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どうしてくれるんだ、クソ親父!! ~異世界で親父が世界を救うたび、なぜか日本がファンタジー化していく~

作者: 秋月キアラ
掲載日:2026/08/15

 親父が異世界へ行ったのは、俺が六歳のときだった。


 朝だった。


 母さんが味噌汁をよそい、俺は食パンに苺ジャムを塗っていた。


 親父はネクタイを締めながら玄関へ向かい、まるで「会社行ってくる」とでも言うような調子で言った。


「じゃ、ちょっと異世界、行ってくる」


 母さんは鍋から顔も上げなかった。


「帰りに牛乳」


「向こうにあったらな」


「コンビニで買え」


「はいはい」


 俺は笑った。


 親父は昔からそういう人だった。


 ゴミ捨てへ行くときは「魔王倒してくる」。


 町内会へ行くときは「王国会議に呼ばれた」。


 ホームセンターへ行くだけなのに「聖剣の材料を探してくる」。


 だから俺も、


「おみやげ!」


 と叫んだ。


 親父は靴を履きながら振り返った。


「ドラゴンの牙でいいか?」


「ゲーム!」


「異世界にゲームあったらな」


「ないじゃん!」


「じゃあ作ってくる」


 そう言って、俺の頭をぐしゃぐしゃ撫でた。


「留守頼んだぞ」


「やだ」


「頼んだ」


 親父がドアを開ける。


 一瞬。


 廊下の向こうが真っ白になった。


 朝日だと思った。


 少なくとも、そのときは。


 ドアが閉まった。


 二秒後。


 母さんが言った。


「あの人、お弁当忘れてる」


 俺は弁当箱を持って玄関を飛び出した。


「パパー!」


 誰もいなかった。


 廊下にも。


 階段にも。


 エレベーターにも。


 防犯カメラには、親父が部屋を出るところまでは映っていた。


 だが、その先がない。


 五階の廊下を歩き、カメラの死角へ入る。


 そこから先。


 親父はこの世界から消えていた。


 残っていたのは、


 片方の革靴だけだった。


     ◇


 一年探した。


 二年探した。


 三年目には、親戚も親父の話をしなくなった。


 警察は失踪事件として扱い続けたが、手掛かりは一つも出なかった。


 母さんは死亡届を出さなかった。


「だって、あの人が本当に異世界から帰ってきたとき、戸籍まで死んでたら面倒でしょ」


 冗談だったのだと思う。


 そう言って笑ったあと、母さんはいつも少しだけ黙った。


 最初の手紙が届いたのは、親父が消れて一年と三ヶ月後だった。


 切手もない。


 消印もない。


 紙は黄色くて、ごわごわしていた。


 宛名は、


『浩太へ』


 親父の字だった。


 中には一枚。


『浩太へ。


 元気か。


 本当に異世界だった。


 父さんもびっくりしている。』


 俺と母さんは、食卓でそれを読んだ。


 一度読み終えて。


 二人でもう一度読んだ。


『言葉はなぜか通じる。


 剣と魔法がある。


 ドラゴンも見た。


 ゲームはない。


 約束したので作れないか考えている。


 こっちの飯はびっくりするくらいまずい。


 昨日、卵と油と酢があったからマヨネーズを作った。


 村中で大騒ぎになった。


 領主まで買いに来た。


 ひょっとすると父さん、商売できるかもしれない。


 母さんに、牛乳はまだ見つからないと伝えてくれ。


 父より』


 母さんは手紙を机へ置いた。


「あの馬鹿」


 笑った。


 そのあと、泣いた。


 俺も泣いた。


 親父は生きていた。


 異世界で。


 何をどうしたらそうなるのかは知らない。


 だが生きていた。


 その夜は、それだけでよかった。


 翌日の夕方までは。


     ◇


 学校帰り。


 母さんに頼まれてスーパーへ卵を買いに行った。


 調味料売り場を通りかかって、足が止まった。


 棚一面に、見たことのない白いボトルが並んでいた。


《白月ソース》


 月を抱いた妖精の絵。


《発売四十三周年》


《日本の食卓に、いつもの味》


 一本取る。


 原材料。


 食用油脂。


 卵黄。


 醸造酢。


 塩。


 香辛料。


 どう見てもマヨネーズだった。


「……なんだこれ」


 隣で買い物をしていた母さんが振り返った。


「何って、白月ソース」


「知らない」


「は?」


「こんなの昨日なかった」


 母さんは怪訝な顔をした。


「昔からあるじゃない」


「ないよ」


「浩太、好きでしょう」


「好きじゃない」


「朝もパンにつけてたじゃない」


「苺ジャムだった!」


 母さんが笑う。


「何言ってんの」


 家へ帰るとテレビでCMが流れた。


『し~ろいお月さま~、お料理に~♪』


 母さんが普通に口ずさんだ。


 俺はテレビを見た。


 母さんを見た。


 親父の手紙を見た。


『昨日、卵と油と酢があったからマヨネーズを作った。』


 翌朝。


 母さんは台所で白月ソースを使っていた。


「母さん」


「ん?」


「昨日のこと覚えてる?」


「何?」


「白月ソース」


 母さんの手が止まった。


 数秒。


 目の奥に何かが戻ってきた。


「……あ」


 それだけ言った。


 冷蔵庫の白いボトルを見る。


「なかった」


「だよね」


「昨日まで、こんなのなかった」


 俺たちは顔を見合わせた。


 この日から、我が家には一つの決まりができた。


 親父から手紙が来たら、


 翌日は世界を疑え。


     ◇


 三年後。


『こっちは衛生状態が悪い。


 石鹸を大量に作れるようにした。


 手洗いも教えている。


 最初は水がもったいないと怒られたけど、最近はみんなやるようになった。


 浩太もちゃんと手洗えよ。


 父より』


 翌朝。


 ドラッグストアの棚に、


《初級治癒液》


 が並んでいた。


 青い小瓶。


 三百九十八円。


 擦り傷。


 切り傷。


 軽度の火傷。


 俺は店員に訊いた。


「これ何ですか」


「ポーションです」


