印象が変わった。
「杉原ってあの、髪が長くていつも教室の端っこに座ってるひと?」
対面して座るぼくが、とぼけて答えてみる。
「そう、黒髪で、死人みたいに肌が白いやつ」
河合の隣に座っていた中野が、それを聞いてコーヒーを置いた。
「ああ、あいつな。おれが話しかけたら、ええ、とか、まあ、とかしか返事しねえんだぜ? きっとおれのことなんか、あいつの視界の隅にも入ってないんだろな」
杉原は、クラスのなかで、その存在が浮くくらいに飛び抜けて外見が整っていた。河合の言うとおり肌は白く透きとおるようで(言い方は悪いが、それこそ本当に死人のように)、コントラストをなす長い黒髪が優雅さを醸し出していた。良く言えば、お嬢様、だ。クラスメイトと仲良くするつもりがないのか、いつもひとりで行動している。
しかし、その外見に似つかわしくなく、人との付き合いを避けているように見えた。もしわずかにでも雪のような肌の内側に愛嬌が備わっていたら、間違いなく彼女の人生は明るいものになるのではないかと思う。たいていのクラスメイトの男子は、彼女を遠巻きに眺めてうっとりするか、彼女の鈍い反応に軽い苛立ちを憶えるか、のどちらかだった。
「あいつ、きっと勉強以外に興味ねえんだろな。遊びに誘っても反応ゼロ。門限でもあんのかよ、ってかんじ」
河合が毒づく。河合は、苛立ちを胸に埋め込まれた男子の一人だ。
「大学生なのに?」
とは、つい先日、自分も大学生になったばかりの中野。「それもかわいそうだよなー。『里奈ちゃん、早く帰ってこないとだめですわよ』とか言われてんのかな?」彼は口の端だけで笑いながら、煙草に火を点けた。
「あれだけ外見が整ってると、すり寄ってくる男子がうざいんじゃないかな」
と、ぼくがさりげなく擁護する。ぼくは、彼女をうっとりと眺めるほうに属していた。
「あ、お前、杉原を庇うわけ?」
「いやそういうわけじゃなくて、だってあんなそっけない……」
と、そこまで口にしてぼくは突然口を噤んだ。いや、噤まずにはいられなかった、と表現したほうが正しい。
二人の背後にいる人物に気がつき、心臓が跳ねた。背筋に冷たいものが走る。
ぼくは手につまんだポテトを箱に戻し、黙って顎を二度、突き出してみせた。合図に気づいた河合が、静かに携帯電話を取りだし、画面を鏡がわりにして背後を窺う。瞬間、顔の筋肉を硬直させ、肩がびくつかせる。
背後のカウンター席に座っている杉原さんに気づいたようだ。
河合と中野の真後ろのカウンター席に、杉原がひとりで座っていた。ぼくからちょうど横顔が見えるかたちだ。河合と中野は顔を見合わせた。ぼくのほうを向くと、ぼくらは三人で申し合ったように頷き、急いで残ったポテトを口に詰め込み片手にジュースを持って、店を飛び出した。
心臓に悪いとはこのことだ。彼女の耳にはイヤホンがされていため、ぼくらの会話のすべてが彼女に伝わっているわけではないだろうが、そのイヤホンがいつ彼女の耳を塞いだのかは分からない。ぼくらは彼女と顔を合わせるたびに、気まずく顔をそらさなければならなくなるのか、と三人とも肩を落とした。
実は三人とも彼女に好意を抱いていたんじゃないか、とぼくは推測した。
いや、そのうちの一人は推測ではなく、事実なのであった。
それからさらに半年が経った。
秋雨の冷たい昼下がり。学生食堂を出たぼくは、構内の掲示板を確認していた。
暗い電灯で照らされた掲示板に、学部からの報せが貼り出されていた。三限目の近代日本文学概論の講義が休講になっていた。四限目の講義まで二時間程度、ぼくは時間が空いてしまった。
この頃になると、大半の学生らは大学の授業に飽きて、卒業に必要な単位をいかに要領よく取得するかに腐心するようになる。河合と中野も例に漏れず、必修の講義以外には、ほとんど顔を出さなくなった。
期待せずに二人にメールを送ってみる。河合からは彼女とデート中なのだと返信があり、中野からは「今起床」の三文字だけのメールが届いた。はあ、とため息をつき、窓から並木道を見やると、傘を差した学生らが並んで楽しそうに歩いているのが眼に入った。高校時代の記憶が蘇り、彼らを視界から消すためにうつむく。その視線の先には水たまりが、雨に打たれて波紋を作り、その奥に銀杏の葉が折り重なるようにして沈んでいた。
これからの二時間をどう潰したらいいものか。ひとりの時間には慣れているはずだった。しかし、河合や中野とくだらない時間を過ごすうちに、孤独への対応策を一つひとつどこかに置き忘れてきてしまったらしい。
ぼくは低木が散在する広場をわけもなく歩いた。傘を少しずらして、空の色を確かめては、またため息をつく。しとしとと地面に付着し、吸収される雨粒が、アスファルトを徐々に黒く染めていく。雨脚は強くない。かといって学外に足を伸ばそうと思うほど軽いものでもない。
ふと、ぼくは思いつき、図書館に向かうことにした。
前々から調べたいことがあったのだ。といっても学業に関することではない。
時計の分解方法を調べてみようと思ったのだ。
いつか時計を分解して、内部の構造を自分で探ってみたいと思っていた。叔父から譲り受けた腕時計が出来上がるまでの軌跡を覗いてみたい。いつしかそんな衝動に駆られていた。機械時計の大まかな構造は叔父にレクチャーしてもらっていたし、叔父が時計をオーバーホールしたり、修理をする様子も間近で見物したし、たまに客には内緒で、修理の手伝いもやらせてもらっていた。けれども叔父との約束がある以上、分解した後は必ず分解前と同じ通りに組み立てなおさなければならない。失敗は許されないし、そもそも自分自身、その時計を壊してしまいたくはない。図書館には機械時計の分解方法に関する書物があるかもしれない。
腕時計に眼を落とすと、短針は一の数字を少し進んだあたり。きびすを返し、ぼくは図書館へと歩き出した。
.#4
今、腕に巻き付いている時を刻む小さな器具には、メーカー名や製品番号らしき記号はどこにも穿たれていない。叔父の自作だからだろう。もしかしたらそれが、無意識のうちに、ぼくがこの時計に感じていた親しみの要因なのかもしれない。どこにも属していないような、でもどこか意味を求めているような――。
宙に舞う霧雨に似た雨滴を傘で避けながら、図書館にたどり着いたとき、眼の前に見知った女性がいることに気がついた。
杉原さんだった。図書館の入り口前で傘を閉じ、雨滴を振り落としていた。ストレートの黒髪が霧雨に湿って艶を増している。
