50.良妻賢母(りょうさいけんぼ)
あれから数晩が経ち、エンタクは毎日戸惑っていた。なんと言っても思いがけぬハイヤーンの独白を聞いてしまったのだから、両者の間に気まずさや遠慮がちな空気が漂ってもおかしくないと考えていたのである。
しかし現実は不思議なもので、想像とは逆に近い様子なのだ。
「ちょいとエンタク、部屋まで来ておくれよ。家具の配置を変えたいんだ」
「はいよ、今行く」
「なあなあエンタク、ハイナのところで菓子を貰って来たんだ。茶を入れるからみんなで休憩にしようよ」
「はいよ、キリのいいところまでやったら行くぜ」
万事がこんな様子なのだが、これではまるで新妻である。エンタクは夢のことをまた思いだし、もしかしていつの間にか結婚したことになる何かを言ったのではないかと振り返るが心当たりはない。第一あの麗しきハイヤーンが、エンタクのようなくたびれたオッサンと所帯を持つはずがないと考えている。
そんな昼下がりのこと、庭へとお茶を運んで行ったハイヤーンは、台所へ戻ってきてテーブルへと付いた。ここにはエンタクたちの他に風呂工事に来ているゴロチラムも一緒である。
「それにしても旦那はともかく、奥様も冒険者だなんてすげえよなあ。こんな美人がモンスターを倒すってんだから驚きだ。さすがにお嬢ちゃんは違うよな?」
「そりゃこんな子供が剣だ魔法だって暴れるはずないさね。でも木こりだって大木と戦うじゃないか。アタイらからみればそれはそれで凄いことだと思うよ?」
「こりゃ大層な世辞をありがとうごぜいやす。ガキの頃から木こりと大工をやってきてそんなことを言われたのは初めてだ。こりゃ張り切らないとバチが当たるぜ。まあ明日明後日のうちには大体仕上がりやすからご安心を。どう考えても井戸のほうが後ですからね」
「それにしても井戸掘りってのは大変なんだねえ。もう覗くのも怖いくらいに深くまで掘ってるってのにまだ水が出てこないんだと言っていたよ。でもいずれは出てくるから心配いらないとさ」
「そりゃそうでしょう。やつらは熟練の職人たちですから風呂へ引くための井戸が出来上がり、きっと奥様の希望通りとなるはずですぜ? それでもまだ幾晩もかかる見込みでしょう」
風呂はあらかじめ図った寸法に沿って材料を揃え、それを持ちこんだうえで組み立てて行く工法らしい。つまり部屋の中へ巨大な桶を作っていくと言うことだ。エンタクは最初壁を壊さないと屋内へ入れられないだろうと考えていたので、運ばれてきた資材が材木のままだったのを見て安堵していた。
だが問題はそこではない。先ほどからゴロチラムがハイヤーンのことを『奥様』と何度も呼んでいるのだが、彼女はそれを否定することも諭すこともせずそのままにこやかに話し続けている。もしかして後で文句を言うかもしれないし、その矛先がエンタクへ向くのかもしれないが、今現在そのような気配はなく困惑しきりな『くたびれたオッサン』なのである。
暗くなってくると一日の仕事は終わりを告げ、井戸掘り職人たちとも連れ立って酒場へと向かう毎日だ。もちろん気兼ねしないよう自由行動で、職人たちは勝手に飲んで喰らってから宿屋へ戻ってくるだろう。
「明日からは次の予約が入ってるだろ? しっかり食べて体力付けてしっかり働いておくれよ? アタイはまだ客に出せる料理を作れるまでにはなってなくてすまないね」
「別にすまなくなんてねえさ。もともと出来るわけじゃねえのに取り組んでんだからそれだけで立派なことさ。それに優先するのはミチュリの面倒をみることだしな」
「まあでもこの子は手がかからないんだから、そんな言い訳に使ったらかわいそうってもんさね。ここへ連れて来てからもう三十晩ほど経ったかねえ。最近は見張りも見当たらないんだろ?」
『監視がついてたのはこっちへ戻って来てから数日だけだったな。考えてたよりも大したことじゃないってことかもしれないし、どうせ話せるようにならないと思っているのかもしれないな』監視用に罠を張っているクプルが可能性を挙げた。
「まあ俺は後者だと思うね。もしものことがありゃヤツラはまとめて首ちょんぱなんだから油断するのはちと浅はかだと思うがよ。でも数年はこの状態だったんだから治るはずがねえと考えるのもわからないでもねえがな」
「この子は水辺に住むホリブンだったみたいだし、風呂が出来たら喜ぶだろうね。きっと大はしゃぎで楽しんでくれるに違いないよ」このハイヤーンの見立てになんの根拠があるのかわからなかったが、もし本当にそんなことになれば喜ばしいことなのだがと想像を膨らませるエンタクだった。
「もし水に触れたり入ったりする方がいいなら、例の泉へ連れて行くのも悪くないだろうな。明日からの仕事が終わった後に、もう一度行ってみるか。オレにとっては悪夢の地だがよ」
「アンタってホントに優しいし、いいところでいいこと言うねえ。それなのになんで今までずっと独り身なのか不思議で仕方ないよ」
「そうは言うけどオメエも知っての通り、オレは界隈でいい人じゃなくて変な人で通ってたわけだからなあ。オレをいい人だなんて言うのはそれこそオメエくれえのもんだから、自分が変人だって線を考えた方がいいぜ」
「なんだいそりゃ、もしかして照れ隠しなのかい? 案外かわいいところがあるじゃないか。男の妖精を囲ってるくらいだし、もしかしたら変人じゃなくてヘンタイかと思ったこともあったけどねえ」
『ちぇっ、オレだってふわふわもちもちの若い女が良かったってんだよ。邪魔が入ってお遊びにも行かれないしな。まったく三十路女ってのは嫉妬深くて困るぜ』
「ちょっとアンタ? そうやって憎まれ口ばかり叩いていると、コイツで羽を濡らしちゃうぞ?」ハイヤーンはジョッキをぶらぶらさせて妖精を脅しにかかる。
『それは絶対にやめてくれよ。ひと晩じゃとても乾かないんだからなぁ。しかも果実酒なんてかけられた日にはどれだけ酔っぱらうかわからないぜ』
「だったら言葉は選ぶんだね。まったく生意気なチビ助だよ。まあそれでも明日からはしっかり働いてもらってエンタクを助けてもらわないといけないから、今だけは勘弁しておくとしようか」
『そういやさ、昨日オレサマを追いだしてから何の話をしていたんだ? 今日になったら明らかに何かあったって風じゃないか。まさかオレサマを追いだしたすきに二人でベッドを揺らしてたのか? それならそれで今の態度も納得だがな』
「な、な、な、なにを、オメエは何を言い出してやがんだよ。オレはハイヤーンにそんなことしてねえからな! おい、オメエも何とか言いやがれってんだよ」慌てて否定するエンタクだったが、同意を求められた三十路女は、エンタクの願いを無視するように科を作っていた。
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りょうさい-けんぼ【良妻賢母】
夫に対してはよい妻であり、子供に対しては養育に励む賢い母であること。また、そのような人。