「薬じゃなくて?」


「医薬部外品ですね」


「いつから売ってます?」


「え?」


「ポーションです」


「昔からありますよ」


 店員は真顔だった。


 俺は家へ帰って母さんへ報告した。


 母さんは頭を抱えた。


「あの人、人助けするたびにこっちがおかしくなってない?」


「たぶん」


「もう何もするなって言えないの?」


「こっちから手紙送れない」


「役に立たない異世界通信ね」


 次。


『村の子供たちに字と計算を教えていたら学校みたいになった。


 王都の役人が真似したいと言っている。』


 翌年。


 小学校の時間割に、


 国語。


 算数。


 理科。


 社会。


 魔法基礎。


 が並んだ。


「はい、二人組作って。今日は初級魔力球の受け渡しね」


 先生が言った。


 隣の田中が手のひらに青い球を浮かべる。


「浩太、やろうぜ」


「お前、それいつからできるんだ」


「三年から」


「今三年だろ」


「だから今年から」


「昨日まで魔法という科目そのものがなかった!」


 田中は黙った。


 それから少し席を離した。


 俺はその年、


《現実改変妄想傾向あり》


 という理由でスクールカウンセラーと話すことになった。


 当然、そのカウンセラーは、


「魔法教育は明治時代から段階的に制度化されてきたんだよ」


 と優しく教えてくれた。


 お前の明治はどうなってるんだ。


     ◇


 親父は止まらなかった。


『輪作を教えた。飢えが減りそうだ。』


 翌日。


 スーパーにマンドラゴラが並んだ。


《長野県産》


《一本198円》


《調理前に必ず気絶させてください》


『魔物退治する奴らがバラバラだから、組合を作った。依頼を掲示板に貼って、危険度別にランクをつけた。』


 翌日。


 駅前の銀行が、


《日本冒険者協会 厚木支部》


 になった。


 受付嬢が笑顔で訊く。


「登録ですか? ご依頼ですか?」


「昨日まで銀行でしたよね」


「いいえ」


「昭和から?」


「はい」


「昭和に冒険者ギルド作るなよ……」


『遠距離連絡が大変なので、魔石を使って通信できないか試している。』


 翌朝。


 スマホの右上に、


《魔力残量 73%》


 という表示が増えた。


『鉄道っぽいものが作れそうだ。』


 JRの路線図に《竜骨線》が増えた。


『下水設備を整えた。』


 東京都が衛生スライムを導入した。


 このあたりまで来ると、もう慣れた。


 正確には、諦めた。


 ゴブリン駆除は自治体の仕事。


 飛竜事故には専用保険。


 スライムは自治体によって燃えるゴミか燃えないゴミか違う。


 国税庁には《魔石所得税Q&A》がある。


 世界はどれだけおかしくなっても、


 翌朝には、


「昔からこうでしたけど?」


 という顔をする。


 俺と母さんだけが、毎回取り残された。


 それでも、そのころはまだ笑えた。


「次は何だと思う?」


 母さんが親父の手紙を持ちながら訊く。


「活版印刷」


「こっちに妖精新聞が来る」


「農機具」


「ケンタウロス宅配便」


「上下水道」


「下水スライム」


「それ嫌ね」


 本当に来た。


 母さんは腹を抱えて笑った。


「あなたのお父さん、本当にろくなことしないわね」


「全部善意なんだけどな」


「だからたちが悪いのよ」


 そう言って。


 笑った。


     ◇


 母さんが死んだのは、俺が二十三歳のときだった。


 病気だった。


 異世界とは関係ない。


 たぶん。


 最後のころ、母さんは世界が変わる前のことを、少しずつ忘れ始めていた。


「昔って、魔法なかったっけ?」


 病室でそう訊かれたことがある。


「なかったよ」


「そうだっけ」


「なかった」


「じゃあ、私も変わってきちゃったのかな」


 少し笑った。


 枕元には親父の手紙を束ねた箱があった。


「お父さん、まだ帰ってこないね」


「うん」


「ほんと、ちょっとの長い人」


 それが最後に聞いた、親父についての言葉だった。


 母さんの葬式から半年後。


 親父から手紙が届いた。


『浩太へ。


 返事がないから少し心配している。


 母さんは元気か。


 こっちは大変だった。


 南の街にドラゴンが来た。


 でかかった。


 もう少しで死ぬところだったが、みんなで倒した。


 お前にも見せたかったよ。


 子供のころ、ドラゴン好きだっただろ。


 父より』


 仏壇の前で読んだ。


「親父」


 声が出なかった。


 母さんが死んだことを、伝える方法がない。


 手紙を仏壇に置いた。


 その翌朝。


 東京湾上空にドラゴンが現れた。


     ◇


 全長百二十メートル。


 民間機一機が回避中に着陸事故。


 死者三名。


 負傷者四十七名。


 ニュースキャスターは、


「今年三件目となる大型飛竜による航空障害です」


 と淡々と伝えた。


「今年三件目……」


 俺はテレビの前で呟いた。


 昨日まで。


 この世界には、


 ドラゴンなんていなかった。


 手元には親父の手紙。


『みんなで倒した。』


 向こうで一匹死ぬ。


 こっちで一匹現れる。


 三人死ぬ。


「ふざけんな」


 初めてだった。


 親父の手紙を握り潰したのは。


「ふざけんなよ」


 画面に、煙を上げる機体。


「何人死んだと思ってんだよ!」


 手紙を床へ叩きつけた。


 裏返った。


 まだ続きがあった。


『あれを止めなければ、街ひとつ焼かれていた。


 避難が間に合わなかった。


 怖かった。


 逃げたかった。


 でも、逃げるわけにはいかなかった。


 父さん、英雄なんて柄じゃないんだけどな。』


 俺は、その場に座った。


 何も言えなくなった。


 三人死んだ。


 向こうでは何千人かが生きた。


 だから仕方ない?


 そんな計算をしていいのか?


 異世界の命と、日本の命。


 どっちが重い?


 同じに決まっている。


 だったら。


 どっちを選べばいい?