図書館の入り口前には階段があり、段上は石造りの屋根がついた、雨を凌げる構造になっている。彼女はその下でひとり佇んでいた。図書館の重厚な扉の前で、空を見上げ、憂鬱そうな顔をしている。
彼女をじっと眺めている自分に気づき、ぼくはあわてて顔を伏せた。ファストフード店の一件もあって、彼女と視線が合うことがことさら怖くなっていた。そして、彼女を前にしたら、きっとぼくは何を話してよいか戸惑うことになる。傘に隠れるようにして、ぼくは図書館へと歩を進めた。
階段を上り、横目でちらりと彼女を盗み見た。彼女は、まだ同じ姿勢のまま空を見上げていた。早く止んでくれないか、とでもいうふうに、無防備に口をあけて、雨雲に視線を投じている。彼女が壇上の左端にいたので、ぼくは反対側の右端に寄って傘を閉じた。暗い雲が空一面を覆い、太陽の暖かさは微塵も感じられない。
彼女も時間を潰そうと、図書館に来たのだろうか。三限目の日本近代文学概論の講義を、彼女もとっているのをぼくは知っていた。彼女はいつも、講義室の入口から遠い側の、最前列の席に座り、熱心にノートを執っていた。講義中に、誰かと話すことも、携帯をいじることもなく、淡々と講義に集中している彼女はの姿に、好感をもったのを覚えている。
雨の勢いは強くも弱くもならない。横目で彼女を覗いてみるが、長い黒髪が表情を覆っている。それでも赤い傘の柄に手をついて、空を見上げる姿には、どこかしら優雅な雰囲気があった。赤いニットに白のカーディガン、膝丈のベージュのプリーツスカート。それらから伸びる透きとおるように白い手足。
言葉を交わしたことはほとんどないのに、入学して数日前のうちに、ぼくは彼女に惹かれていた。
それは朝露が下草の先から垂れるように、とても自然なことに思えた。誰もが、彼女を見たら少なからず好意を持つだろう。女性なら嫉妬をするのかもしれない。
実際、入学当初は彼女に話しかけ、仲良くなろうとする男子が、結構いた。しかし彼女は、素っ気ない返事をしたり、曖昧な相槌を打つだけで、まるで会話を発展させる気がないみたいだった。そしてゴールデンウィークを過ぎる頃には、彼女もまた誰からも孤立していた。いや、敢えてそうしているふうだった。
「――あら、橘くんじゃない?」
彼女がこちらに気づき、声をかけてきた。予想外のことに内心焦った。なんとかそれを表に出さずに振る舞わなければ、という思考が一瞬のうちに頭を巡る。
「……あ、杉原さん」
まるで今気づきました、というように眼を見開いてみせた。これまた予想外に、うまく演技できた。自分に感心する。「もしかして、休講の暇つぶしにここへ?」
杉原さんは、湿っておでこに貼りついた前髪を左手で左右に分けながら、
「今朝まで掲示板に休講の連絡なんて貼ってなかったのに、勘弁してほしいよね」
突然の休講に、彼女もやはり時間を持てあましているのだった。ま、楽しみにしてる講義でもないし別にいいんだけど、と彼女は顔を斜めに傾け笑顔を作って、言い添えた。
いつもの近寄りがたい雰囲気とはまったく違う彼女に、ぼくは少々肩すかしをくらった気がした。そっけない態度は微塵も見えない。まるで、無理をして明るく振る舞っているようにすら感じられる。
「もし、特に図書館に用事がないんだったら、近くのカフェに温かいものでも飲みに行かない?」
止みそうにない雨を一瞥して、彼女が言った。
意外すぎる提案だった。クラスメイトに対するいつもの彼女の冷たい対応と、今の彼女の言葉や態度があまりにも違うため、眼の前にいるのが果たして本当に杉原さんなのか。疑いようのない事実なのにそんなことを考えてしまったため、返答が遅れた。
乗り気じゃないと思われたのか、
「ひとりで行っても暇だけど、誰かと行けば、図書館よりは立派な暇つぶしになるんじゃない?」
彼女はぼくの眼を覗き込んで、推してくる。
ぼくはその口実に乗ることにした。腕時計を確かめる。午後一時二十分を指している。
その様子を見た杉原さんが、どうかしたの? と訊ねてきた。何もないよ、と正直に答える。
変なひと、と首を傾げて彼女が笑った。
すこしだけ、雨音がゆるくなった気がした。
ぼくは彼女の暇つぶしになれるのだろうか。それだけが心配だった。
正門を出て、左に五分ほど歩いたところに、そのカフェはあった。二股の人魚がトレードマークのそのカフェはいつもは、雑談をしているのだろう、多くの客でごったがえしているのだが、雨天のためか、それともたまたまなのか、その日は空いている席のほうが多かった。
ガラス張りの店内は明るく、極彩色のタペストリーが壁に掛けられていた。ぼくが慣れない圧力を感じてどぎまぎしているのに対し、彼女は手慣れた様子でレジまですたすた進み、滞りなく店員に注文を伝えていた。
そのカフェに入るのがぼくは苦手だった。優雅でおしゃれで垢ぬけた、ひとつのコミュニティが成立してしまっているような雰囲気に、陽の当たらない場所を選んで過ごしてきたような者が生息していてはいけない。まるで自分が生態系を崩壊させて、いてはならない空間に存在しているような、そんな居心地の悪さを覚える。その不釣り合いな感覚は、見目麗しい彼女と同席することで、さらに度合いを増していた。
ほら、と杉原さんに手招きをされて、レジの前まで、申し訳なさげに小走りで向かう。メニューを渡されたが、うんざりするほどの品数が並んでいた。三つ折りのメニュー表に眼を泳がせたが、緊張のためか、元来の優柔不断な性格からか、どれを選ぶべきか眩暈すらしてくる。
結局ぼくは、彼女と同じものをオーダーした。結果、チョコレートとコーヒーを混ぜ合わせたような甘ったるい香りのする液体の入ったマグカップが二つ、ぼくたちの座るテーブルに載っていた。彼女は嬉々としてそれを口にしていたが、ぼくは甘いものが得意ではなかったため、そのほろ苦く甘い液体を、ちびりちびりとすすることになった。
それにしてもなぜ、彼女をはぼくを誘ったのだろう。
今まで、彼女と会話らしい会話をしたことは一度もなかった。「杉原さんって煙草吸うの?」「ん? ああ、これ。煙草の空き箱を集めるのが私の趣味なの」たぶん、これが今までにした会話の中で、いちばん長いものだと思う。彼女のために意外な趣味だけが印象に残っただけの、変なやりとりだった。講義の合間の彼女を見ても、同性の友人とさえ長話をしているのは、見たことがない。
カフェまでの道のり、で何度かその疑問を解消しようと質問を考えたが、回答がすんなり出てきて、会話が尽きてしまうことのほうが怖くて黙っていた。沈黙のままカフェにたどり着いた。そんな気弱な自分が、どこか薄情にさえ思えてきて、またため息をついてしまう。
