第99話:凱旋
興平元年(西暦194年)6月
兀突骨は軍を南方の防衛線に残して成都に帰還した。道行く人々は南蛮の反乱を鎮圧したと噂の兀突骨を快く歓迎しており、彼ら一行は中央の道を真っ直ぐ街の中心部に向かって歩いていった。流石に人集りが出来る程では無いが兀突骨もそこそこ人気者ではあるようである。
そして兀突骨曰く、中華の情勢が不味い為に一度帰って来ることにしたとのこと。いや、だって徐州大虐殺とか袁術と劉表の争いとか、長安陥落の後始末とかやる事は山積みじゃん? 決して一回負けて萎えたとか妻に会いたくなったとかそういうことではない。多分、きっと、メイビー。
何はともあれ、兀突骨の様子を訝しむ配下達のことは置いておいて、兀突骨は成都に到着した後久しぶりに妻達と会えることを喜んでいた。真っ先に屋敷に辿り着いた兀突骨はそのまま中に踏み込んでいく。
「ただいまー」
間延びした声で言う。すると廊下の向こうから妻達が顔を出した。
「あら、兀突骨様が帰ってきましたね」
「兀突骨っ! 無事で良かったわ!」
「ご、兀突骨。おかえり……」
蔡文姫が直ぐに駆け出して抱き着いてくる。いや、ちょっ、馬雲騄の視線が怖いから止めて。
「えっと……成都でなんか変わったことは無かった?」
「変わったこと……ですか?」
「た、確かお金の種類が変わったと思うよ」
「そうね、お金の種類も変わったし南蛮由来の食べ物とかも増えたわね。これも全部兀突骨のお陰だって聞いたけど?」
どうやら長安陥落のことは聞いていないらしい。
「そういえば天子様がこの街にやって来たって聞いたと思う」
「その噂は聞きましたね。そろそろ代替わりもするとか」
「「え?」」
兀突骨と蔡文姫が揃って素っ頓狂な声を上げる。いや蔡文姫、お前が知らなくてどうすんだ。
「え、代替わりするの?」
「そうみたいですよ。何でも劉焉様が跡を引き継ぐのだとか」
「まぁボク達はここ最近劉焉様の部下とかと話したりして仕事してるからね。蔡文姫はいつも家にいるけど」
「ち、違うわよっ! 私は家で勉強しているのであって……け、決して庭の鯉に餌をあげたりして遊んだりしているわけじゃないわ!」
オイこのポンコツ自分から罪を吐いたぞ。
「というか庭に鯉なんて居たのか?」
「そうよ! 赤と白の模様をしているのと紺色の、そして金色のが居るわ! 赤白のはいつも元気だし、紺色のは餌をあげるとすっごく喜ぶし、金色のはよく水面を跳ねたりして可愛いのよ!」
「……蔡文姫殿、何故私達ですら知らない鯉の話をそんなに詳細に知ってるんですか?」
「え、えっと……それは……」
馬雲騄に問い詰められて冷や汗をかく蔡文姫。いつも思うんだけどコイツ才女なのか? 本当に? 全く信じられないんだが。
「い、今兀突骨絶対失礼なこと考えたわよね!」
露骨に話題を逸してくる。しかも妙に鋭い。
「そんなことないよ。じゃあ取り敢えず俺は劉焉様の屋敷に向かうから」
そう誤魔化して部屋を出る。それにしても呂玲綺の人見知りっぽいのが治っていたな。俺が居ない一年位で何をしてたのかは知らないけど、かなり仲良くなったっぽい。まぁ仲が良いのは良い事だ。
ただ、長安陥落は知らないのにも拘らず献帝の御幸は知っている彼女達が現在の情勢をどう捉えているのかというのは非常に気になる。実は長安陥落も薄々感じていたりするのかもしれない。折角布岳達が伏せておいてくれているのに態々自分の口から言う必要は無いと思うが、もし蔡文姫が悲しんだりしたらと思うと少し心配になる。その時はきっと馬雲録辺りが上手く宥めてくれるだろうが、事実を隠していた不義理は何時か返さないとならないなと思いつつ、溜息を吐く。
そうして喉の奥に魚の小骨が引っ掛かったような感覚を覚えながら、兀突骨は劉焉や献帝が控えている屋敷に向かった。もし今知らなくても、暫くすれば蔡文姫も長安陥落の事を知るであろう。だが今だけでも安心させたいと考えて事実を隠す。一刻も早く長安を取り返し、蔡文姫の心配を杞憂とさせなければならないと決意して兀突骨は空を見上げた。空に昇る月は淡い光を湛えていて、まるで兀突骨を優しく見守っているようだった。