 わからなかった。


     ◇


 俺は、親父の手紙を全部並べた。


 日付。


 出来事。


 翌日に起きた改変。


 白月ソース。


 ポーション。


 魔法教育。


 冒険者協会。


 ドラゴン。


 法則は明らかだった。


 親父が向こうへ何かを与える。


 こちらへ異世界由来の何かが流れ込む。


 ただし。


 単純な物量ではない。


 それがはっきりしたのは、二十五歳の冬だった。


『魔王軍が山を丸ごと要塞化した。


 あそこを残せば、山向こうの三つの村が砲撃される。


 仲間に頼んで、山ごと吹き飛ばした。


 やりすぎた。


 母さんに怒られそうだ。』


 その夜。


 新宿の高層ビル一棟が崩壊した。


 爆弾でも地震でもない。


 建物の構造そのものが、一瞬で破綻した。


 死者十四人。


 山一つ。


 高層ビル一棟。


 質量は釣り合っていない。


 材質も違う。


 なのに。


 どちらも、


《巨大な構造物の消失》


 だった。


 そこで初めてわかった。


「質量じゃない」


 向こうで起こした変化。


 世界に与えた影響。


 こっちへ返ってくるのは、


 それと釣り合うだけの、


《意味のある変化》。


 物ではない。


 出来事だ。


 結果だ。


 因果だ。


 俺はノートに、


《因果の質量》


 と書いた。


 その下。


《世界間等価保存則》


 と書いた。


 親父が世界を救えば。


 こちらは、その分だけ世界を壊される。


 そう考えれば、全部説明できた。


 説明できてしまった。


 そして三日後。


 最悪の手紙が届いた。


     ◇


『浩太へ。


 長かったけど、ようやく終わりそうだ。


 魔王城が見えた。』


 読み進める手が止まった。


『こいつを倒せば、たぶんこの世界は平和になる。


 王都まであと百キロ。


 これが最後の大仕事になると思う。


 終わったら日本へ帰りたい。


 お前ももう大人だろ。


 一杯くらい付き合え。』


「やめろ」


 口から出た。


「それは、やめろ」


 魔王。


 ただの生物ではない。


 一つの世界最大の敵。


 国家を滅ぼす。


 文明を脅かす。


 世界全体が共有する災厄。


《倒されるべき存在》。


 もし、それが消えるなら。


 こちらへ何が来る?


 魔王一人?