「ため息をつくと、幸運が逃げていくらしいよ?」
左手を口に構えた彼女が、小声で囁いた。突然の言葉にぼくは反射的に顔をあげ、そうだね、と答えた。彼女とカフェにいることを忘れていた。それからゆっくり言葉の意味を考えてみて、自然と笑みが零れた。遠回しに慰められているのだと分かった。優しい声を耳にするのはどれくらいぶりだろうか。不安が遠くへ転がっていくような気がした。
カップを置いて杉原さんが尋ねてきた。
「橘君って、下の名前、ヒロキ、だっけ?」
「あ、いや、ヒロタカ、って読むんだ、それ。博貴って書いて、ヒロタカ」
そう言ってぼくはテーブルに漢字で名前を指で書いてみせた。
「ふーん、漢字でしか見たことなかったからヒロキだと思っていたわ」
どちらにしてもヒロくんだね、大した問題ではなかったわ、と言って、彼女は鼻をクスクス鳴らして笑った。
入学してすぐ、クラスの有志が自己紹介カードを作ろうと言いだし、配られたカードに名前や生年月日、出身高校や趣味などを書かされた記憶がある。名前のふりがなを書く欄がなかったため、それを見た彼女が「ヒロキ」だと読んでしまうのも無理はない。クラスで影の薄いぼくの名前を活字で覚えているのは、しかし数少ない友人を除けば彼女くらいだろう。
次にぼくが彼女の名前を訊ねた。本当はすでに頭に入っていたのだが、それを知られるのは恥ずかしかった。
「リナよ。里、奈、って書いてリナ」
テーブルに指で自分の名前を書きながら、彼女は微笑んだ。
彼女は、思っていた以上におしゃべりだった。クラスではほとんど会話している姿を見たことがなかったため、とても新鮮に映った。北のほうの田舎の出身で、東京のひとの多さに少々戸惑っていたことや、クラスで講義が行なわれるとき、誰々が私のことをいつもチラチラ見てきて気持ち悪い(幸いそれは、ぼくの名前ではなかった)だとか、乗り換え駅である渋谷駅のひとごみの激しさには今でもうんざりしてしまうこと、マンションで一人暮らしをしていること、近くの商店街が彼女の地元の雰囲気に似て落ち着くとかいったことを話してくれた。ぼくも同様にいろいろなことを話した。
普段は口下手であるはずの自分が、彼女の前では、自然と言葉を紡ぐことができた。彼女の相づちが柔らかく絶妙で、何もかも話してしまいそうだった。もし、落としどころの難しい話題を出しても、今の彼女ならきっと、何かしら気の利いた言葉を返すのだろうな、と想像した。
ぼくの眼の前で甘く微笑んでいる彼女と、クラスメイトとの交流を避ける彼女。どちらの彼女が本当の顔をなんだろうか。実は、これが普段の彼女の態度なのだろうか。クラスメイトの前では、自分を偽って演じているのだろうか。
いや、そんなことはないだろう。もしそうだとしても、なぜそうしなければならないのか、理由がまったくわからない。ぼくの前では饒舌に、朗らかに話をする一方、学内で近づきがたい雰囲気を醸し出す必要がどこにあるというのか。
しかし、それは今の自分にとっても同じことが言える。いつもなら、みずから話題をふることすらない自分が、好意を寄せている女性と、数十センチの距離にいながら、滞りなく会話を楽しめている。これが本当の自分だとしたら、なんて楽しい人生だろうと思う。なんの戸惑いも持たずに他人と意思疎通を行ない、ぬくもりのある緩んだ空気を誰かと楽しめる。今の自分を永遠に演じることができたら、どんなに幸せだろう。彼女と話す楽しさと同時に、これは本当の自分ではないのだろうという切なさが頭から離れなかった。
話題が一段落してカフェモカ(彼女と話している最中に、彼女にこの飲み物がなんていう名前かを聞いた。知らずに注文したの? と彼女は笑って答えてくれた)をすすっていると、彼女が訊ねてきた。
「ヒロくんってさあ、よく自分の左手首を見るじゃない? あれって、おまじないか何か?」
「左手首?」
何を言いたいのかよく分からず、ぼくは軽く首をひねった。
「うん、それとも手の甲を見てるの?」
「左手首、といったら腕時計のことかな」
軽く左腕を上げて腕にはめた現物をかざして見せる。
「ううん、たぶん違うと思う」
彼女は、ぼくの眼から瞳を逸らさずに首を振り、軽く身を乗り出して小声で続けた。
「なんかね、腕時計をしてるわけでもないのに、ヒロくんがよく、自分の左手首を見つめているって、変な噂になっているわよ?」
.#5
クラスの男子らが話してるのを、小耳に挟んだのだという。
「まるで腕時計を見ているような、そう、ちょうど今みたいな仕草で左手首を見てるって」
ちょうどぼくは、腕時計に眼を落としていた。
その噂を、ぼくはそのとき初めて知り、心底驚いた。友人が少ない上に、そんな変な噂まで立てられていては、今後クラス内で交際範囲を拡げるのは絶望的だ、と思った。しかし、それが今は意外にどうでもよいことにも思えた。彼女と二人でいることがそう思わせたのだろうと思う。
「えっと、もしかしたら、左手首に傷でもあるんじゃないか、自殺未遂をしたことがあるんじゃないかとか……」
「まさか!」
あわてて両手を突き出し、全力で否定した。そんな話が一人歩きするなど、噂の身勝手さは尋常ではない。
ぼくは、その腕時計を毎日欠かさず、手首に巻いて登校している。身につけずに登校した記憶は一度もない。腕時計を見ているぼくの姿を見ることあっても、腕時計のない左腕を見ているぼくを誰かが眼にするなんてことは、絶対にない、はずだ。
きっとそのクラスメイトは偶然腕時計が見えない角度からぼくを見たのだろう。それが奇妙な行為に映り、たまたま近くにいた人に話し、噂として広がった。否定するひと――ぼく自身――に話が伝わらないのだから、収束しないだけなのだ。交友関係の狭さという、ぼくの側にも問題があるにしろ、大学生にもなっても、話の種にされるような身分から抜け出せてなかったのか。しかも、その話を彼女から聞かされたのがぼくの気落ちに拍車をかけた。よりによって、彼女の口から伝えられなくてもいいじゃないか、と噂の身勝手さに、またため息が出る。
どこにぶつけていいか分からない理不尽さを押さえつけて、しっかりと弁解をした。彼女は、ぼくの言葉に小さく頷きながら、下唇を出した。ありきたりな噂の真相に、不満な様子にも見えた。
「ま、学生の噂ってそんなものよね……でも、男子にしては髪が長いし、ちょっと根暗っぽく見えるのは確かだよ」
そう言って頬杖をついて鼻で笑っていたが、彼女の視線はぼくの左手首に向いていた。髪、短いほうが似合うと思うんだけどなぁ、と彼女が独り言のように呟いた。ぼくは耳を掻くふりをして、返事を濁した。
カフェでの暇つぶしを経てから、ぼくと彼女はしばしば会話をするようになった。河合や中野と一緒にいるときとは違う楽しさがあった。心が高揚し、普段よりも快活に話しをしている自分がいた。
履修登録の重なっている第二外国語の講義が終わると、里奈がぼくの席までやってきて、次の講義へ一緒に行くようになった。里奈はフランス語の講義の後に、偶然ぼくも履修しているニーチェ哲学の講義をとっていた。
文学部の一号館から外に出ると、寒風がマフラーの隙間を遠慮なく通り過ぎ、枯れ葉を宙に舞わせた。秋は始まったばかりだというのに風は予想以上に冷たい。秋は、ほかの季節よりも短い気がする。
二号館へと移動している最中も、里奈はぼくが左腕にはめている時計を気にしているようだった。噂を知ってから、クラスメイトらにちらちらと左手首を見られることに気づき、嫌気がさしていたぼくは、その視線を外すように腕を組んだ。
里奈が、今日も左手首を見ているの? と茶化して訊いてくる。
「そりゃそうさ。次の講義に間に合うように、時刻を確認するべきだと思わないかい?」
「へー、そう。ヒロくんって几帳面だねー」
そう言って里奈は手袋をした両手を後ろに組み、無邪気に微笑んだ。
ぼくは下唇を出して視線を背け不快感を表そうとした。しかし、首もとにできた隙間をすかさず寒風が通り抜けたため、すぐに肩をすくめることとなった。それを見て、彼女が、まぬけ、と言って笑った。ぼくも自分がおかしくなり、噴き出すように鼻から息を漏らした。
里奈と親しくなるまでに、そう時間はかからなかった。ぼくらは自然と、週末にも顔を合わせるようになった。
他のクラスメイトとは相変わらず狭い付き合いしかしていなかったし、里奈がぼく以外のクラスメイトと話すことも少なかった。しかし、里奈とぼくは、なぜか互いによく話が続いた。まるで、自分の話を聞いてくれるために彼女はぼくと出逢ったんじゃないだろうか、そしてその逆もまた――。と、そう考えたところで頭を振って、その非現実的な仮説を否定した。アニメみたいな都合の良い展開が、現実に自分の身に降りかかっていることを妄想した自分が恥ずかしくなった。そんな割のいい話があるわけがない。そう思っていた。
しかし、互いに相手の性格を認め合えるほどに関係は成長し、ぼくは里奈と正式に付き合うことになった。ぼくの期待はよい方向に裏切られたと言える。
お互いが気を許して二ヶ月ほど経った頃、里奈が部屋のベッドの上で、ぽつりとこぼした。月明かりに照らされた、そのときの里奈の青く透きとおった横顔は今でも忘れられない。
「大学に入るまで、ずっといじめられていたの。死んでしまおうかと思った」
小さな声で、彼女はそう打ち明けた。彼女は部屋の隅をじっと見つめていた。それまで里奈が弱音をこぼすのを訊いたことがなかったため、少しだけ戸惑った。
里奈は高校生のときの学業成績が特に優秀で、大学にも特待生として入学していた。だから、彼女はから打ち明けられたとき、とてもそれが真実とは信じられなかった。
幼いころから、彼女はとても素直だった。つまり穿った見方を知らなかった。周りが褒めそやす言葉の裏に、皮肉が隠れているなど少しも疑わず、とにかく自分の成績と進路に、大きな関心が寄せられていることだけに気づいていた。
そんな中、ひとりの友人が口にした褒め言葉を真に受けて、里奈が相手の長所を素直に褒め返した。すると、その翌日から年度のクラス替えが行なわれるまで、誰も口を利いてくれなくなったという。自分が学校へ行くと、机の上に菊の花が飾ってあったり、時には机と椅子が廊下に放り出されていたこともあったらしい。
「私の言葉が、きっと誰かを傷つけたんだと、みんなの反応を見て初めてわかった。私に対するいじめは、私と同じ場所にいたくないっていうクラスメイトの意思表示だったんだよね、きっと。」
里奈はところどころ声を詰まらせながら、静かにそう告白した。
それまで友人だと思っていたひとから、突然無視されるようになるという重圧は、きゃしゃな里奈の肩にどれだけ重くのしかかったことだろう。
相手の言葉の裏に、おそらく里奈の立場を皮肉ったものが含まれていたのだろう。それに気づかずに、里奈は真正面から返答し、それが傲慢な態度に受け止められてしまった――きっとそんなところだろう。里奈は、自分が皮肉られていたことには眼を伏せて、その友人を傷つけてしまったことだけを深く心に刻んで生きてきたのだ。
「私って、学校の成績はほんと、良かったと思う。だけど、それ以外のことがとても苦手だった。友達を作ったり、その友達と一緒にどこかに遊びに行ったり、そういうことができなかったの。――周りが怖かった。どこまでが本気で、どこからが嘘なのか、周りの言葉を理解できなかったの。
特待生で、先生からも一目置かれている、そんな私に周囲のひとが気を遣う。私が勉強していたら、誰も近寄ってこないし、私のそばでは静かにしてる。そしていつしか、誰も遊びにすら誘ってくれなくなった……」
自分とは違う理由であるにせよ、里奈もひとと交わることが難しい境遇にいたのだと感じた。
「まるで私のことを、腫れ物に触るような感じで扱うの。居心地なんてあったもんじゃなかったわ。まるで傷を負ったひとに対する哀れみみたいに感じた。周りに何を期待されているか、それも手に取るように分かるから、それに縛られて動くこともできなかった。
でも、本当にやりたかったのは受験のための勉強なんかじゃなかった……でも、友達も先生も親も、誰も私の本心なんて気にとめてもなかったし、もし言葉にしたら、周囲を裏切ってしまうようで、私もそれを言葉にできなかった……」
ぼくが顎を引いて応じると、里奈はぼくの胸に顔を埋めて泣いた。
もし同じ高校に通い、ぼくがもう少し早く里奈と出逢っていたら、そして、話をしていたら――もし同じ高校に通っていたとしても、それはきっと無理だったのだろうけど――もしかしたら、ぼくらは長いあいだ、苦痛に耐える必要はなかったのかもしれない。そう思うと悲しみと歯痒さで涙が零れそうになった。
「本当は、わたし、こんな大学に来たくなかった。みんなと同じように学業なんてほったらかして、いろんなひとと、たくさん自由に話をしたかった。小さい頃から、周囲から押しつけられたレールの上を歩かされて育ったわたしには、別の選択肢が見えなかったの」