 違う。


 ここまで来ればわかる。


 やって来るのは、


 肉体ではない。


 **役割だ。**


「魔王が、こっちに来る」


 喉が乾いた。


 もっと正確には。


《魔王という因果》が来る。


     ◇


 俺は初めて、親父へ手紙を書いた。


『親父へ。


 魔王を倒すな。


 お前が向こうで何かするたび、こっちの世界が変わっている。


 マヨネーズも。


 ポーションも。


 魔法も。


 ドラゴンも。


 全部、お前だ。


 山を消したとき、こっちではビルが消えた。


 人が死んだ。


 魔王を倒したら、


 たぶんこっちに魔王が来る。


 絶対に倒すな。


 浩太』


 親父の手紙が届く郵便受けへ入れた。


 朝。


 なくなっていた。


 二日後。


 返事。


『浩太へ。


 マジか。』


「軽いな!」


 思わず叫んだ。


『というか返信できたのか。


 二十年ずっと一方的に近況報告してた俺、ちょっと恥ずかしい。』


「そこじゃねえ!」


『事情はわかった。


 でも困った。


 魔王軍がもう王都の近くまで来ている。


 今やめれば、俺は生きて帰れるかもしれない。


 ただ、王都は落ちる。


 避難民を含めて五十万人くらいいる。


 その先にも街がある。


 たぶん魔王は止まらない。


 浩太。


 お前なら、どうする?』


 俺は何度も読んだ。


 五十万人。


 知らない人間。


 知らない世界。


 だから見捨てろ。


 そう書けばいい。


 こっちの世界を守るために。


 でも。


 親父の二十年間の手紙には、名前があった。


 鍛冶屋のガラン。


 女騎士エレナ。


 弟子のリック。


 マヨネーズを食って吐いた領主。


 字を覚えた村の子供。


 ドラゴンとの戦いで死んだ仲間。


 俺は、会ったことがない。


 でも。


 もう知らない人間ではなかった。


     ◇


 その夜。


 仏壇の前に座った。


「母さん」


 写真は笑っている。


「あの馬鹿、どうすると思う?」


 答えなんてわかっていた。


 親父なら戦う。


 困ってる人間がいるなら、戦う。


 昔からそうだった。


 知らない子供が川へ落ちれば、スーツのまま飛び込んだ。


 倒れた酔っ払いを介抱して終電を逃した。


 台風の日に、隣家の屋根へブルーシートを張りに行った。


 そのたび母さんは怒った。


「あなたは家族より他人が大事なの?」


 親父は困った顔で言った。


「そうじゃないけど」


「じゃあ行かないで」


「でも困ってるし」


 母さんは最後には、


 びしょ濡れの親父へタオルを投げた。


「そういうところが嫌い」


 そして。


 たぶん。


 そういうところが好きだった。


 俺は便箋を出した。


『倒せ。』


 一行書いた。


 怖かった。


 それでも続きを書いた。


『そっちの世界は親父が救え。


 こっちは、こっちで何とかする。


 母さんは三年前に死んだ。


 病気だった。


 最後まで親父を待ってた。


 帰ってきたら一発殴る。


 だから絶対帰ってこい。


 浩太』


 最後に書き足した。


『魔王以外、持って帰ってくんな。』


 郵便受けへ入れた。


 翌朝、なくなっていた。


     ◇


 その夜。


 空が割れた。


 午後十一時三十七分。


 東京上空に黒い亀裂。


 スマートフォンがけたたましく鳴る。


《最高位魔災警報》


 昨日までなかった警報だ。


 いや。


 もう違う。


 ニュースでは、


「魔王級災害が首都圏で発生するのは慶長十二年以来――」


 専門家が説明している。


「慶長に魔王はいねえよ」


 窓の外を見る。


 空は赤い。


 月が二つある。


 新宿の向こうに、


 巨大な黒い城。


 尖塔。


 城壁。


 炎。


《魔王城、出現》


 速報の字幕。


「名前そのままかよ」


 道路を装甲車が走る。


《警視庁魔術機動隊》


《陸上自衛隊魔導即応群》


 人々は避難している。


 誰も、


「魔王って何?」


 とは訊かない。


 世界はもう、


 魔王が昔から存在したことに変わり始めている。