喉から絞り出すような声で彼女はそう告白しながら、ぼくを両手で強く抱きしめた。
まるで自分のことを訊いているようだった。ひとに避けられる自分。周りとうまく会話のできない自分。友人の裏側を知ってしまった自分。
月が雲に隠れ、窓から射す光がしだいに不鮮明になり、室内の闇がゆっくりと濃さを増していく。
「ヒロを見たとき、なんとなく分かった。あ、このひとは私と同じ人種だ。ひとに壁を作られて上手く話せないんだ、って。だからいつか絶対に話しかけようと思ってた。ほんとはもっと、最初からいろんなことを共有したかった」
ぼくは、図書館の前で里奈と会話したことを思い出していた。
あの日、里奈はひとつだけ嘘をついていた。
里奈は、ぼくが図書館に近づいているのに気づいていた。一瞬だけ眼が合ったからだ。でも里奈は素知らぬふりをして、雨雲をふたたび見上げたのだ。だからこそぼくも、図書館になかなか入る気になれず、立ち往生してしまっていたのだ。そして、ぼくに話しかけてきた里奈の声は、微かに震えていた。あのとき、里奈もぼくのことを、本心では怖れていたのかもしれない。親しいひとの裏を見てしまったトラウマが否応なく恐怖を感じさせるのだ。
「ヒロと話しているとき、最初は緊張したけど、すぐに素直になれた。なんでも話せると思えた。ほんとよ? 自分からあんなにお話ししたのは久しぶりだったわ。もう何を話したか忘れちゃったくらい、勝手に言葉が溢れて出てくるの――すごく楽しかった」
その言葉を聞いて、ヒロは鼻の奥がじんと痛んだ。その痛みをむりやり抑え込んでぼくは笑ってみせたが、眼から痛みが溢れ、体が震えてしまった。
自分はひとと会話をする能力を失ってしまったと思っていた。だからもちろん、ひとと交わることも、まして楽しませることなど、できないと悩んでいた。それを真っ向から否定してくれた里奈の言葉が嬉しかった。
里奈が顔を上げた。
ぼくは、今まで隠していたことを告白した。友人と呼べる存在がいなかったこと、親さえも信頼できなくなり、他人とどうやってコミュニケーションをとればいいのか分からなくなっていたこと。親元に居続けるのが嫌になり、ひとりになるために東京の大学を受験したこと。髪を伸ばした理由。――それから、里奈に一目惚れしていたことも。
それを訊いた里奈は、小さい声で、ありがとうとだけ答えてくれた。それで十分だった。飾った言葉で脚色されるよりも、短い単語が、より真実みを伴ってぼくの胸に納まった。そのまま二人は小さく短いキスをした。
しばらくのあいだ、静寂が部屋を支配した。静謐な暗闇に、ぼくは暖かみを感じていた。
雲が流れたのか、月明かりが部屋にもどった。
ヒロの胸に顔を埋めていた里奈が、手の甲で涙を拭い、顔をあげた。
「――で、ヒロにもうひとつだけ訊きたいことがあるんだけど」
強引に茶目っ気を押し出したような声だった。
「なんだい? もう全部話しちゃったと思うけど」
ぼくも敢えて、今までのやりとりを忘れてしまったような声で応えてみせる。
「最初に話した噂のことよ」
「ぼくが、何もない左手首を眺めて、おまじないみたいなことやってるってやつ?」
「そう、そのこと。なんで左手首を見るの? 別に傷もないみたいだし。もういいでしょ? 本当のことを教えてよ」
そう言いながら里奈がぼくの左手首を覗き込む。
「それが不思議でしかたなくて、わたし、思い切って図書館の前であなたに声を掛けたのよ」
話の種になると思って、と今更ながら恥ずかしそうに言い、里奈が布団を顎まで上げて笑みを浮かべた。
ぼくは、おかしくなって、大笑いした。
彼女も、何かの意図があってぼくが左腕に視線を落としている、という噂を信じていたのだ。二人が深い部分で通じ合えたのだと思った矢先に、こんなに浅くて低いレベルのところで、共通認識を持てずにいたことが発覚したのだ。深く暗い緊張が一気に途切れて、気が楽になった気がした。
「だからそれは、腕時計を見ていたんだって。きっと、噂の発信者には、腕時計が何かの陰になって見えなかったんだよ」
そう受け流しながら、ぼくは、横になっている里奈の上に、左腕をかざして見せた。そこには、叔父から譲り受けたシルバーの腕時計が、窓から入る月の光を受けて鈍く光っていた。ぼくは自慢げに、そばに横たわっている里奈に向き直る。ね? と、合図するように首を傾げてみせた。
里奈がくすくすと笑った。
「だから、それが変だ、って言ってるのよ」
続く言葉にヒロは耳を疑った。
「今も、腕時計してないじゃない」
.#6
ぼくは絶句した。
里奈が、冗談を言っているのだと思った。
確かに今、ぼくの眼には叔父からもらった腕時計が映っている。月明かりの、鈍い照りかえしも確認できる。ぼくは、腕時計と里奈の顔を交互に見た。シルバーで黒革のバンドの古びた腕時計が、里奈の視界には存在していないとでもいうのだろうか。ぼくは、左手で体を支えて上体を起こして、急いで腕時計を腕から外し、ベッドに横たわっている里奈の眼の前に、それをかざして見せた。
「いま、里奈の眼の前に腕時計を吊るしてるんだけど……見えないのか?」
里奈の口が軽く引きつった。
「……なに馬鹿なこと言ってるの? パントマイムの練習でもしてるつもり?」
里奈は首を傾げて笑ってみせた。が、ぼくの真剣な態度に、次第に表情が消えていった。
あるひとの眼には見え、またあるひとの網膜には映らないような物質が、この世に存在するのだろうか。
「ほんとに……ほんとに、ヒロには見えているの?」
表情を堅くして、ぼくはゆっくりと頷いた。
そして、叔父との約束を思い出していた。
.#7
翌朝、叔父の墓へと向かうべく、ぼくはひとり東京駅にいた。
大学進学の際に、父親に買ってもらった補聴器は、敢えて外してきた。だから今日は、髪で耳を覆う必要はない。
耳が聞こえないことを、他人に知られるのが怖かった。里奈が、ぼくに話しかけるのが怖かったのと理由は同じだ。
ぼくには、耳が聞こえない時期があった。正確には今でも聴力は回復しておらず、補聴器がなければ、誰かの声がぼくの耳に届くことはない。
ぼくは、熱病の後遺症で聴力を失った。高校三年の初秋だった。家が貧しかったため、補聴器をすぐに用意できず、ぼくは耳が聞こえないまま数ヶ月間の高校生活を強いられることとなった。ぼくは次第に孤立していった。
そのことを里奈に初めて話したとき、里奈は、なるほどね、と合点したようだった。ぼくがひとと交わるのを苦手とする原因を、やはりそこに特定したようだった。それは半分正解で、半分誤答だった。
耳の自由を失ってからの通学は、不安の塊だった。道路を歩いていても、車や自転車の走行音が聞こえない。そのため常に、横や後に視線を巡らせる必要があった。事実、何度か交差点で、後方から突進してきた自転車の進路を遮り、ぶつかって怪我をした。横断歩道を渡るときに、トラックの後輪に巻き込まれそうになったこともある。
教室へ着いてもクラスメイトや先生の声が聞こえない。クラスメイトや先生に後遺症のことは伝えてあったが、それで不自由が解決されるわけではなかった。
ぼくは先生の板書だけを頼りに授業を受けた。高校のカリキュラム自体は、すべて消化していたため、文字だけでも学習は可能だった。しかし、無音の授業を受けていると、自分だけが、ぶ厚い透明な壁に囲われてしまっているような孤独さを感じた。
授業の合間の休憩と昼休みは、苦痛以外のなにものでもなかった。みなが楽しそうに話しをしていても、ぼくはそこに加わることはできないのだ。最初のうちは、幾人かが筆談で話しかけてきてくれたが、面倒を感じたのだろう、しだいに誰も、ぼくの席に近づかなくなった。大学受験に向けての勉強で、みな気忙しかったのも、きっとあるのだろう。学校が終わっても、友人らは話しかけてこなくなった。
ぼくはゆっくりと、しかし確実に、深く暗い孤独の闇に包まれていった。ぼくの周囲一メートルがしだいに色を失っていくように。そして最後には、ぼく自身が透明に塗りつぶされていくように。
ぼくが周囲との交友を絶ち、少し経ったころから周囲の対応に異変が起きた。つまり、受験勉強のストレスのはけ口にされるようになったのだ。そっと後ろに近づかれ、急に羽交い締めにされたりした。『担任がお前を呼んでるって校内放送が流れてるぜ』と書かれた紙を渡されたため、職員室へ行ってみると先生はおらず、仕方なく教室に戻ると担任が教壇で授業を始めていたこともあった。紙を渡してきた友人を睨みつけると、彼は一瞬だけ眼を合わせ薄汚い笑みを浮かべた。
耳が聞こえなくなると、しゃべる言葉も不明瞭になる。それを、まるで動物のようだと、クラスメイトらは、ぼくをからかった。
きっとみな、受験勉強でストレスが溜まっていたのだろうと思う。そう考えないと、自分が壊れそうだった。
それから、クラスメイトの笑顔が、怖くなった。もしかしたら、自分が笑われているのではないだろうか。また、なにか悪戯をされるのではなかろうか。孤独よりも悪質な不安が、身体にまとわりついて離れなかった。
耳が聞こえなくなり、親でさえも、ぼくと顔を合わせる数が減った。両親が心に抱いていた期待が、失望へと変わったのだろう。申し訳ない気持ちが、あのときのぼくの部屋には充満していた。
耳が聞こえなくなり、ぼくは、ほとんどすべてを失った。そんなぼくの相手をしてくれたのが、叔父だった。
――ひとつだけ約束をしてくれないか。
メモ用紙にそう書いて渡してきた叔父の温かく優しげな顔を、今でもはっきりと思い出せる。
東京駅から新幹線に一時間ほど乗り、ローカル線に乗り換え、さらに三十分ほど電車に揺られた先の駅に叔父の墓はある。
窓外を左から右に流れていく光景は、樹木や枯れ葉の褐色から、しだいに白い雪景色へと移り変わっていく。
ぼくは新幹線の車中で叔父との約束のことを思い出していた。約束を持ちかけた叔父は、その日はそれきり何も言わずにぼくを家に帰らせた。翌日にまた叔父の家に行くと、封筒を手渡された。中身を取り出すよう促され、封筒に手を入れると、それは手紙だった。今、手許にあるのがそれだ。紙の端は黄色く色褪せ、やすりで削ったように折り目は擦れているが、強い力で、判を押すように、丁寧に書かれた文字は、紙の裏から見てもくっきりと約束の重要さを主張している。ぼくは三つ折りにされたそれを開いた。
***
『ヒロちゃんにこんなに長い手紙を書くのは、これが最初で最後だろう。だから、面倒がらずにきちんと読んで、しっかりと私の気持ちを理解してほしい。
話しておきたいのは、ヒロちゃんに譲る、腕時計のことだ。
この時計は、私の傑作中の傑作だ。わしの手作りで、世界にひとつしかない。値札がついてないのは、非売品だからだよ。この時計だけは手放したくなかった。私はこの時計を誰にも譲りたくなかった。
昔、私にも好きになったひとがいた。ヒロちゃんよりも、もうちょっと背が伸びた頃だった。まだヒロちゃんは経験したことがないかもしれないが、世の中には、このひとを幸せにしたい、誰にも渡したくない、そう自分に思わせてくれる女のひとが、必ず存在するんだよ。私は、その女性に出逢うことができた。その女性と一緒にこれからの人生をともに過ごせたらどんなに幸せか。そう心に感じた。それで私は、自作の時計をプレゼントすることに決めた。一緒にこれからの時間を紡いでいくことを約束するには、最適な品だと思った。
彼女と私をつなぐための、最高の道具として、一心にこの時計をこしらえた。最初から最後まで自分の手で製作したのは、それが初めてだったよ。出来あがったとき、それはどんな高価な時計よりも彼女にふさわしいと自負していた。私は、この時計とともにわしの気持ちを伝えようと決心した。
しかし、彼女が時計を受け取ってくれなかった。いや、受け取ることができなくなった、というほうが正しいだろう。
彼女は、わしが気持ちを伝える前に、この世を旅立ってしまった』
その女性は、叔父との約束の店に向かう途中、交通事故に遭いそのまま命を落としたのだという。叔父がそれを知ったのは、彼女が冷たくなってからだったらしい。
叔父の部屋で手紙のその部分まで読んだとき、ふと涙が出そうになった。椅子に腰掛けている叔父を見やると、ぼくから顔を背けるように、叔父が窓外の景色に眼を移したのを覚えている。叔父の背中は、逆光に黒く光っていた。
『わしは愕然とした。この世からいちばん大切なひとが消えてしまった。気が狂いそうにもなった。必死で彼女のためにこしらえた腕時計だった。しかし、それ以後は彼女を失った悲しみが、耐えられない苦痛が、全身を貫いた。心の中で悲鳴をあげる日々が続いた。
受け取り手のいなくなったこの腕時計を、わしは捨ててしまおうとも思った。私と彼女をつなぐためにと、心を込めた私の傑作は、無用の長物になった。誰に渡すこともない、誰をつなぐこともない、誰にふさわしくもない。この世に存在する理由がなくなったと言ってもいい。