 俺だけが知っている。


 昨日まで。


 地球に魔王はいなかった。


 午前零時。


 世界が、


 白く光った。


 音はない。


 ただ、一瞬。


 全部が止まった。


 時計。


 車。


 風。


 テレビ画面。


 そして。


 再び動き出す。


《魔王反応、消失》


 俺は立ち上がった。


「倒した……?」


 魔王城は残っている。


 魔物もいる。


 でも。


 魔王だけがいない。


「どこだ」


 テレビ。


 東京。


 大阪。


 海外。


「どこに来た」


 ドクン。


 心臓が跳ねた。


「……え?」


 もう一度。


 ドクン。


 身体が熱い。


 頭の奥が焼ける。


 洗面所へ走る。


 鏡を見る。


 額から、


 黒い角が伸びていた。


「…………」


 触る。


 硬い。


「いや」


 もう一本。


「いやいやいや」


 瞳が金色に変わる。


 背中に黒い紋章。


 頭の中へ流れ込んでくる。


 古代呪文。


 魔族語。


 召喚術。


 何万という魔物の気配。


 魔王軍の指揮権。


 そこで理解した。


 なぜ俺だけが、


 最後まで改変前を覚えていたのか。


 親父が向こう側の錨。


 俺がこちら側の錨。


 世界間で、


 最も強く結ばれていた。


 魔王という巨大な因果を受け取るなら。


 最も都合のいい器は。


「俺かよ……」


 笑うしかなかった。


「俺なのかよ!」


 玄関のチャイムが鳴った。


 モニター。


 二メートルを超える黒鎧。


 青白い肌の女。


 巨大な狼。


『魔王様』


「違います」


『お迎えに上がりました』


「人違いです」


『魔王様』


「帰れ」


『四天王一同――』


「夜中に全員で来るな!」


 廊下から、


『魔王様がお怒りだ!』


『当然だ!』


『首を差し出すか!』


「近所迷惑だから静かにしろ!」


『はっ!』


「返事もでかい!」


 頭を抱えた。


 角が邪魔だった。


 そのとき。


 郵便受け。


 紙が落ちる音。


     ◇


『浩太へ。


 倒した。』


 俺は床へ座った。


『こっちは朝になった。


 魔王軍は止まった。


 王都も無事。


 みんな生きてる。


 世界、救えたみたいだ。』


 窓の外。


 東京に魔王城。


 上空にドラゴン。


 玄関に四天王。


 額に角。


 それでも。


「……よかったな」


 口から出た。


 本当に、


 そう思った。


『母さんのこと読んだ。


 遅くなって悪かった。


 帰ったら墓参りしたい。』


 字が少し滲んでいた。


『浩太。


 ありがとう。


 お前が倒せと言わなかったら、


 俺はたぶん迷っていた。


 お前に決めさせた。


 すまん。』


「今さら謝んな」


『それから、いい知らせがある。』


「嫌な予感しかしない」


『魔王を倒したら、


 帰還用らしい転移陣が動いた。』


「…………」


『日本に帰れそうだ。』


「待て」


『今から行く。』


「待て親父」


『一杯やろう。』


「来るな!」


『あと牛乳買って帰る。』


「そこ覚えてんのかよ!」


 手紙は終わった。


 俺は立ち上がった。


 魔王を倒した勇者。


 魔王になった息子。


 同じ世界。


 因果。


 等価交換。


「絶対ろくなことにならねえ!」


 ピンポーン。


 チャイム。


 四天王が武器を構えた。


『何者だ!』


 玄関の向こうから。


「おーい」


 俺の身体が止まった。


 二十年前。


 六歳の朝。


 最後に聞いた声。


「浩太ー」


「……」


「ただいまー」


「帰ってくんなああああああ!!」


 ドアが開く。


 白い光。


 そこから一人の男が出てきた。


 白髪交じり。


 傷だらけ。


 使い込まれた鎧。


 腰には光る剣。


 左手にはスーパーの袋。


 牛乳が一本。


「お」


 親父が俺を見た。


「でかくなったな」


 二十年前と同じ笑い方だった。


 俺も親父を見る。


 親父の目が、