だが、どうしても捨てられなかった。何度もゴミ箱に放り込んでは、堪えきれずにゴミ箱を漁って拾い戻し、そんな自分に嫌気が差して床に放り投げては、新たな傷が付いたそれを慌てて手にとって、さらに深く心に傷が刻まれた。いつまでも、気持ちの整理をつけることができなかった。
しかたなく、ショーウインドウの端っこに、私はそれを置いておくことにした』
そのときの叔父は窓辺で口元を緩めており、笑っているようにも、泣いているようにも見えた。手紙だけを渡されたぼくは、そのとき叔父に質問をすることもできず、ただ読み進めるしかなかった。
『ある夜のことだ。そろそろ店を閉めようと、椅子から立ち上がり店の入口へ向かおうとしたところ、客が入ってきた。
ネクタイを締めて、年のころは三十手前くらい。遅い時間に仕事帰りなのだろう、疲れたような、悲しそうな顔をしていた。私はその客が出て行ったら店を閉めることにして、椅子に座りなおした。その客は、店をぐるりと見回すと、向かって左側のショーケースへと進み、腰をかがめて商品を眺めだした。そのショーケースには、女性ものの腕時計が並べられている。自分の時計を買いにきたのではないのだとわかった。
彼の眼は真剣な視線を発していた。彼にとって気軽な買い物ではないのだな、と私はすぐに悟った。腕時計は、ときには高級で重要なプレゼントとして扱われるものなんだよ。
気になって、私は彼をずっと観察していた。スーツ姿のその男は、右側から順に商品を見定めていき、いちばん奥まで行ったところで立ち止まり、ショーケースに身を寄せた。そしてこちらを向いた。
嫌な予感がした。そして私の予感は、的中した。
ショーケースの端っこに並べておいた、あの腕時計を、購入したいとその男は言った。値札が付いていないが非売品でしょうか、とも心配そうに訊ねてきた。
バンドもすり切れていて、フェイスにも傷が入っている、明らかに新品ではないその腕時計を、買いたいというのだ。
わしは驚き、迷った。それを売り払ってしまうことは、身を裂かれることと同じような気がした。この世から旅立ってしまったが、今となっては好いた女性と私とをつなぐ唯一のもの、かけがえのない糸なのだ。それがどれだけ細くてもろい糸であったとしても、私はそれを自ら断ち切ってしまうことが怖かった。
捨てることもできず、しかし眼にすると湧いてくる悲しみにも耐えきれない。結局わしはその時計を持てあましていたのだ。……まだヒロちゃんには難しい話しかもしれん』
今のぼくなら、その気持ちの片鱗くらいは理解できるかもしれない、と思った。
『わしは、なぜその時計を欲しいと思ったのか、彼に訊ねた。突然の質問に彼は戸惑い、しばらく答えを言いあぐねている様子だった。その答えしだいで、この時計を譲るかどうかを決めよう、と私は彼に突きつけた。彼は、それで意を決した様子だった。私の眼を正面から見据え、こう答えたのだ。
――私の、大事な女性に、プレゼントしたいんです。
わしはその答えに、怒りを感じた。からかっているのか。傷が入って、擦り切れた、古ぼけた腕時計をもらって、誰が嬉しがろうか、と怒鳴ろうとした。
しかし彼はすぐに、言葉を継いだ。
――私自身、なぜそう思うのか分からないのですが――
そう前置きをして、彼は続けた。
――この時計には、職人の心が、強く込められているように思えるのです。長い時間をかけて、大切な想いが込められているように感じるのです。
彼の眼は、しっかりと私を見据えていた。私を見つめる瞳には、疑念や迷いのひとつも感じ取れなかった。まっすぐで、実直で、嘘偽りのない瞳だった。
ああ、とわしは思わず声をもらしていたよ。ああ、そういうことだったのだ、と。そして、肩の力が抜けた。そういう意味だったのだ、と思い出した。
――この時計には、優しさが溢れています。この時計が、彼女への、ぼくの気持ちを表現するのにぴったりなんです。
彼の真摯な言葉を聞いて、後悔はなかった。
わしの作った腕時計が、誰かと誰かをつなぐ役目をしてくれるのなら、それでいいじゃないか、と。この腕時計が、もともとの役目を果たそうとしているのだ。
私は彼に感謝した。この世を去った彼女を想う気持ちが今も変わらないことに、私は気づくことができた。あれは傑作だった。だが、あれは目的を持つのだった、と。
わしは、腕時計を彼に譲ることにした。
――そう、たしかにわしは腕時計をその男に譲ったはずだった』
ここまで読んだところで、新幹線が連絡駅に到着した。
蒸気の抜ける振動とともに、乗降ドアがガタンと開き、ぼくはホームに降り立った。涼しげな風が、ぼくの体をさらっていった。遠くに見える山々が、眼にやさしい光を届ける。ぼくは軽く背伸びをして、改札へと向かった。
新幹線の改札を抜けると、目的のローカル線はすぐに見つかった。ちょうど停車していた電車の行き先を確認し、ぼくはそれに乗り込んだ。木製の座椅子は尻に硬かったが、懐かしい匂いがした。手荷物を隣の座席に載せる。ぼくの他にも、この車両に数名の客が乗っていた。口髭を生やした登山家らしき格好の男性や、近くに学校があるのだろうか、ボロボロのランドセルを抱えた女の子がひとり、通路の向かいに座っている。
ぼくは改めて手紙を取り出し、続きを読んだ。
『それからしばらくは、時計のことが頭から離れなかった。私が心を込めて作った時計が見知らぬひとの腕に巻かれる。悄然とした気分が続いた。何も手につかない日もあった。頭では納得しても、心はそう簡単に納得してはくれない。それなら時間をかけて、ゆっくりと気持ちを整理していけばいい。私はそう考えて、気持ちを落ち着けていた。そんな不安定に揺れる気持ちのまま、店の奥で項垂れていると、ある日、流れの客が入ってきた。商品を物色しているようだったが、私は客の相手をする気にもなれず、店の奥でぼーっとしていた。
――ご主人、この時計をくれないか。
その声にはこちらも顔を出さない訳にはいかず、私はサンダルをつっかけてショーケースの鍵を手に取り、店へと重い足を運んだ。
その客は、ショーケースの端っこを指さして、立っていた。そこにあった時計は先日、あの彼に譲ったはずだった。そして、もちろん新たに作って補充などはしていないし、できるわけもない。つまり、そこには何もないはずだった。
だが私は、その客が指さす先を見て、眼を剥いた。譲ったはずの腕時計が、ショーケースの端にあったのだ。前日まで、いや、おそらくほんのさっきまで、そこには存在しなかったはずのものが、わしの眼に映っていたのだ』
叔父の腕時計がどうやって戻ってきたのだろうか。いや、再び存在しえたと表現したほうがまだ幾分か正確かもしれない。いずれにせよその理由は分からない。しかし、その意味は、感じることができた。きっと叔父の作った腕時計が、必要とされたのだ。
『わしは眼を疑い、あっけにとられた。無いはずのものが眼の前にあるのだから、それはもう驚いた。しかし、時計がそこにある意味は、自然と身に染みるように感じる事ができた。ああ、そういうことか、と。私は、なぜか嬉しかった。時計がそこに再び存在していたことが嬉しいのではない。その時計が、また誰かに必要とされていることが、わしの心を落ち着かせてくれた。
わしは、ためらうことなく、その男にその腕時計を譲った。
それから何度か、「見える」客が来た。その度にわしはそれを譲った。もともと無いものなのだから、お金も受け取らなかった。なんのためにかは分からんが、きっとそれが必要とされているのだろう、と理解した。わしの傑作が、幻であっても、なんであったとしても、誰かの中に存在し、それが必要とされている。いつのまにか、それが喜びに変わっていった』
その手紙のページを繰ったとき、叔父はどんな顔をしていただろう。ぼくは頭の中の記憶を巻き戻してみた。叔父はこちらを一瞥もせずに、窓外の景色を眺めて眼を細めたり、椅子に座ってキセルをふかしたりしていた。が、そのときの叔父の表情だけはどうしても思い出せなかった。素知らぬ顔をしていたようにも、眠っていたようにも思える。長い時が、記憶を霞ませている。
『そして今、ヒロちゃんが「見える」客として、私の眼の前にいるわけだ。この腕時計を、ヒロちゃんにも、もちろん譲るつもりだ。しかし、ひとつだけ約束して欲しい。これは重要な約束だ。絶対に守ってほしい。
――ヒロちゃんが、この時計を必要としなくなったら、この時計を私に返してほしいんだ。この時計が約束を果たしたとき。そのときでいいから」
***
手紙を読み終えると、ちょうど目的の駅に着いた。手紙をバッグに詰め込み、急いで電車を降りる。
少し標高が高いためか、風は強く、冷たかったが、雲ひとつない晴れ空だった。空は少しずつ、夜の翳りを見せはじめている。深く息を吸うと、心地よい冷気が肺に拡がった。
緑のフェンスで電車のレールと歩道が仕切られ、歩道のひび割れから雑草が茂る田舎道を北に歩く。その先の小高い丘の上に墓園があり、敷地の右奥に、叔父の墓石が鎮座していた。
ぼくは墓石に花を供えた。紫の花弁が小ぶりな花で、優しげな叔父によく似合うと思った。
叔父の作り上げたものの正体は「きっかけ」だったのだろうと思う。
なにかしら大事な言葉を伝えたり、関係を持ちたかったり、コミュニケーションを取りたかったり、でもそれができないでいるひとたちのために、勇気を与え、あるいは出逢いをみちびく。そういった不思議な力が、腕時計に、叔父の想いとともに埋められていたのではないだろうか。
現に、ぼくはこの腕時計がきっかけで、里奈と出逢うことができた。
ぼくは、時計のことを調べようと向かった先の図書館に、里奈がいた。
里奈は、左手首を眺めるぼくを不思議に感じて、声を掛けようと決心したと言っていた。
つまり、腕時計がなければ、ぼくは図書館へ向かわなかったし、里奈もぼくに、声を掛ける勇気は出なかったかもしれない。ぼくらが、縛られた世界から解放されるために、腕時計は大きなきっかけとなっていたのではないだろうか。もちろん、単なる偶然かもしれない。しかし、偶然であったとしても、この腕時計への感謝の気持ちは変わらない。
互いに打ち解けあい、新しい関係を、そして新しい自分を構築できた今、この時計の役目は終わったのだと感じた。つまり、次の誰かに、新たなきっかけを与えるため、叔父に返さなければならないということだ。
陽は傾き、墓地を囲む柵の近くで、橙色に染められたすすきが揺れている。墓石の前で線香を点すと、墓石の影に薄明かりが拡がった。
ぼくは手を合わせ、叔父を思った。さわさわと風に擦れ合う下草の匂いだけが辺りを包んでいた。
瞼の裏に浮かんでくる叔父に対してお礼の言葉を伝えた。
あの頃のぼくは、誰も信じられず、ひとと交わる勇気もなくしていた。そして自分の人生を諦めかけていた。暗闇の無関心な空気の中で、ひっそりと生きていければそれでよい。そう思っていた。そんなぼくを、明るい日差しの下にすくい上げてくれたのは、叔父の腕時計、叔父の想いだったのだ。
そよ風が睫を撫でていき、ぼくは薄く眼を開いた。
左腕に巻かれたそれを外し、墓石の上に載せる。しだいに腕時計が透明度を増していき、ぼくの視界から薄らいで、やがて消えた。不思議と、その現象を自然に受け入れている自分がいた。
叔父との約束を果たし、安堵した。
その瞬間、突然なにかが胸を、強く締めつけた。不意に、胸の奥が総毛立つ。
それは、悲しみだった。
そのときになって初めて、ぼくは気づいたのだ。もうひとつの重大なことに。
腕時計がつないでいたのは、ぼくと里奈だけではなかった。
ぼくの生活の中には、いつも叔父がいたのだ。亡くなったあとも、叔父は腕時計を通して、ずっとぼくを見守っていてくれたのだ。
背中が震え、鼻から眼頭に温かいものがこみ上げてくる。
叔父が生きていた頃に語ってくれた、いろいろなことがいっせいに思い出される。いじめられ、誰にも言えない悲しみや苦しみに苛まれていたころ、孤独に倒れそうなぼくを支えてくれた叔父の言葉が、ひとつひとつ頭によみがえってくる。
ぼくは膝から崩れ落ち、台石に手をついて大声を出して泣いていた。大粒の涙が滑らかな墓石の表面で弾ける。線香の香りが、暖かく漂う中、手のひらは冷たく硬い石の感触を受け止め、手の甲には温かい雫が、止めどなく、ぽつりぽつりと垂れてくる。
死とは、命が落とすことではない。
死とは、喪失感なのだ。ぼくは腕時計が消えていくのを見て、初めて叔父がいないことを実感した。
ぼくは、ゆっくりと立ち上がり、暮色の空を見上げる。
黄昏の空はどこまでも大きく、そのどこかにいる叔父に思いを馳せる。丘の下に、点々と灯りが点りだす。その灯りの一つひとつに、暖かな絆があることを想像し、穏やかな気持ちが拡がる。そこに悲しみは微塵もない。ぼくの胸は、ぼくを心から支えてくれた人、信じて一緒にいてくれるひとの優しさで、いっぱいになる。
これから先もまた、つらい別れに遭うことがあるだろう。悲しい涙を流すこともあるだろう。しかし、その別れを決して忘れてはならない。どんなにつらいことがあっても、空から見守ってくれている誰かがいるのだから。
空に向かって、ぼくは告げた。
――ありがとう、ぼくはもう大丈夫だよ。