 俺の額へ。


 角。


 胸元。


 魔王の紋章。


 背後。


 跪く四天王。


 沈黙。


 親父が首を傾げる。


「…………なんで魔王になってんの?」


 俺は拳を握った。


 二十年。


 言いたかったことがある。


 母さんのこと。


 俺のこと。


 どうして帰ってこなかった。


 どうして手紙だけだった。


 どんな世界だった。


 寂しくなかったのか。


 怖くなかったのか。


 全部あった。


 全部あったのに。


 口から出たのは。


「誰のせいだと思ってんだ!!」


「え、俺?」


「お前以外に誰がいる!」


「いや、父さん魔王倒しただけだけど」


「だからそれがこっちに来たんだよ!」


 親父は俺を見る。


 四天王を見る。


 また俺を見る。


「……質量保存?」


「概念まで保存すんな!!」


「なるほどな」


「納得するな!」


「でも似合ってるぞ」


「褒めんな!」


 親父が手を伸ばした。


 俺の頭を撫でようとする。


 六歳の朝と同じように。


 俺はその手を払った。


「触んな」


「あ、ごめん」


 親父の手が止まる。


 少しだけ。


 困った顔をした。


 それも。


 二十年前と同じだった。


 俺は親父を見る。


 老けた。


 傷だらけだ。


 でも。


 帰ってきた。


 本当に。


 帰ってきた。


「一発殴るって書いたよな」


「ああ」


「母さんの分」


 殴った。


「痛っ!」


「俺の分」


「二発目!?」


「世界の分!」


「それは多くない!?」


 玄関で勇者と魔王が殴り合う。


 四天王が慌てる。


『魔王様!』


『勇者を殺せ!』


「やめろ! 親子喧嘩だ!」


「そうそう、家族の問題!」


「お前が言うな!」


 しばらくして。


 俺たちは息を切らして玄関へ座り込んだ。


 親父がスーパーの袋から牛乳を出した。


「ちゃんと買ってきた」


 俺はそれを見る。


「二十年遅えよ」


「賞味期限は今日から十日ある」


「そういう意味じゃねえ」


 親父は少し黙った。


「母さん」


「うん」


「最後まで待ってた」


「……うん」


「怒ってたぞ」


「だろうな」


「帰ってきたら、まず殴るって」


「お前より多そうだな」


「当たり前だ」


 親父は牛乳を見た。


「墓に持ってくか」


「腐るだろ」


「じゃあ花にする」


「最初からそうしろ」


「向こうじゃ牛乳、けっこう高級品だったんだぞ」


「知らねえよ」


 俺は笑った。


 親父も笑った。


 窓の外では、


 ドラゴンが飛んでいた。


 遠くに魔王城がある。


 道路標識には、


《魔獣横断注意》


 が増えている。


 俺の知っていた日本は、


 もうほとんど残っていない。


 明日になれば、


 また何かが変わるかもしれない。


 いや。


 たぶん変わる。


 なぜなら。


 親父が帰ってきたからだ。


 世界を救った勇者が。


 魔王のいる世界へ。


 そして俺は、


 嫌になるほど理解していた。


 もし今後、


 この世界で誰かが困っていたら。


 親父はきっと、


 また助けに行く。


「なあ、浩太」


「何」


「魔王って、具体的に何すんの?」


「知らねえよ」


「世界征服?」


「するか」


「じゃあ困ってる魔族まとめて面倒見るとか?」


「……」


「仕事探したり」


「……」


「住む場所とか」


「黙れ」


「ん?」


 俺は額の角を押さえた。


 最悪だった。


 たぶん俺も。


 親父と同じだった。


 困ってる奴を放っておけない。


 だから俺は、


 向こうの世界を救えと言った。


 その代償を、


 自分で引き受けた。


 結局。


 俺は親父の息子だった。


 認めたくない。


 絶対に認めたくない。


 だから。


 二十年分の恨みと、


 ほんの少しの安堵を全部まとめて。


 俺は叫んだ。


「どうしてくれるんだ、クソ親父!!」


おしまい。

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